8話
風を愛し、夜を駆けた。
彼は影のように現れ、痕跡も残さず消えた。
現勇者パーティの探索担当、盗賊──名を《ニクス》。
通称「夜風」。
「俺にとって、大切なものなんてこの世に三つしかねえよ」
ある夜、焚き火を囲む中で彼は言った。
ひとつは「自由」。ふたつは「自分の足」。そして最後のひとつは──
「本当の名前、だな」
誰もが冗談だと思った。ニクスはいつだって軽口ばかりだった。
陽気で、飄々としていて、戦士のリオルや僧侶のミリサにからかいながら、皆を笑わせていた。
だが、ニクスだけは笑っていなかった。夜の裏で、誰にも見えない場所で、彼はずっと逃げ続けていた。
*
ニクスの本当の名前は誰も知らない。
彼は生まれた瞬間に盗賊団に拾われ、“物”として育てられた。
名も、自由も、意志すらも与えられず──彼は生き延びた。
名を奪われた少年は、やがて“手癖”だけで生きられるようになった。
そしてある日、決意した。
──この世界から逃げよう。逃げ続けて、最後に俺の名前を、自分で決めてやるんだ。
だから彼は盗んだ。自由を。名前を。生きる意味を。
そして、いつしか「勇者の仲間」になっていた。
*
悲劇は、灰の森で起きた。
魔王軍が密かに建造していた転移塔。その中枢に、予想外の兵器があった。
古代魔導機兵──死を撒き散らす自動戦闘体。完全無人、殺戮のみを目的とした禁忌の遺産。
罠だった。
勇者たちは分断され、ニクスだけが転移装置の空間に囚われた。
「……はは、マジかよ。俺が最後ってわけか」
出口は閉ざされた。
外から操作するには中の魔核を手動で破壊するしかない。
その方法があることを彼は誰よりも早く理解していた。
なぜなら、彼はいつも誰よりも早く逃げ道を探していたから。
「自由になりたかったのにな……最後の最後で、縛られるなんて」
足音が響く。重い、鉄の巨体がゆっくりと迫る。
ニクスは笑った。
──せめて、誰にも見られずに死のう。
──せめて、最後にほんの少しだけ、誰かの役に立って。
盗賊は走る。誰よりも軽やかに、誰よりも早く。
そして魔核へと飛び込み、懐の魔晶爆弾を叩き込む。
爆光が走る。
塔が崩れる。
その瞬間、転移装置が逆流し、残された仲間たちは外へと放り出された。
塔の崩壊の中、勇者が叫ぶ。
──「ニクス!? どこだ、返事をしろ……!ニクス!!!」
返事はない。
そこに残されたのは、ニクスが残した短い遺書だけだった。
『俺は最後まで逃げたかった。だから、これは俺の逃げ道だ。
──名前は、まだ決めてないんだ。だから、いつかまた夜に会おうな』
*
誰も、彼の本当の名前を知らない。
それでも勇者は、時折風の音に耳を傾ける。
夜に吹く風が、どこか懐かしく、どこか寂しく、まるであの男の足音のように思えるから。
彼の死は、あまりにもあっけなく、あまりにも儚かった。
けれど、それは確かに世界を救う一手になった。
ただそれを、誰も知らない。