7話
人々は彼女を“聖女”と呼んだ。
薄桃色の髪と、琥珀色の瞳を持つ、神の恩寵を受けた美しき少女。名をミリサ=アルディネという。癒しの奇跡と浄化の祈りを操る、現勇者パーティの回復担当であり、精神的支柱でもあった。
だが、彼女は聖女ではなかった。
「ミリサ……もう限界だ。結界が……!」
戦士のリオルが背後で叫ぶ。だがミリサは返事をしない。否、できない。
血に塗れた地脈の中枢。魔王軍が築いた大儀式陣の真上に、彼女は一人、祈り続けていた。千を超える魂が犠牲となって生まれたこの呪いを、止めるために。
誰もが逃げた。誰もが「仕方ない」と言った。
だが彼女は笑って、残った。
──「誰かが、ここで光を灯さなければいけないのです」
痛かった。焼けるようだった。祈るたびに、魔素が肌を裂き、骨を焼き、視界が紅に染まっていく。
それでも、彼女は祈った。
自らの命が代価であると知りながら、彼女は祈った。
誰かがその先に進めるように。
誰かが、あの人が、世界を救えるように──
*
ミリサ=アルディネは、かつて“魂の谷”で生まれ育った。そこは捨て子と罪人しかいないと言われる禁忌の地。
母を知らず、名前も与えられずに生きた少女に、最初に笑いかけてくれたのは、旅の司祭だった。
──「君は美しい。まるで、神の赦しのように」
それは嘘だったのだと、ずっと後に知った。あの司祭は“魂の谷”で生まれた子供たちを神への贄として王都に売り渡していた。
だが、少女は生き延びた。その司祭を刺し殺し、祈りの言葉を真似て生き延び、街の地下教会で偽りの奇跡を繰り返し、やがて“本物”になった。
自分は救われたのではない。
だからこそ、自分が誰かを救わなければ、存在してはいけなかった。
*
祈りは、終わらない。
この血の大地に祈ることは、恐怖と絶望に飲まれた魂の叫びを一身に受けることだ。
それでもミリサは止めなかった。自分の両手がすでに指の形を保たず、白骨が覗いていても。
喉が破れ、声が出なくなっても。
彼女は“神に祈る少女”を演じ続けた。
誰にも知られず、讃えられず、それでいて誰よりも純粋に、誰かのために。
魔王軍の使徒が言った。
「貴様の祈りなど無意味だ。勇者は、ここに来ないぞ」
そのとき、初めてミリサは祈りを止めた。
顔を上げて、笑った。
──「ええ、来ないでしょうね。でも……だからこそ、私がここにいるのです」
轟音。
地が、割れる。
空が赤く染まり、術式が暴走を始める。
ミリサの祈りによって結界が歪んだ。
その歪みによって、呪いが自身に反転する。
魔王軍の使徒が、悲鳴をあげる。
ミリサの体はとうに限界を超えていた。
視力を失い、耳も聞こえず、感覚もなかった。
それでも、彼女は立ったまま笑っていた。奇跡のように。
──その姿のまま、彼女は焼け落ちた。
*
遅れて駆けつけた勇者が見たのは、ただ焦げた大地と崩れ落ちた儀式場の跡。
結界の残響だけが、まだ微かに漂っていた。
ミリサの遺体は、見つからなかった。
彼女は奇跡のように、この世から消えていた。
だが、確かにそこには“命を削る祈り”の残滓が残っていた。
勇者は何度も地を叩き、喉を枯らして叫んだ。
──「おい、ミリサ!! お前、俺を見捨てなかったくせに、俺は……っ!!」
*
その日を境に、勇者は変わった。
彼の中で、祈りは「信仰」から「呪い」に変わった。
彼の目には、神も奇跡も、ただの犠牲と背中合わせの残酷なものに映るようになった。
そして、この旅が終わるまで、彼は二度と“誰かの死”を無駄にすまいと誓う。
だがそれは、これから彼が迎える地獄のほんの入り口に過ぎなかった。