6話
メゲルドには、隠された書斎があった。
領主館の地下、鍵のかからない扉の奥。
暖炉も窓もない、ただ石造りの狭い空間。
そこにだけ──彼の「もう一つの帳簿」があった。
表の帳簿には、耕作地の拡張計画や、収穫量の推移が記されていた。
行政の記録。貴族としての正しい仕事。
誰が見ても真面目な「善政」。
だが、裏の帳簿には、名もない農夫たちの名前が記されていた。
老いた農婦の失明。
五人の子を持つ若夫婦の、家畜盗難の被害。
凍死寸前で運び込まれた孤児の名──アルク、6歳、左手凍傷。
その帳簿にこそ、彼の“本当の仕事”が詰まっていた。
誰にも命じられず、誰にも称賛されない仕事。
だが、彼は日ごとにそれを書き続けた。
──忘れられぬように。
──誰か一人でも、確かに生きた証を残すために。
死の前夜、彼はその帳簿を暖炉の灰に包んだ。
「燃やす」のではなく、「埋める」ように。
遺すのではなく、「託す」ように。
そしてその存在を知っていた、たった一人の少年。
名は、アルク。
かつて凍傷で指を失いながらも、メゲルドの命で生かされた子。
彼は成人後、王都で革命派に加わり、
貴族制度の是正を叫ぶ中心人物となる。
だが彼は一度も、自らの思想を「正義」とは言わなかった。
なぜなら、彼の正義は、“名もなき死”を知っているからだった。
「……あの人は、たぶん……誰かを救おうとして死んだんです。
それが、あんなに静かな死だったのは──
誰にも見てほしくなかったからでしょう」
後に、革命派の地下文書庫から“焦げた紙片”が見つかる。
判読不能なその一枚にだけ、こうあったという。
「麦は、忘れない」
──この裏話もまた、語られぬ物語。
誰も知らず、誰も気づかぬまま、
けれど確かに、誰かの“その後”を支えていた。
捻じ曲げられた運命だとしても、新たな運命は紡がれる。