11話
白い。
ただそれだけが目に映った。
雪が降っていた。静かに、音もなく、世界を覆うように。かつてここには国があり、城があり、人々がいたはずだ。しかし今は、すべてが瓦礫の下で眠っている。冷たい風が吹き抜けるたび、過去の喧騒が幻のように蘇っては、再び雪に埋もれていく。
──その中心に、前勇者は立っていた。
剣も、鎧も、名も、肩書きも、もうない。彼はただ、薄い外套一枚を羽織った旅人のような風体で、崩れかけた石畳の上に、足を止めていた。
「……俺は、何度死んだ?」
呟きは、すぐさま白い息とともに空に溶けた。
その一度目は、世界の希望として死んだ日だ。
圧政と恐怖に立ち向かった英雄。無数の人々の祈りと願いを背負い、魔王を討たんと進んだ。その最終決戦の前夜、この場所に立ち、彼は仲間と語らい、未来を夢見ていた。
だが、夢は潰えた。
味方の裏切り。兵の崩壊。そして仲間の死。最後まで抗い続けた。
何もかも失い、諦めた彼の命は、この国の雪にまみれ、誰に看取られることもなく果てた。
そして、二度目の死──それが、レニスだった。
「……名前も、体も……すべてが、違った」
レニスは転生した彼の姿。まだ幼い命で、かつての自分が死んだこの国に生まれ落ちた。母の腕の中で、温もりに包まれながら。だがそれは、運命の気まぐれに過ぎなかった。
レニスは、将来の将軍となるはずの存在だった。前勇者の死後、荒れ果てた世界の中で、人々を統率し、新たな秩序を築く力を持っていた。だが、その運命もまた、捻じ曲がった。
──目を覚ましたその日に、死んだのだ。
小さな赤子の体で、母の胸から滑り落ち、首を打ち──何も知らず、何も語れず、ただこの地の冷たい床に再び沈んだ。
「誰も、気づかなかった。あれが勇者の“帰還”だったなんて」
前勇者は跪いた。かつての自分──幼きレニスが息絶えた場所に、そっと手を伸ばす。雪を払い、瓦礫の欠片を取り除く。その指先が触れたのは、小さな、小さな、鈍く光るペンダントだった。
「……レニスの母の」
どこか誇らしげに、どこか悔しげに。前勇者は笑う。涙は、落ちなかった。ただ風が強くなり、雪の粒が目を打つ。
この場所はもう、誰の記憶にも残っていない。
国の名も、英雄の死も、転生の奇跡も。
だが、彼だけは忘れていなかった。忘れることなど、できなかった。
レニスとして、再びここに生まれ、死んだという記憶は──世界の歪みを確かに刻む傷跡であり、旅の始まりを告げる鐘でもあった。
彼は立ち上がる。
風が、雪を巻き上げ、白の世界を塗り替える。
「次は……ダの場所だ」
振り返ることなく、前勇者は歩き出した。
過去に死に、未来も失った者が、今を歩いている。
その足跡が、誰にも届かないとしても──
雪は静かに、その背を追い続けていた。