エルの強化イベント
白王女が、親善大使として、うちに来ることになった。
そして……数日後。
わたしはエルメルマータを連れて、極東の信濃――現実でいう長野県――へとやってきた。
中央部、桔梗ヶ原と呼ばれる地。現実で言えば塩尻市あたり。
夏草の匂いがむっと立ち込め、蝉の鳴き声が地面を揺らすように響いている。
湿った土の香りが鼻をくすぐり、遠くで川のせせらぎがかすかに聞こえた。
「自然いっぱいですぅ~」
「そうですね」
「信濃も一瞬でこれるんですねぇ」
「来たことあるんで」
無論、ゲーム時代にだが。
土地瞬間移動を使って、わたしはエルメルマータと桔梗ヶ原の山間を歩いていた。
「まーじで何もないですねぇ。田んぼばっか」
「そういうところなんで」
道の両脇には稲が風に揺れ、空はどこまでも青く澄んでいる。
遠く、山々が幾重にも重なっていた。まるで世界が壁に囲まれているようだった。
エルメルマータが、ちらちらとわたしを見る。
「えるを誘って、一体何を~? は! 逢い引き!?」
「なぜそうなる……」
「ルシウムさんをおいて、えると二人きりで遠出……これはデートですぅ!」
「違う」
本当に恋愛脳な子だ。だが、その天真爛漫さは、嫌いではない。
「えるの愛嬌でしょ~?」
「……そういうの、自分で言わなきゃね」
「いっちゃうんだなぁ。これがエルメルマータなのだぁ!」
「はいはい」
鳥が雁行しながら頭上を飛んでいった。
そのまま山のふもとまで進んでいく。
「何しに来たんですぅ?」
「レアアイテムの回収ですよ」
「あ~……」
どこか、がっかりしたような声色だった。
「なぁんだ、えると逢い引きじゃないんですねぇ~」
「違うって言ったでしょ」
「ちぇ。で、何を取りにいくんですぅ?」
「梓弓を」
「あずさゆみ……?」
「この世界に存在する、レア武器の一つです。この山に、ずっと放置されてるんですよ」
「なんで誰も取りに来ないんですぅ?」
「神社に奉納されてるんです。もう廃神社なんですけど。白王女に許可を取って、いただけることになりました」
「ふぇ~……神社のもの、もらっちゃっていいんですぅ?」
「忘れられて朽ちるより、使ってやった方が幸せです」
「センちゃんが言うんです~?」
そんな会話をしながら、わたしたちは山に入っていく。
空気が澄んでいて、ひんやりとした風が木々の間を吹き抜ける。
やがて、わたしは口を開いた。
「この桔梗ヶ原には、【ゲンバ】という妖魔がいます」
「げんば?」
「化け狐です。人間を罠にかけて、化かしてからかうタイプの妖魔です」
「なはは! えるがそんなのに引っかかるとでもぉ~?」
「はい」
「即答!? いやいや、えるは優秀な狩人ですからぁ~! センちゃん助けるからぁ~!」
「罠には気をつけてくださいね」
「んなわけ……ギャアアアアアアア!」
どぼんっ! エルメルマータが沼に沈んだ。
「しずむぅ!? なにこれ!? なにこれぇ!?」
「【浄化】」
わたしは幻術を解除する。
幻が晴れ、そこにあったのは広大な沼だった。
……なるほど、沼に幻術をかけて、落とし穴にしていたのか。
「ひゃあああ! ぬるぬるするぅ~! うああああ! センちゃあああん!」
彼女の手を引き、泥まみれの体を引っ張り上げる。
「【浄化】」
服の汚れがすっと消え、元通りになる。
「便利ですぅ」
「ええ。行きましょうか」
「いや、待ってください! えるは、ぶちぎれてるですぅ!」
ごぉ、と目の奥に炎がともる。
「ゲンバぁ~っ! このぉ~っ! エルフの誇りを侮辱したですぅ!」
怒り心頭のエルメルマータが突撃し――
「ぎゃあああああ!」
また罠にかかる。
……以降、彼女はほとんど毎回のように罠に引っかかっていた。
今ごろゲンバも腹を抱えて笑っているだろう。
風の向きが変わった。
ふと、視界の端に何かが揺れた気がした。
……誰かに見られている。そんな気配が、微かに肌を撫でる。
「ちくしょぉ~! なんでどこにいるかもわかんないのぉ~!」
「ゲンバは高い隠蔽スキルを持ってます。集中モードにも映らないレベルの」
「むきぃ~!」
そんなやりとりをしながら、わたしたちはついに、廃神社へと辿り着いた。
境内は草に埋もれ、鳥居は斜めに傾き、拝殿も本殿も崩れている。
風が吹くたび、風鈴のような音が瓦礫の奥から鳴った。
まるで、まだ何かがここに居るとでも言うように――。
「てゆーか、なんでここまで誰も来れないんですぅ?」
「ゲンバの罠で、普通の人間はここまで来れないからですよ」
浄化スキルと、びにちる知識の両方がなければ、罠は突破できない。
その上で、トラップを踏み抜いてくれるオトリ役が必要だった。
「やっぱりセンちゃんはすごいですぅ~」
「いや、わたし一人じゃ来れなかったですよ」
「……くぅっ、泣かせるですぅ~。友情パワー!」
「いえ。罠踏んでくれるオモチャ役が必要だったんです」
「ひどいぃ~!」
神社の奥、棚の上に置かれていた梓弓を、わたしは手に取る。
「これが激レアアイテムですぅ?」
「ええ。はいこれ、使ってみてください」
エルメルマータが弓を受け取る。
見た目は、少し年季の入った和弓。だが。
ぐんっ、と弓があさっての方向を向いた。
「え? な、なんでこっち向くの?」
「そのまま、弓を引いてみてください」
「えええ~? でも、そっちに獲物の気配なんて――」
言いながらも、エルメルマータは本能的に魔法矢をつがえ、引き絞る。
矢を放った瞬間――
ぎゃああっ!
獣の悲鳴が、風を裂いて届いた。
わたしたちは駆け出す。外に出ると――
狐の妖魔が、地面に倒れていた。
「ふぇ!? な、なにこれ……?」
「ゲンバです」
「これ、えるが……やっつけたんですぅ?」
「はい。梓弓の固有能力の一つ、【敵察知】が発動しました。害意・敵意を持ってる相手が近くに居ると、弓が自動でその方向を向くんです。隠れてても関係ありません」
「ふぇ~……! って、でも、当たったのは……」
「それはエルさんの腕ですよ」
敵の方向を指し示すだけ。
それ以上のことは、してくれない。
距離も、障害物も、風向きも……すべてを読み切り、放たなければならない。
「この梓弓は、“天才的な狩人”にだけ使いこなせる武器なんです。方向だけを教えるっていう、極めてシンプルな仕組みだからこそ――」
使う者の感覚と技量が、全てを決める。
「つまり、えるは……」
「この武器に選ばれたってことですよ」
わたしは言う。
この弓は、【びにちる】の中でも、エルメルマータ専用武器として設計されていたものだ。
わたしの知識が、それを裏付けている。
「これならどんな敵も、えるがずばーんっと倒せるですね!」
「ええ、そうですね」
……そのとき、ようやく彼女が気づいたようだった。
「もしかして……センちゃん……えるのために、わざわざ?」
「まあ。ちゃんとお礼、言えてなかったですし」
ここには誰もいない。
だから、ちょっとくらい気恥ずかしいことを言っても、いいだろう。
「ありがとう、エルさん。極東では、本当にお世話になりました。それと……いっぱい心配かけて、ごめんね」




