殿下、婚約破棄は計画的に!
「カルロ殿下、今日の公務の予定をお伝えします」
朝からバッチリ決まった軍服姿のセリーヌ・ロセアンが、俺の部屋に入ってくるなり書類を手渡してきた。
俺は眠そうに目をこすりながら、ふと考える。
(なんで俺、毎朝こんなに早く起こされてるんだっけ……?)
思い出した。婚約者が超優秀すぎるせいだ。
彼女は公爵令嬢でありながら、王宮の政務にも深く関わり、さらには剣術まで嗜む完璧超人。まるで王太子妃として生きるために生まれてきたかのような存在だ。
――だが、問題はそこじゃない。
「殿下、今日の演説原稿は事前に目を通しました? ここ、もう少し明確な表現に直すべきですわね」
「え、あ……そ、そうか?」
俺が原稿を開く前に、すでに彼女が赤ペンで添削している。
そう、彼女は「支える婚約者」ではなく、「完全に俺の上司」なのだ。
「殿下、また夜更かしされましたね? 目の下にクマができておりますよ」
「う……」
「もう、王太子たるもの、自己管理ができなくてどうしますか? それに、睡眠不足では肌に悪影響です」
「……なんか、母上より厳しい気がする」
「当然です。わたくしは殿下を一人前の王にするために尽力しているのですから」
……これが問題だ。
俺は彼女のことを婚約者として好きになるどころか、どんどん「厳しい先生」みたいに思えてきている。
「このままでは俺の将来がマズい!」
王太子妃には可憐で愛らしく、俺を支えてくれる女性がいい。
俺を指導し、教育し、時には叱る……そんな公爵令嬢ではなく!
(よし、決めた。俺はセリーヌとの婚約を破棄する!)
***
ということで、俺は作戦を立てた。
「最悪の婚約者」になって、セリーヌの方から婚約破棄を申し出させるのだ!
「なぁ、セリーヌ」
「はい、殿下?」
「実は最近、他の令嬢とお茶会を開いていてな……」
「それは素晴らしいですね」
「えっ」
「将来、殿下が国を治めるためには、様々な貴族令嬢と良好な関係を築くことが重要です。交友関係を広げるのは大変良いことですわ」
「…………」
くそっ、まったく嫉妬してない!!
ならば別の作戦だ。
「セリーヌ、最近執務が忙しくてな。ちょっと書類を整理するのを忘れてしまったんだが……」
「問題ありません。わたくしがすでに整理しておきましたので」
「…………」
完璧すぎる対応力!!
それならば、もっと直接的に……!
「セリーヌ、お前といると緊張するんだ。俺はもっと気楽で甘えられる相手がいい」
「……つまり、わたくしの努力が足りないということですね?」
「いや、そうじゃなくて……」
「では、より殿下が安心して執務に励めるよう、さらにサポートを強化いたします」
違う、そうじゃない!!!!
まったく動じる様子のない彼女に、俺の婚約破棄計画は早くも暗雲が立ち込めていた。
(くそっ、どうすればいいんだ!?)
そんな俺の悩みを知ってか知らずか、セリーヌは涼しい顔で俺の紅茶に砂糖を入れながら、こう言った。
「殿下、砂糖は三つでよろしいですか?」
「……四つで」
「甘すぎます。健康を考えて三つにしてください」
「…………」
やはり、俺の上司では?
婚約破棄計画がまったくうまくいかない。
どれだけ俺が駄目な婚約者を演じても、セリーヌは一切動じない。
だが――俺はついに秘策を思いついた。
(そうだ、他の令嬢との仲を誤解させればいいんじゃないか!?)
俺が他の女性に夢中になっていると思わせれば、さすがの彼女も嫌気が差して婚約破棄を申し出るはず!
そんなわけで、俺はセリーヌの目の前で貴族令嬢たちと親しげに会話をすることにした。
舞踏会、午後のティータイム、散歩――機会はいくらでもある。
そして迎えた貴族の社交パーティー。
俺は意気揚々と、適当に話しやすそうな伯爵令嬢に話しかけた。
「おや、ラヴィニア嬢。今日はまた美しい装いですね」
「あら、殿下。お優しいのですね」
よし、いい感じだ。これをセリーヌが見れば――
「……あの、殿下?」
「ん?」
なぜかラヴィニア嬢が不安げな表情を浮かべる。
「その……わたくし、このままだと後が怖いのですが……」
「……え?」
俺が不思議に思っていると、背後から冷たい気配が漂ってきた。
「殿下?」
……来た。
ゆっくりと振り向くと、そこには完璧に礼儀正しい微笑みを浮かべるセリーヌ・ロセアンの姿があった。
彼女は涼しい顔をしていたが、目が笑っていない。
「少しお話、よろしいですか?」
……今、俺、終わった?
***
「はぁ……」
俺はセリーヌと二人きりの控え室で、説教を受けていた。
「殿下、あまり不用意に令嬢たちと親しくしすぎるのは問題ですよ」
「そ、そんなことはないだろ! 交友関係を広げるのは大事なことだろ?」
「もちろんです。でも、あれでは浮気のように見えます。」
「うっ……」
確かにわざとやったんだが、こう正論で返されると痛い。
「わたくしが気にしないとしても、周囲が騒ぎますし、殿下の評判にも関わります。それに――」
「それに?」
「……わたくしの婚約者がそんな軽薄な人間だと思われるのも、不愉快ですわ」
「っ……!?」
一瞬、彼女の表情にわずかな苛立ちが見えた。
それが、なぜか妙に心臓に響く。
(え、もしかして……これ、ちょっと嫉妬してる??)
俺が気づく間もなく、セリーヌはすぐに冷静な表情に戻り、静かに言った。
「……まあ、どうしても婚約を解消したいというなら、わたくしは構いませんよ」
「!?」
俺は思わずセリーヌを見つめた。
(え、待て……い、今、なんて……?)
「婚約破棄、しましょうか?」
平然とそう言う彼女に、俺は頭が真っ白になった。
セリーヌ・ロセアンは、まるで「今日の紅茶はアールグレイにします?」とでも言うかのような口調で、とんでもない爆弾発言をした。
「え……?」
俺は思わず間抜けな声を漏らす。
待て待て待て、ちょっと待て。
俺が今までどんなに頑張ってもビクともしなかったセリーヌが、今、めちゃくちゃあっさりと婚約破棄を申し出た!?
(いや、喜ぶところじゃないか!? 俺の計画通りになったんだから!)
だが、なぜか全然嬉しくない。むしろ、妙に胸の奥がザワつく。
「お、お前……本気で言ってるのか?」
「ええ、本気です」
セリーヌは冷静なまま頷いた。
「そもそも、わたくしは個人的な感情でこの婚約を結んだわけではありません。わたくしの家門と王家のために、合理的な判断として殿下の婚約者になったまでです」
「……」
「ですが、殿下がその意志を持たれないのであれば、無理に続ける必要はないでしょう」
(な、なんか……思ってたのと違う!?)
俺は、セリーヌが怒るか呆れるかして「もう殿下なんて知りません!」って言ってくる未来を予想していた。
ところがどっこい、彼女は淡々と合理的な判断を下した。
(なんだこの敗北感……)
すると、セリーヌはスッと立ち上がり、静かに一礼した。
「では、正式に婚約破棄を申し出ます。あとは王宮の手続きを進めるだけですね」
「ちょっ、ちょっと待て!!」
俺は思わず立ち上がり、慌てて彼女の手を掴んだ。
「なぜ止めるのですか?」
「そ、それは……!」
言葉が詰まる。
だって俺が望んだことのはずだ。婚約破棄をして自由になる――そのはずなのに。
「……殿下?」
セリーヌは、珍しく不思議そうに俺を見つめていた。
その視線に、俺はようやく気づいてしまった。
(俺……なんで、こんなに寂しい気持ちになってるんだ?)
***
婚約破棄が決まった。
いや、俺が決めたわけじゃない。
セリーヌが、驚くほど冷静に提案してきた。
「では、正式に婚約破棄の手続きを進めますね」
そう言った彼女は、いつもと変わらない優雅な態度だった。
まるで「では、執務の続きをしましょう」とでも言うような自然さで。
(なんだよ、それ……俺との婚約なんて、そんな簡単に終わるものだったのか?)
俺は今まで「セリーヌが俺を手放さない」と思い込んでいた。
だからこそ、俺の方から「無理です、俺みたいな奴は王太子妃にふさわしくありません!」と辞退させようとしたのに――
(……実際には、セリーヌにとって俺との婚約なんて大したことじゃなかったのか?)
「……」
なんだ、この胸のモヤモヤは。
本来なら今頃ガッツポーズを決めるべき場面のはずだ。
俺はついに自由を手に入れた。好きな相手を選べる。何をしても叱られない。もう「殿下、しっかりなさって」と指導されることもない。
なのに。
「殿下?」
セリーヌが不思議そうに俺を見上げる。
その仕草が、なぜかやけに綺麗に見えた。
「……いや、なんでもない」
とっさにそう言ってしまったが、俺の心の中は嵐のように揺れていた。
***
「婚約破棄の話を本気で進めるって?」
翌日、親友であり側近のオスカー・ベルナールが俺を睨みつけてきた。
「お前な……自分で言い出したことのはずなのに、今の顔、めちゃくちゃ未練たらしいぞ」
「はぁ!? そんなわけ――」
「いや、ある。絶対ある。今の顔、『なんか予想以上にあっさり了承されてしまった……あれ? もしかして俺、捨てられたのでは?』って動揺してる顔だ」
「……!!」
図星すぎて何も言えない。
「お前、最初からセリーヌ様に惚れてたんじゃないのか?」
「んなわけない!!」
即座に否定した。
「俺はただ、もっとこう……優しくて甘えられるような婚約者がほしかっただけで……!」
「は? セリーヌ様、殿下の世話めちゃくちゃ焼いてたじゃねぇか。むしろ過保護なくらいだったろ」
「それは違う! 世話じゃない! 指導だ!! 俺が求めてるのはそういうのじゃなくて!」
「……で、いざ指導がなくなると、寂しい、と」
「っ……!!」
オスカーの言葉に、俺は何も言えなくなった。
(寂しい……? 俺が……?)
いやいや、そんなはずは――
「はぁ……お前、ようやく気づいたか?」
オスカーが呆れたようにため息をつく。
「いいか、カルロ。お前は今になって、セリーヌ様がいなくなることの本当の意味を理解したんだよ。」
「本当の……意味?」
「お前が『セリーヌ様は俺に全然惚れてない』って思い込んでたように、セリーヌ様も『殿下は私を必要としていない』って思ったんだろうよ」
「……!」
「そりゃあ、婚約破棄の話が出たらすんなり受け入れるさ。だって殿下が望んでるって思ったんだから。でもな、お前、今すげぇ顔してるぞ?」
「どんな顔してるんだよ……」
「自分から捨てたはずの宝物が、なくなって初めて大切なものだったと気づいた顔だよ」
……宝物? セリーヌが? 俺の?
そんなはず――
そう思ったのに、心の中で「違う」と言えなかった。
オスカーはニヤリと笑って俺の肩を叩く。
「さぁ、どうする殿下?」
「どうするって……」
「このまま婚約破棄を受け入れるのか? それとも――取り戻しに行くのか?」
俺は答えられなかった。
けれど、その時――
心の中では、すでに答えは決まっていたのかもしれない。
(俺は……セリーヌとの婚約を破棄したくない。)
それがなぜなのか、まだはっきりとは分からない。
けれど、少なくとも一つ確かなことがあった。
(今のままじゃ、絶対に後悔する。)
だから――
「……行く」
「お?」
「セリーヌのところに行く。婚約破棄なんて取り下げてもらう」
オスカーが満足げに頷いた。
「ようやく気づいたか。さっさと行け、殿下」
俺はすぐに立ち上がり、ロセアン公爵邸へ向かった。
***
「セリーヌ様は、ただいま執務中でございますが……」
使用人にそう言われたが、俺は強引に応接室へ押し入った。
「セリーヌ!!」
「……殿下?」
書類を整理していたセリーヌが、驚いたように顔を上げる。
「急にどうなさいました?」
俺は息を整え、真剣に彼女を見つめた。
「婚約破棄、取り消してくれ。」
「……」
セリーヌの手がピタリと止まる。
「どうしてですか?」
「それは……」
理由を言えと? そんなの、俺だってよく分かってない。
でも、一つだけ確かなことがある。
「お前がいないと、ダメだからだ」
「……」
「お前が俺のそばにいない未来なんて、考えたくもない。お前が必要だ。だから……婚約破棄はなしだ!」
言いながら、自分でも驚いた。
こんなに本気で何かを求めたのは、初めてだったかもしれない。
だが、セリーヌは少し目を伏せ、静かに言った。
「……では、理由をお聞かせください。」
「え?」
「『お前がいないとダメだから』では、理由になりませんわ。」
「そ、それは……!」
「今まで殿下は『婚約破棄したい』とおっしゃっていたのに、急に取り消してほしいと言われても……どうしてですか?」
「……」
たしかに、そうだ。
俺は今までセリーヌのことを「厳しくて口うるさい婚約者」だと思っていた。
でも、それがなくなって初めて気づいた。
彼女は俺を導いてくれていた。
俺のために時間を使い、支えてくれていた。
それが「当たり前」じゃないと分かったとき――俺は、彼女の存在の大きさを思い知った。
「……お前が、好きだからだ」
「……!」
セリーヌの瞳が揺れる。
俺は真剣に彼女を見つめ、はっきりと言った。
「今まで気づいてなかった。でも、ようやく分かった。俺は、お前が好きだ」
「っ……」
「だから、俺と婚約を続けてくれ」
しばらくの沈黙。
セリーヌはゆっくりと息を吸い込み、目を閉じた。
そして――
「……そういうことでしたら」
ふっと、微笑んだ。
「改めて、よろしくお願いいたしますわ。殿下」
俺は心の中でガッツポーズを決めた。
(よ、よかった……!)
思わず安堵のため息をつきそうになったが、ここで気を抜くわけにはいかない。
何せ俺は今、人生で初めて「婚約者を取り戻すために本気で行動した男」なのだ。
ここでビシッと決めて、セリーヌに「この人と婚約していてよかった」と思わせるくらいの器を見せなくてはならない。
「よ、よし! それじゃあ、これからも頼むぞ!」
「……ずいぶんとあっさりしていますわね?」
「え?」
「わたくしが婚約破棄を受け入れることを決めたとき、殿下はどれほど悩まれたのですか?」
「そ、それは……」
思い返すと、昨日の俺は死にそうな顔でオスカーに相談し、半泣きでロセアン公爵邸まで駆けつけ――
「……お前がいない未来を考えたら、息ができなくなるくらい焦った」
正直に言った。
セリーヌの瞳がわずかに見開かれ、頬がほんのりと赤くなる。
(あれ? もしかして今、俺……ちょっとカッコよくなかったか?)
「……まぁ、殿下にそこまで思われていたとは、驚きですわ。」
「俺も驚いたよ! まさかここまでお前に依存してるとは思わなかった!」
「依存……」
セリーヌの表情が、微妙に引きつった。
「あの、殿下。婚約者に向かって『依存してる』と堂々と言うのは、どうかと思いますわよ?」
「えっ、でも事実じゃないか?」
「もう少し言い方を考えましょう。例えば……『君がいないと、俺はもう生きていけない』とか」
「それはそれで重すぎるだろ!!?」
「ふふっ、冗談ですわ」
そう言って、セリーヌは微笑んだ。
でも、その笑顔はどこかいつもより柔らかくて――俺は、ようやく実感する。
(あぁ、俺は本当にセリーヌを失わなくてよかったんだな……)
改めて婚約者として向き合うと決めた瞬間から、彼女がどれほど大切な存在だったかを思い知るばかりだった。
***
「……ってなことがあって、無事に婚約破棄は取り消された」
俺が報告すると、オスカーは目を閉じ、静かに頷いた。
「よかったな、殿下」
「おう! 俺の人生計画は全て順調だ!」
「ところで殿下」
「ん?」
オスカーはニヤリと笑った。
「婚約破棄を申し出たのは殿下なのに、最終的に必死で取り戻しに行ったのも殿下って……めちゃくちゃセリーヌ様に振り回されてないか?」
「っ!!?」
た、たしかに……!?
「まぁ、殿下がそれで幸せならいいんですけどねぇ……」
「くっ……オスカー、お前覚えてろよ!!」
「それは殿下がセリーヌ様に言うべきセリフでは?」
「ぐぬぬ……!」
この後、俺は何を言われても言い返せず、悔しさのあまり庭園で一人転がる羽目になった。
けれど――
「ま、いっか」
セリーヌとの婚約が続くなら、これくらいどうってことない。
改めて、俺は婚約者としての彼女との日々を楽しむことに決めたのだ。
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