吸引力の変わらないただ一つの
頭の奥底でプツンという音が鳴りました。
少しずつ意識が鮮明になっていきます。長い長い夢を見ていたような、そんなあやふやな気分です。
目を開いてみても真っ暗で、体に感じるのは水の中のような奇妙な浮遊感です。ああ、この感覚は二度目ですわね。ですからもうはっきりくっきり状況を理解しておりますの。どうやら私、また追憶の旅から目が覚めて現実世界へと戻ってきたようです。
「装置ノろっくヲ解除シタゾ。外ノ空気ガ吸イタケレバマタ吸引用ノ管ヲ咥エルガイイ」
頭に取り付けたバイザーからローパー怪人さんの声が聞こえてきます。私の覚醒を認知してくださったようです。
なるほど外の空気ときましたか。現状にそこそこ慣れてしまった今では別に酸素ジェルの中に居たままでも全然苦しくはないのですが、それでもやはり根本において私はヒトなのでございます。肺いっぱいに空気を取り込んでこその陸上生物なんですの。是非ともお言葉に甘えさせていただきましょう。
ジェルの海を掻き分けて浮上し、洗脳補助装置の上蓋を手で押して外します。そして宙に浮いている吸引機を手繰り寄せ、口に咥えます。
筒の口径は少し大きめのたこ焼きサイズでしょうか、この口には少々大きいもので、自然の〝あ〟と〝お〟の中間くらいの口の形になってしまいます。
隙間を唇で塞いだその瞬間でした。
「おっ、おげぇえええええっ、げほげほっ」
吸引力の変わらないただ一つの掃除機のような管に、胃と肺を満たすジェルを根こそぎ吸われていきます。
更に胃からはジェルに合わせて胃液も吸われておりますので、途中の気管と喉にもヒリヒリと地味なダメージを与えていきます。言わば逆流性食道炎生成装置ですの。こればっかりは到底慣れそうにありません。
って私ついさっきの夢の中でも嘔吐したばかりですわよね? またすぐに現実世界でも似たようなことをさせられるとは。
このままでは妖怪嘔吐女とかゲロインとか不名誉なあだ名で呼ばれてしまうのも時間の問題ですの。さすがにそれはみっともなさすぎですの。心の底から御免被りたいんですの!
あまりにしんどみが深いので、次起きた時はジェルの自然消滅に縋ってみましょうか。そうするとどれだけの時間を無言で過ごさなければならないのか……うう。きっと喋りたい病が発症して早々に我慢できなくなる気がいたします。結局また吸引器のお世話になる運命でしょうね。
ひとまず洗脳補助カプセルから脱出し、大きく伸びをいたします。生まれたままの姿をローパー怪人さんに見られておりますが関係ありません。
「すー……ふー……はぁ。やっぱり肺呼吸が一番ですの」
「ソレハヨカッタナ」
「ええ。おかげさまで」
取り込んだ新鮮な空気に肺が喜んでいるのが分かります。長らく忘れていたからこそ認知できる喜びです。ああ、普通にしていられるというのはどれほど素晴らしいことなのでしょう。心の中でもガッツポーズいたします。
「伝説ノ魔法少女サマモ初メノ頃ハぺーぺーノド素人ダッタヨウダナ」
装置の下からローパー怪人さんに話を振られました。さきほどの記憶もしっかり覗かれていたようですわね。
「そりゃあ誰だって最初はそうですのよ。皆が皆秀でた才能を持ち合わせているわけではないのです。私だってあの後必死に血の滲むような努力を重ねて、ようやく茜に並び立てるようになったんですのよ、ぷんぷん」
「ソノ辺ハ追想シナクテモイイノカ?」
「どうせ女子中学生が校庭でうさぎ飛びしたり、鉄棒で逆上がりの練習をしたり、町内一周フルマラソンをしたりで華やかさに欠けますから。別に必要ないですの」
「ソウカ……」
やけに残念そうに首垂れて見えますがもしかして見たかったんでしょうか。お手伝いいただいている身ゆえ、貴方のお望みとあればすぐ続きから夢見させていただきますけど。
いいんですのよ? そのまま若かりし私たちのピチピチすべすべなお風呂シーンやら、キャッキャウフフな学生ライフやらを覗いていただいても。別に今更見られて困るものでもありませんし。
むしろ今の怠惰で自堕落な私の私生活よりも、昔の果汁あふれる新鮮果実のようなピッチピチな私の、まさに七色に光輝く美しき青春の日々をもっとまざまざと見ていただいた方が健康にいいと思いますの。
ただきっと優しい彼のことですから、オ前ノコトヲ最優先シロ、余計ナコトハ考エルナ、とか何とかカッコつけてお断りしてきそうですわね。まったく素直じゃないんですから。
……ふぅ。青春、ですか。
「……輝いておりましたわね。過去の私」
「アア、今ヨリモズット、ナ」
「む。なかなか仰いますのね。正直なところこうして懐かしい記憶を追体験していると、あの頃に戻れたらという気持ちが湧かないわけではありませんのよ。プニともポヨとも……ずっと仲良く一緒に居られるんだろうなって、あの頃は疑いもなくそう思っておりましたもの」
「変身装置カ。オ前ガココニ来タトキニハ、モウソノ姿ハ無カッタナ」
「ええ……そうですわね」
今はもうあのプニプニもちもちな感触を楽しむことはできません。あの妙に悪態づいた小言を聞くこともありません。それはこの先の記憶にて明らかになっていくことでしょう。
先程までの記憶が青春の登り坂なのだとしたら、もうしばらく経てば坂の頂上が来てしまいますの。そうしたらもうその先は、長くて険しい下り坂が待っているだけなのです。
行きはヨイヨイ帰りは怖し。
私の旅の行き着く先は暗く終わりの見えない谷底です。輝かしい思い出も、ゆっくりと辛く痛ましい記憶へ変わってしまうのです。
正直思い出したくはないというのが一番の事実ですが、あえて詳細に思い出す為にこの補助装置のお世話になっているのです。ウダウダ躊躇している暇はありませんわね。
「さっ、そろそろ休憩は終わりですの。さっさと追憶に戻りましょう。次は先程の記憶から1ヶ月後かそのくらいからお願いいたしますの」
「了解ダ」
おおよそ次の時節は7月頃になりますでしょうか。すっかり夏真っ盛りになってしまいますわね。本来なら海やらお祭りやらに大忙しだったはずですが、あいにく多忙な魔法少女ライフにそんな甘々なイベントはございませんの。いや、多少はありましたっけ? 多忙すぎてあんまり覚えておりませんの。
今思えば一度は波打ち際ではしゃいでおきたかった人生ですわね。あいにくここには人肌温度のジェルに満ちた無機質なカプセルしかありません。こちらで我慢いたしましょう。
洗脳カプセルにどっぷりと虚しくこの身を沈めていきます。その途中でバイザーを装着し、ゆっくりと装置の上蓋を閉じて完全密閉いたします。まもなくして体全体がジェルに包み込まれました。
「……びぶべぼぼっべーべぶぼ」
掛け声ついでにグッとジェルを吸い込みます。一瞬の息苦しさがまた億劫に感じます。一度取り込んでしまえば何の問題もないのですが、もう少しだけスマートにならないのかしら。まぁ改善していただいたとして次に使うのがいつになるかは分かりませんが。
そんなことより心を落ち着かせねばなりませんわね。
淡い浮力に身を任せ、胎児のような楽な姿勢でジェルの中に漂います。目を閉じた後は何も考えません。
そうしてまた、ゆっくり、ゆっくりと精神世界へ舞い戻っていくのです……。
この過程にはもう慣れたものですわ……。
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