あなたが罪を背負うつもりなら
ふと、暖かな陽だまりのような声が聞こえてまいりました。心の底から穏やかな気持ちになれる……とても聞き馴染んだお声ですの。
もはや意識を手放す寸前でしたが、その声に呼び戻されるように重たい瞼を何とか開き直します。
「…………あか、ね……です、の……?」
「んもう。美麗ちゃんったら今の今までずーっと黒泥から解放してくれなかったんだもん。どうしてそんなに独りで抱え込もうとするのさ。私もいるんだよ? ううん。私がっ、ここにいるんだよっ?」
太陽のように眩しい、一ミリの陰りも見えない笑顔が目の前にございました。温かな指で私の頬をむにむにーっとお摘みなさると、少しも離してくださいません。
眠ろうにもこれでは寝れませんの。
少しずつ意識がはっきりとしてまいります。
私が気を失わないよう、必死にこの世に繋ぎ止めてくださっているらしいのです。
「……美麗ちゃ……いや、イービルブルー」
両手で包み込むように、また愛おしむように、いつの間にか冷たくなっていた頬を撫でてくださいます。
その温もりは実に優しげで、また慈しみを帯びていらっしゃって。
しばらく何も言わずにそうなさっていらっしゃったのですけれども。
やがて、ゆっくりと。
私の頬から手をお離しになりましたの。
まもなくして立ち上がられますと、私を庇うように背中をお見せなさいます。視界の隅には握り拳が見え隠れしております。
「……イービルブルーだったら、彼らを倒した後はどうしてたかな。金輪際私たちの前には現れないでって念入りに釘刺して、そうして彼らを見逃してあげてたかな。
……ううん。ちがうよね。多分、ずーっと後のことまで考えて、この場で全部終わりにしようとしたはずだよね」
「……その通りだと思いますけれども……え、あ、ちょっと待ってくださいまし。あなたいったい何を……?」
この子は何を口走ろうとしているのです……?
正直に申し上げますと。茜の予想は少しも間違っておりませんの。実際のところ、彼らを葬り去って差し上げるつもりで拳の一発一発に殺意を込めて放っていたわけですし。
しかしながら私が奴らを殺めようとしていたことは完全にナイショですの。茜には直接的には関係ないことなのです。
貴女にはただ、この戦いが終わったらまた何事もなかったように地下施設に戻っていただいて、総統さんや怪人の皆さんとの仲睦まじい生活に戻っていただきたいだけなのです。
これは私の独断と偏見による身勝手な行動なんですの。だから少しも気にしないでくださいまし……っ!
「そんな、待って、あか……はっ」
上がらぬ腕を無理矢理伸ばして、彼女を止めて差し上げようと思った――のですけれども。
振り向かれたお顔を見て、つい言葉を失ってしまいました。
微笑みの裏側に見えたのは明確な怒りでございましたの。矛先は私のほうではございません。
殺気は連合連中の方向に向けられております。
……かつて私が抱いてしまった〝漆黒〟の感情を、魔法少女が決して抱いてはいけないような最底辺の感情を、茜から感じてしまったのです……ッ!
「茜、ダメですの……それだけは絶対ダメなんですの……! プリズムレッドが選んでいい手段なんかじゃありませんの……っ! 手を汚すのは私一人で充分なんですのッ!」
貴女はまだ魔法少女でいられるのです。
自ら正の道から外れる必要はございません。
平和に、何事もなく、地下でのんびりと。
確かにそれを願ってはおりますが、地下の施設だって元々を言えばただの居候先なだけですの。
私とはちがって、貴女は身の安全さえ確保できたら表の世界に帰っても問題ない存在なのです。今から選択肢を絞る必要性など無いに等しいのでございます!
それに……魔装娼女と魔法少女は似て非なるモノですの。
この世の全てを捨てた魔装娼女と、世の為人の為に戦う魔法少女は根本的に異なる存在なのです。
ヒーローをヒロインが殺めてしまったら、それこそもう絶対に表舞台に戻れなくなってしまいますのッ!
帰るべき場所を自らお捨てにならないでくださいましッ!
「いけませんの……! 汚れ仕事は私の務め……貴女まで手を汚す必要なん、て……」
地を這いずってでも必死に訴えかけて差し上げます。固いアスファルトがぐいぐいと爪に食い込みますが一ミクロンも気にいたしません。
しかしながら。
「……全部覚悟の上だよ。最初から最後まで」
けれども茜は終始微笑みながら首を横に振り続けなさいました。
決意と諦念。相反する二つの感情をちょうど半々にしたような、見るからに複雑そうな微笑みを浮かべておりましたの。
……そんなお顔を見せられては、私は何も言えなくなってしまうではありませんの。
「美麗ちゃん前に言ってくれたよね。独りで抱え込んだらダメだって。お互いに手を差し伸べ合わなきゃって。だからこそ、今度は私の番なんだ。
あなたが罪を背負うつもりなら、私も一緒に背負ってあげる。あなたが地の底に堕ちるつもりなら、私だって一緒に、どこまでも堕ちるよ。その為に私は……戦場に戻ってきたんだから」
「うっ……ぅぅ……」
弱りに弱った私の身体はもはや一ミリたりとも動いてはくださいませんでした。ただ不甲斐なさのために頬の内側を噛むことくらいしかできません。
細い足が私の顔の前を通り抜け、一歩、また一歩と離れていってしまいます。手が届きそうな位置にはもう、彼女の姿はございませんの。
諦めの気持ち半ばに、霞む目で前を見つめます。
あの子の手には一本の杖が握られておりました。
いつものポップでキュートなステッキではありません。
最近の私がよく生成するような――やたらと先端を尖らせた、酷く実用的で殺傷性の高い形状をしていたのです。
それは今から彼女が行うことを暗に示しているような……冷たい決意の形をダイレクトに表しているかのような……見ているだけで筆舌に尽くしがたい寒気を感じてしまいますの。私の身体にずっしりと重く覆い被さります。
嫌ですの。……本当に、ダメなんですの。
貴女にはこの冷たさを感じてほしくありませんの。どこにも逃げようのない閉塞感を、一度たりとも味わってほしくはないんですの……ッ!
声にならない声を必死に振り絞りますが、それでも茜は歩みを止めてくださいません。
彼女の目の前には弱りきった様子の鳥頭がおりました。
もはや余裕も威厳も感じられない、それこそ茜の放つ鈍重なオーラに当てられて、小物同然な尻餅をついて、惨めにガクガクと震えているのです。
己のピンチを信じられないかのような、けれども悟った死期に対して必死に抵抗したいかのように……ただ無様で滑稽な後退りをなさっているだけなのです……っ!
逃げ腰の鳥頭との距離を少しずつ詰めて、とにかくつまらなそうな背中で、逆手に持った尖杖を……今、彼の首元目掛けて……!
音もなくただ無機質に振り下ろされ――
――振り下ろされることもまた、ありませんでした。
確かに確実に無慈悲に振り下ろされたと思ったのですけれども。いつまで経っても、杖先が敵の肉を抉るような音は聞こえてこなかったのでございます。
代わりに一つだけ聞こえてきたものがございましたの。
それは別の殿方のお声でしたの。
「――もういい。レッド。そしてブルー。お前らよく頑張ったよ。ここから先の作業は……俺ら悪役勢の専売特許だ。その心まで穢す必要はない」
私の脳を蕩けさせるこの〝絶対的な〟お声は……っ。
そして杖の風切音の代わりにこの耳に届いたのは……!
「……はぇ……うそ、ご主人、様……?」
「ふぅ。なんとか間に合ったな。よかったよかった」
敬愛する悪の総統閣下様のお声でございましたの。