尻だなんてえっぴぃお人ですの
こちらは25メートルプールを半分にしたくらいの大きさでしょうか。それより少し小さいかもしれません。
楕円形のラバートラック上で、15頭ほどのお馬さんがかっぽかっぽと厩務員の方に手綱を引かれて歩いておりますの。
背中にはそれぞれ数字が描かれたゼッケンが取り付けられておりまして、柵の外側からカメラを持った人や新聞を手に持った人が多くの熱視線を向けているみたいです。
トラックの後ろ側には巨大なスクリーンが取り付けられております。たった今目の前を歩くお馬さんがカメラで映されているようです。これなら離れた場所でも大きく見られそうですの。
柵の手前で立ち止まったカメレオンさんが説明をしてくださいます。
「パドックっつーのは出走する馬の様子が見れる場所なんだ。気合い乗りとか肉付きとか歩様とか、レース直前の雰囲気や視覚的な情報を得ることができンだ」
「ほぇー……」
ということは、おそらくここのお馬さんたちは第一レースに出場する子たちなのでしょうか。朝イチは未勝利戦でしたっけ。
確かに言われてみれば何頭かはフンスフンスと自信満々に鼻息を鳴らしていたり、力強く大地を踏み締めていらっしゃったりと、今にも走りたそうな子が複数見受けられます。
その逆にトボトボ歩いていたりだとか、厩務員さんにくねくねと戯れていたりだとか、レースに対してちょっと前向きではなさそうな子もおりますの。
ふぅむ、素人目でも結構いろんな表情が見て取れるんですのね。
「見るべき要素は多々あるンだが、人によって気にする部分は異なるナ。俺なんかはトモを一番重視してる」
「トモ?」
「尻周りのことだよ。正確には後脚の付け根から腰までの一帯」
「尻だなんてえっぴぃお人ですの」
「バーカ」
おでこを小突かれてしまいました。
冗談はさておき、私もそこを重視してみ……ようといたしましたが、各お馬さん毎の微妙な違いなんてさっぱり分かりません。どのお馬さんも軒並み筋肉質で張りがあって蹴り飛ばされたら数メートルは吹っ飛んでしまいそうなくらい逞しく見えるのです。
「馬っつーのは後脚でスピードを作る生き物だからナ。トモの筋肉が無けりゃ力強く地面を蹴ることが出来ねぇんだわ。
トモの上部の張りが身体のバランス、殿部の張りが推進力、そして側面の張りが両方を支える強者の証。全部が全部綺麗に揃ってりゃ、俺は人気が有ろうと無かろうと買い目の候補に入れるわナ」
「ふぅむ……難しいですの……」
張り、ですか。言われてみれば手がそのまま通り抜けそうな透き通った肌をしているといいますか、浮き出た筋肉によって身体のラインが表れている子がいれば、その逆にお腹周り含めてぷよぷよタプタプとさせている子もいるような気がいたします。
単なる体格だけでなく、筋肉の引き締まり方も重要……と。ふむふむ。勉強になりますの。なんか複雑になってきましたわね。奥が深いですの。
ここでモグラさんが私の肩をポンとお叩きになりました。
「ま、難しくお考えなさんなや。お嬢がビビッときた馬を買えばそれでいんでさぁ。周りを気にせず堂々と歩いてるとか、発汗が凄くて緊張してそうとか、毛ヅヤがとんでもなく綺麗とか。見た目で分かりやすいところから攻めるのでもイイんですぜ。他にも」
サングラスの向こう側に微笑みが見えます。初心者の私の為に簡単な言葉でフォローしてくださったみたいです。
見た目で分かりやすいところが目安ってことですのね。
そうですの。今思い出しましたの。今日の楽しみ方を忘れてはなりませんの。何も全てを難しく考える必要はありません。
私はお金を稼ぎに来たのではないのです。
外出を、そして競馬を楽しみに来たのですから。
コンテンツを楽しむ為の情報集めですの。
だから私の分かる範囲のことで良いのですっ!
「他にもっ、何ですのっ?」
そう思い直してキラキラとした目を向けて差し上げますと、モグラさんが得意げに言葉をお続けになられました。
「周りをキョロキョロ見てる奴はレースに集中できてない証とか、首を大きく上下させてる奴は気合い乗りがイイけど、興奮しすぎてイレ込み過ぎの奴はレース中のスタミナ不足を警戒、とか。
外側をキビキビ歩いているのは自信がある奴、なーんて通説もある。何を信じて何を重視するか、それは全部お嬢次第ってことなんさ」
「なるほどなるほど……」
私たち人間だって同じですわよね。自信満々なら胸を張って堂々と歩きますし、不安げなら肩を縮こませて小さく過ごしますの。
お馬さんにだって緊張で強張る子がいたって、走りたくてうずうずしている子がいたっておかしくありません。
仰ることにも充分納得できますの。私は気持ち面を重視したいと思います。
見た目も言葉も分からなくても、彼らの醸す雰囲気から伝わってくるところがあるかもしれませんからね。
でしたら私のイチオシは……!
ええと、ええっと……!
一頭ずつ目で追って吟味してみます。
「あっ」
私の第六感がとある一頭にビリビリと反応いたしました。
他のお馬さんと比べるととっても小柄で華奢に見えるのですが、つぶらな瞳の奥に確かな熱い炎が見えた気がしたのです。
外側を堂々と周回しているわけではありません。首をわんわんと振って気合を示しているわけでもありません。
けれども、逆に落ち着き払った様子が、来たるときに備えて黙々と集中を重ねているように見えるのです。その一つ一つの歩様に燃えたぎるような意志を感じますの。
根拠のない信頼感が私の心を捉えて仕方ないのです。
あ、今一瞬だけ目が合ったかもしれません。
私の思い過ごしかもしれませんが、やってやるぜと言わんばかりの凄みをこちらに向けられたような気がいたしますの。
「私、決めましたの。あのお馬さんが一番よく見えましたの。あの子を買いたいと思いますの」
対面をゆっくりと歩くその小柄な馬を指差します。
「えーっとどれどれ……?」
「あの4番の馬、ですかい……?」
カメレオンさんもモグラさんもお手に持つ新聞とお馬さんとを交互に見比べなさいます。彼らに習って私も新聞の馬柱を確認いたします。
ふぅむ、あのお馬さんの情報は、と。
悲しいことに記者の予想証はあんまりよろしくありません。◎も◯も一つもなく、せいぜい△が二つ付いているだけ。最後の記者さんだけが☆マークを付けていらっしゃるようでした。
- - - △ △ ☆
きっと典型的な穴馬さんだと思うのです。記事欄の一言コメントいわく、一変の可能性はアリ、とのことですの。
気になるお馬さんのお名前は……。
「スモールサンセットですか。うふふ」
いいじゃありませんの。
運命的なナニカを感じますの。
「あー、まぁー……うん。俺は、あんまりオススメしねぇがナ。11番人気だし。休み明けだろうし今回は調整出走だろ」
「読み解いた感じ、数ヶ月放牧に出してたみてぇですが、あんまり馬体重が戻ってねぇのが気になりやすね。。あー……正直今回は見の方がってのが、イチ競馬ファンからのぶっちゃけた助言でさぁ」
カメレオンさんもモグラさんも、あんまり乗り気ではないみたいです。残念ですの。
ですが、いいのです。
買うも買わぬも全ては自己責任なのです。
全部が全部人気の通り走ったらギャンブルにはならないのでしょう?
どんでん返しに期待してこそ、右も左も分からぬ弱き者こそ薄い未来に賭けるべきなのです。
それに初めての馬券購入なんですもの。
最初の一頭くらいは自由に選ばせてくださいまし。
負けたら負けたで後でキチンと考えますの!
「まっ、青ガキが買いたきゃ買えばいいんじゃないか? 俺は止めないゼ。〝負けを知るのも競馬の一つ〟だ」
「ぐぬぬぬ……〝勝ちの甘美を知るのもまた競馬〟ですのっ! 今に見てなさいまし!」
今の格言は私が咄嗟に作りました。有言実行してやりますの。今に見てなさいまし。その爬虫類面をおっと驚かせて差し上げるんですから。
「んじゃ、気が済んだらそろそろ馬券購入といこうか。ホントは騎手が跨るタイミングまで見ていた方がいいんだが、ギリギリだと発券場が混むからナ」
「了解ですの!」
カメレオンさんたちに連れられてパドックを後にいたします。
今回ばかりは振り返りません。後ろ髪引かれる思いなんて一つもございませんの。根拠のない、されども絶対的な自信に満ち溢れているのです。
いざ、私の確信を結果に反映させるときですわね。