緑髪の少女
「うぁっとっ。あらごめんなさいのってぇぁ!?」
目の前にいらした他のお客さんにぶつかってしまいました。少々高めのヒールを履いていたものですから、思いっきりバランスを崩してよろけてしまいます。
みっともなく尻餅をつくような失態には至りませんでしたが、逆にその人に覆いかぶさるように倒れもたれる形となってしまいました。
完全に前を見ていなかった私に非がありますの。
言い訳をするつもりもございません。
「いつつ……すみませんの……今退きますから」
被害者さんにお声がけいたします。
この柔らかでふわっとした感触は……女性特有のものだと思いますの。触った感じではかなり細身なお身体ですが、決して骨張った様子はなく――ってそんなこと今はどうでもよろしいですわよね。
ふわりと漂うどこかで嗅いだことのある優しげ香りに、心の底から朗らかな気持ちになってしまいそうでしたが、どうにか気を持ち直して彼女と距離を取ります。
しっかりと体を起こしてから改めて謝罪の意を示しますの。
「ええと、すみませんの。お怪我はありませんでして? つい新聞の記事に気を取られて前方不注意となっていたものですか――ふぅむ……!?」
謝罪の途中で言葉を失ってしまいました。
仕方ないのです。目の前にいらした方が思いの外美人さんだったんですの。つい呆気にとられてしまったのです。
先に言っておきますが、別にトゥンクと胸が高鳴ったわけではございません。ただ単にびっくりしてしまっただけですの。
だって、とにかく綺麗な緑色の髪をお持ちでいらっしゃるんですもの。深いエメラルドグリーン色の髪が今まさにキラキラと太陽の光を反射させております。
ショートボブにまとめられた髪型と品良く端正な顔付きが合まって、それこそファッション雑誌の表紙を飾っていそうなほどの美貌が目の前に体現されているのです。
ふ、ふふん。体型といい髪質といい、美人がウリの私とかなりいい勝負をしておりますの。
「………………大丈夫……」
腰の辺りを手で払いながら、緑髪の彼女がすっくとお立ち上がりなさいました。
表情一つ変えないあたり、クールビューティな印象を受けました。私と互角の勝負を繰り広げたいようですわね。いいですの。真っ向から受けて立ちますの。
身代わりクッションとなってくださったこの女性ですが……正確に言えば、オトナの女性と女の子のちょうど境目くらいのご年齢といえそうでしょうか。
ぼそりと小さく発せられたお声を聞いた限りでは、まだまだ若々しい雰囲気を微かに醸し出されておいでです。
体感的には私よりも歳下だと思いました。きっと高校生か、下手すると中学生くらいのご年齢なのかもしれません。
ゆえに女性というよりは少女と言うべきなのでしょうか。つまりは緑髪の少女さんですの。
体型自体はスレンダーなモデルさんのようですが、細部やらをじっくりと眺めて見てみれば、そのお顔立ちにはあどけない子供心が見え隠れしておりまして……!
たまにいらっしゃいますわよね。他の方よりも幾分か身体の発育のよろしい子って。かくいう私もそうでしたもの。特に胸周りの成長が著しくて困ったものです。
それにほら、私だってツヤツヤと青く煌めく麗しい長髪を持っておりますのよ。幼い頃から絶えずメイドさんが梳いてくださったおかげですの。自他共に認める宝石の如き艶髪なのです。
……ただ、こんなところでこの少女に対抗心を燃やしても何の意味もないですわよね。
うふふ。ここで出会ったのも何かの縁ですの。
素直に認めて誉めて差し上げて、オトナの余裕というモノを見せて差し上げましょう。
「コホン。貴女、とても綺麗な色の御髪をお持ちなんですのね。とってもお似合いでお美しいですの。
あ、ごめんなさいな。いきなり変なことを言ってしまいましたわね。無意味な呟きだと思って右から左に聞き流してくださいまし」
「………………ううん。ありがとう……」
先程と同じ無表情のままでしたが、言動から察するに怒ってはいなさそうです。ほっと一安心いたします。
どうしてかこの淡く光を反射する緑髪にはキリッとした三角メガネが似合いそうだと思ってしまいました。
どこかデジャヴを感じたといいますか、まるで過去にお会いしたことがあるような……うーむ、ふぅむ……ダメですの。全く思い出せません。
まぁ実際のところこの人にはメガネ愛用者さん特有の鼻筋の跡も付いておりませんし、ただの他人の空似というモノでしょう。気にするだけ時間の無駄ですの。
ぺっぺと雑念を振り払っておりますと、次言を待ちかねたのか緑髪の彼女が静かに口をお開きになられました。
「………………あの、急いでるので…………」
「ああ、ごめんなさいな。引き止めてしまって」
まるで蚊が鳴くようなか細い声でした。耳を澄まして聞いていなければすぐにでも雑踏に埋もれてしまいそうなほど、主張の乏しい声量です。言葉のわりに困った様子が感じられなかったのは、少しも変わらぬ無表情のせいでしょうか。
「おい青ガキ。俺らも先を急ぐぞ」
カメレオンさんが私の腕を引いて催促なさいます。
「了解ですの……あ、ちょっと」
少しばかり強めな力で引っ張られてしまい、自然と彼女の眼前からの移動を余儀なくされてしまいました。
「えぇっとではではごきげんよう。今日は一日、貴女も素晴らしきお競馬ライフをお楽しみくださいまし〜。はぶあないすでい、でーすの〜」
手をひらひらと振りながら、カメレオンさんに連れられて足早にこの場を立ち去ります。
人生とは一期一会の連続なのです。
また会うことはおそらくないでしょうが、こういう偶然の出会い一つ一つを大切にしたいですわね。自由に振る舞えるようになったからこそ、小さな思い出のカケラ一つであっても大切に扱っていきたいと思えるのです。
駆け足の最中に振り返ってみましたが、もう先程の場所には緑髪の彼女はいらっしゃいませんでした。
競馬ファンたちの人の波に呑まれ、どこかに消え去ってしまったみたいですの……。
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『あー! 翠ちゃんいたー! んもーどこ行ってたんですかー!? パトロールサボってちゃダメでしょう!? ただでさえここは広いんですから』
『………………桃香……』
『ん? どうかしました? 珍しく無表情に毛が生えたくらいのビッミョーな微笑み浮かべてるみたいですけど』
『…………ついさっき、変な人に出会った……』
『へぇ、珍しいですね。翠ちゃんがそう言うってことはホントに変な人だったんでしょう。私、あなたが他人に興味を持ったところあんまり見たことないですし。基本的に無関心で無感情の塊ですし』
『…………それは、さすがに失礼……』
『でも実際そうじゃないですか。翠ちゃんって基本的に挨拶は返さないわ会う約束はすっぽかすわで。自由気ままなのは別に構わないですけどっ! 世の為人の為、正義の味方として最低限の見回りはやってもらわないと困りますからね! もちろん私の相方として!』
『………………はぁ。……分かってる……』
『分かってるなら態度で示すことっ! いいですね!』
『…………桃香はホントしつこくて強引。貴女こそ、やる気だけの塊……』
『失礼な! これでも最近はちょっとずつ適合率上がってきたんですからね! まだまだあなたには及びませんけど! すぐに追いついてやるんですから!』
『…………ふっ。せいぜい、楽しみにしてる……』
『だったらっ! つべこべ言ってないでパトロールの二周目始めますよっ! ついさっき、また信頼度高めな怪人の出現報告が来たんです! 二人で力を合わせて見つけ出して撃退するんです!』
『………………はいはい……』
『ハイは一回でよろしい!』
『………………はぁ……』
『ちょっと翠ちゃん!? 今の返事じゃないですよね!? あ、翠ちゃーん!? いきなり走って逃げないでくださーい! 私あなたよりも足遅いんですよー!? 一回離れたら簡単には追いつけないんですよーって、こら待ちなさーいーっ!』
『……………………ふふっ…………』
――――――
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小走り気味だったカメレオンさんが急に立ち止まられました。またもやつまづいてしまいそうになりましたが、今回は意識していたおかげかすんでのところで踏ん張ることができました。
ふふふん。私、早速成長しておりますの。高めのヒールでもド安定のバランス力を獲得ですの。
それはさておき。
「……ヨシ。追っ手は来てないナ」
「ふぅむ? 何の話でして?」
「こっちの話だ気にすんナ。そんなこんなで着いたゼ。ここが次の目的地のパドックだ」
おお、待っておりましたの。先に話していた噂のパドックとやらに着いたんですのね。ここは何する場所なんですの? 競馬にどんな影響がございまして?
とりあえず辺りを見渡してみます。