娑婆の空気が美味いですの
膝に手をつきながら、もう一度カメレオンさんの方に向き直ります。どうやら腕を組んで少しばかり顰めっ面をしていらっしゃいます。そこそこご立腹のご様子です。
十中八九私の単独行動に対してで間違いありませんでしょう。
だーって仕方がないでしょうー。
さっきのは全くの事故なんですのー。
先に教えてくれないのがいけないんですのー。
と、性懲りも無く駄々を捏ねてもよいのですが、今日はせっかくのお出かけ日です。待ちに待った外出許可日なのです。
平和的に話を進めた方がお互いの為ですわよね。開き直るとはいっても少しの詫びの気持ちがないわけではございません。こちらが悪いことは百も承知しておりますの。
「えと、カメレオンさん。もう勝手な行動はいたしませんの。この通りですの。だから許してくださいまし」
私も子供ではありません。キチンと謝罪の意を込めてしゅんと頭を下げます。今できる精一杯の反省の意思表示です。
しばらく待っておりますと、前方から大きめの溜め息が聞こえてまいりました。恐る恐る首を上げてみます。
ゆっくりと腕組みを解除なさる彼のお姿が目に映りました。
「ハァーッしゃーねぇ、初めてだから大目に見てやる。言っとくが次はネェからナ。今度勝手に動いたら首根っこ掴んで送り返してヤんから覚悟しておけ」
「ほいですの。しかと肝に銘じますの」
ご機嫌こそ戻してくださったようですが、お説教自体はまだまだ終わらないみたいです。カメレオンさんが向かい側の手洗い場に腰掛けて続けます。
「いいか? リスクってのは何よりも回避するべき代物だ。誰かが足を引っ張れば、その分他の誰かが余計な害を被るコトになる」
「はいですの」
「イイ返事だ。はしゃぐのは個人の勝手だが、この俺がカバーできる範囲にも限界っつーモンはあるんだわナ。
閣下から直々に頼まれているとはいえ、出来ることならバカガキの世話ではなくて、聡い娘っ子のお守りくらいにさせてもらえるとヒッジョーに助かる」
「ぜ、善処いたしますの……!」
総統さんのご命令なのは間違いありませんが、カメレオンさんだってわざわざ自分のプライベートの時間を削ってまで私を外に連れてってくださるんですものね。
今回は私の行きたいところというよりは彼のお出かけに付き添わせていただく形とはなりましたが、基本的に私の手綱はカメレオンさんが握っているのと同義なのです。
手綱というよりは引綱でしょうか。繋がれた範囲から出ることはできません。キャンキャンと暴れ回ることはできますが、大人しくしていた方が愛されるのも事実だと理解しております。
私自身、お手と言われたら黙って右手を差し出すくらいの素直さは持ち合わせているつもりです。
「ま、話の流れにはなるが、この際だから一応教えといてヤんよ。今となっては後の祭りに等しいが、次回の為にもなるからナ。
転移の心得のその一、転移する前には転移先で誰かに見られるリスクが無いかを逐一確認するコト。今回はエンジニアが監視してたからいいが、もしこんな場所で一般人と鉢合わせたらどーすんだ? 即通報の即逮捕案件になるだろ? 隠密作戦なんてのは夢のまた夢だろうナ」
「えっと……確認の仕方は、また次に利用する際に伺えばよろしくて?」
「おうそうしてくれ。んでは続けて心得その二。初めのウチの転移は座ってからやるコト。酔いやすいヤツは特にだな。座るだけでも身体に掛かる負荷もいくらか軽減させることができる。
ほえー、先に座ってたらよかったんですのね。ぐわんぐわんと縦揺れも横揺れもパンパなかったですの。これはやっぱり先に教えていただきたかった内容と言えましょう。
魔装娼女モードならまだしも、生身の身体では体力も忍耐力も人並み以下ですもの。ずっと変身したままでいればよいというのも分かりますが、それでは品も興も趣もありませんし。
ともかく諸々了解ですの。諸々気を付けますの。
「最後にその三、帰る際は同じ場所から。今回で言うならココ、西門前の多目的トイレだな。誰も居ないことを確認してから部屋に入って、また手を上げて〝転移〟と叫べば結社の係員が起動してくれる。今日は終わったら三人まとまってココに戻るぞ」
「かしこまりましたの」
「よーし。それじゃ俺とモグラのお待ちかね、トーキョー競馬場観光といこうぜ」
お二人が楽しそうであれば何よりですの。私としては競馬場だけではなく、三年ぶりの外の世界ということ自体がお待ちかねなんですから。
グロッキー状態から回復なさったモグラさんが扉の鍵を解除なさいます。カチャリ、と。乾いた金属音がこの密閉されたおトイレ空間内に静かに響き渡りました。
扉の隙間から暖かな日の光が差し込んでおります。
しかしお二人とも扉から出ようとはなさいません。
ニヤニヤと変な笑みを浮かべていらっしゃいますが、決して嫌味ったらしいモノでもなく、どちらかと言えば歳上のお兄さん方のようなお優しい微笑みに見えますの……?
あ、もしや私に一番乗りを譲ってくださいまして?
「えっと、いいんですの……!?」
そんな大役を私めが務めてしまっても。
この扉を開ければ外に繋がっているはずです。
ずっと待ち侘びていた、懐かしの外世界なのです。
羽化直前のセミになった気分です。
世を生きる人は皆高い空を見上げ、優しい日差しに感謝して生きていたはずなのです……! たった今それを思い出しましたの……!
一回大きく深呼吸をしたのち、多目的トイレのスライドドアに指をかけて、そして大きく開け放ちます!
ガラガラと音を立て、壁の隙間にすっぽりと収まりました。
強い光がダイレクトに私の身体を照らします!
「うぅう……! とんでもなく眩しいですのぉ……目が……目がぁぁ……!」
ただでかえ名順応に乏しい私には激し過ぎる光です。取り替えたての蛍光灯よりも、昼光色のLED照明よりも強いホントの生の自然光……つまりは太陽光そのものは刺激が強過ぎるんですの。
それでも、私は空を見上げることをやめません、
綺麗なまん丸を網膜に焼き付きます。化学的には残像効果とか言うんでしたっけ? 目を瞑ってもしばらく消えないくらい鮮明に残っているのです。
この眼球の奥にくる痛みにも似た刺激のせいか……自然と涙が溢れそうになってしまいます。
「バーカ、さすがに直視すんナ。目ぇ悪くすンぞ」
「だってぇ、だってぇ……この光を待っておりましたの……! いざ日光浴ですの、光合成ですの、気分は新緑の若葉ですの……!
すぅぅぅう、はぁああああっ、娑婆の空気が美味いですの……! 三年ぶりの外気だけでご飯が食べられそうな勢いですのぉ……!」
「あー、まぁそりゃあ確かにゲロ臭ぇ密閉空間よりは何倍もマシだろうナ」
コラそこ、感動の雰囲気が台無しですのよ。デリケートな乙女の吐瀉物話題を掘り返さないでくださいまし。
気を取り直してもう一度空を見上げます。
久しぶりの外世界です。雲一つない見当たらない青空です。明る過ぎるせいか、目の上に手をかざしていないと周囲を見渡すことも叶いません。
その不憫さがたまらなく嬉しくて。長らく忘れていたこの明るさをより強く実感させてくれるような気がいたします。
春と夏のちょうど間のような、寒くもなければ暑くもない、とても過ごしやすい気候の世界が私の心をうんと大きく暖かくしてくださるのです。
「はぁああ……サイッコーにいい天気ですの……ッ!」
「ああ。絶好の競馬日和だな。芝ダート共に良馬場間違いなしだ」
「よく分かりませんがきっとそうですのっ! さぁさ、早くこの私をエスコートしてくださいましっ。競馬の魅力とやらをっ、このスペシャルビューティー美麗さんにっ、一から十までずずずいーっと堪能させてくださいましっ!」
うふふ。これより、競馬場探索スタートですの!
「あーその前に、まずは入場からだな」
「ほえ? まだ入ってなかったんですの?」
「当ったり前だろ」
まだ始まってもいないということなんですのね?
別に構いませんの。全てをプラスに捉えて差し上げますの。
一からではなくゼロからということは、本当に順を追ってご説明いただけるということですもんね。
細かいことはいいことですの。とっても素晴らしいことだと思いますの。今日一日説明を聞いたらきっと競馬マスターになれそうな予感もいたします。
わくわくドキドキうきうき素敵、ストレートでも変化球でもバッチこいですの。何でも吸収して差し上げる所存でございますから。うふふのふ。