意地のおかげ
どれほどの間、茜さんに頭を撫でられ続けていたのでしょうか。
いつの間にか涙は止まっておりました。
充分過ぎるほど彼女の温もりと香りを堪能させていただきましたの。こちらも抱き締めるのをやめて正面に向き直ります。
先に断っておきますが、抱き締めすぎて息苦しそうになったお顔に気が付いたからではございませんの。勘違いなさらないでくださいまし。
……いえ、嘘をつきました。ごめんなさいですの。キツく締め上げ続けてしまった後ろめたさを誤魔化したくなっただけですの。
病み上がりのお体には酷だったかもしれませんわね。素直に反省いたします。
「美麗ちゃん。どう? 落ち着いた?」
「ええ。おかげさまで。ありがとうございました」
陰りのない微笑みを向けてくださいます。まるで聖母のような、というのは流石に過剰かもしれませんが、荒んだこの心にあなたの笑顔が染み入りますの。
正直に言えば今も名残惜しさが甚だしいのですが、これからはずっと一緒にいられるのです。いつだって彼女の体を楽しむことができるのです。
この蒼井美麗、貴女の変わらぬ優しさに包まれて、間違いなく優雅に華麗に完全復活いたしましたの。断言できますの。
「あなたの方こそ、落ち着かれまして?」
「うん……一応、ね」
それはよかったですの。少し浮かない顔をしていらっしゃるのは記憶の欠如への不安のせいでしょうか。その気持ちも重々に分かります。ただ、私の方が沈んでしまっていては、彼女も安心できないかもしれません。
温かな気持ちで満たされた頭で考えてみます。
私は今、幸せか不幸せかと問われれば、正直に言えば前者とも言えなくない心持ちです。
これまでに失った物は多いですが、取り戻せた物だって少なくはないのです。
茜さんもメイドさんも無事と分かったのです。どちらも〝お身体は〟という前提条件が付随いたしますけれども。
ほぼ孤立無援と化していたこれまでに比べたら、今は総統さんだってハチ怪人さんだって、それにローパー怪人さんだっていてくださいます。
これ以上を高望みするのは簡単ですが、今に納得できない者に明るい未来は訪れないと思いますの。
あ、そういえば。ローパー怪人さんで思い出しました。茜さんの治療結果について、彼にキチンと問い正しませんと。
鼻を啜り、目を擦り、そしてぱっぱっと頬を叩いて気持ちを切り替えます。ヘルメットから離れられたローパー怪人さんを正面に捉えますの。触手を腕のようにまとめて、体の前でお組みになっていらっしゃいます。
「コホン。ローパー怪人さん。取り乱してしまってすみませんの。もう大丈夫ですからご安心くださいまし。改めまして、茜さんの容態について色々とご説明いただけますでしょうか」
質問を投げ掛ける側としての体裁を整えたのち、彼にお願いを向け直します。この真面目な様子を見てか、横の茜さんも私に習って小さくぺこりと頭を下げてくださいました。
「ヨカロウ。二人トモ楽ナ姿勢ニナルガイイ」
「ありがとうございますの」
治療中の緊張感に比べたら、今は遥かにリラックスされているように感じます。彼も彼でずっと緊張の糸を張ったままでいらしたのでしょう。
一時はどうなることかと思いましたが、貴方が居なければ今の茜さんの無事はありませんでしたわ。感謝いたしますの。
彼の快い返答を聞いてか、茜さんは私に体重を預けるようにして地べたにちょこんと座り直されました。いわゆる体育座りという体勢です。
彼女が少しでも楽な姿勢を保てるよう、私は背筋を伸ばして背もたれになって差し上げます。この心を落ち着かせていただいたお礼ですの。どうぞ存分に寄りかかってくださいまし。
「結論カラ先ニ言オウ。汚染サレテイタ記憶ノ消去ハ成功シタ。少ナクトモオ前ラガ争イ合ウ理由ハ無クナッタトイウワケダ。
モチロン、魔法少女ノ記憶トイウ大キナ犠牲ヲ払ッタコトモ忘レテハナランガナ」
「そう、ですわね……」
悔しいですが、彼女の心身の安定を考えたら致し方ないことなのだと納得せざるを得ません。悲しさに沈んだ気持ちは先ほどの涙と共に洗い流しました。この身に残っているのは良い意味での諦観だけですの。
もちろん完全に腑に落ちたわけではございませんが、流れる時間が心の整理を促してくれるものと信じて、今は目を瞑るより他にありません。
「魔法、少女……? なんだか、頭の奥が、ズキッて、ビリビリってする、響きだよ……? でも、私は、これを、知ってる……? あれ……?」
「茜さん。あんまり深く考えてはいけませんの。今のあなたには関係のない話ですの」
これまでとは一旦サヨナラして、ここで新たな思い出を紡いでまいりましょう。何事にも縛られない、自由で健康的で安心安全な思い出を一緒に、ですの。
「全テヲ悲観スル必要ハナイ。ソノ赤イ小娘ノ意地ガ功ヲ奏シタノカ、断片的トハイエ一部ノ記憶ヲ残スコトニハ成功シテイル。ぶるーノコトヲ覚エテイラレタノハ、ソノ恩恵ニヨルトコロガ大キイダロウ」
「なるほど、意地のおかげ、ですか」
やはり茜さんは、気を失う直前まで汚染に抗っていたということですのね。意地の役目を終えたからふらりと意識を手放されたということなのでしょうか。
でも、どうしてでしょう。手放しに喜ぶことができません。ローパー怪人さんの腕組みがそう語っているように思えてなりませんの。
私の疑問符を浮かべた表情に、彼が応えてくれそうです。
「但シコレニハ弊害モアル。些細ナコトガ原因デ、連合側ノ記憶ガ再編スル恐レガ有ルトイウ点ダ。多少ノ脳内刺激ガ加ワルクライナラ問題ナイダロウガ、ソレガ度重ナッテシマエバ、大キナ負荷トモ成リ得ル。懐古ハ避ケタ方ガイイダロウ」
ローパー怪人さんは渋い雰囲気でお続けになります。
「オイ赤イ小娘。便宜上れっどト呼バセテモラオウ。〝ソノ時〟ガ至ルマデ、オ前ハ出来ル限リ過去ヲ振リ返ロウトハスルナ。コレカラハ未来ダケヲ見テ生キルノダ。
ソノ娘ト共ニ過ゴサバ、過ギ去リシカツテノ日々ナドドウデモヨクナルデアロウ。
……モチロン、記憶ノ欠落ニドウシテモ耐エラレナイト訴エルノデアレバ、弊社側デ納得ノ付クヨウナ都合ノ良イ記憶ヲ植エ付ケテヤルコトモ出来ル。後々好キニ選択スルガイイ」
「分かり、ました。ありがとうございます……? で、合ってるのかな。よく分かってない、けど」
言葉の選択に悩んでいそうなご様子でしたが、最終的には自分なりに飲み込まれたようです。それでいいと思います。
都合の良い記憶、ですか。これを決めるのは茜さんですの。これ以上の干渉はただの私の押し付けとなってしまうかもしれませんから。
記憶を消すことが可能なら、付け足すことだって自由自在だということですのね。便利を通り越して恐ろしさを覚えますの。
「色々大変になるとは思いますが、まずはお互い頑張って新たな生活に慣れていくことにいたしましょう」
「そう、だね」
今は精神的にも肉体的にもなんとかなっていそうだからよいのですが、ふと冷静になられたときが不安ではありますの。PTSD的なフラッシュバックがないとも限りません。しばらくの間は彼女のアフターケアを第一に考えていく所存です。
その不安そうなお顔を、私が少しでも和らげて差し上げられることを祈ります。
「これから賑やかになりそうだな」
総統さんの呟き声が聞こえてまいりました。