汚染
扉の先から眩い光が差し込んできます。早速目をやられてしまいました。明順応は私の最大の敵かもしれません。
十数秒ほど待っておりますとようやく視界がクリアになってまいります。
「……えっとここは……病室、ですの?」
先程の固い岩肌の通路から打って変わって、どこかで見たことのあるような白一色の世界が目に飛び込んできます。
ついデジャヴを感じてしまったのは、ここと同じような連合側の病室に居た記憶からでしょうか。あちらは清潔感を突き詰めた結果生み出されたような、無機質で無愛想で色も味気も何もない空間でした。
けれど、この部屋の雰囲気は似ているようで全く異なっているのです。清潔感を感じさせる白を基調とした壁デザインなのは変わらないのですが、なんだか空気自体が温かいんですの。心からほっこりいたしますの。過ごしやすい気温の為だけではありません。
微かに甘い香りが辺りに漂っておりますの。
私に塗りたくられたはちみつとはまた微妙に異なる……いや、一緒と言えば一緒の感じなのですが、その……鼻を通り抜けるニュアンスが、こちらの方が爽やかで甘酸っぱい感じがいたしますの。
なんとか嗅ぎ分けてみようとくんくん鼻を鳴らしておりますと、隣に居るハチ怪人さんがくすりと微笑みを零されました。
「貴女、中々に敏感なお鼻をお待ちのようですわね。違いがお分かりになりまして?
この部屋はミカンの花から抽出したはちみつのお香を焚いているのです。ちなみに診察室で使用していたのはシロツメクサですわね。さらに言えば貴女に塗ったはちみつ軟膏はリンゴをベースに精製されておりましてよ。些細な違いと笑われるかもしれませんが、私個人の譲れないこだわりです」
「……いえ、素晴らしいと思いますの。この香り、なんだか元気な気持ちにしてくださいますわね」
「ええ。香りにも色々と役割がありますもの。落ち着きと安らぎだけがお香に求められるモノではないのです」
私の返答ににこやかに微笑んでくださいます。優しいお姉さんの微笑みです。確かにこの香りを嗅いでいるととても前向きな気持ちになれますの。香りそれぞれにも意図を持たせられるとは、また一つ勉強になりました。
彼女に向けてこくりと頷き、改めて前を向き直します。
「おお、ブルー。こっちこっち」
「総統さんっ」
こちらを手招きする総統さんが目に映りました。
壁際にはそれぞれベッドが四台設置されておりまして、右側二番目のベッド付近に彼が立っていらっしゃいます。
たったかと駆け足気味に傍に近寄ります。
つい一時間ほど前に別れたばかりだといいますのに、既に再会を喜んでいる自分がおりますの。なんだか不思議な感覚です。
「その様子じゃ足はもう大丈夫そうだな。
……ん? なんだかお前、いい匂いがする」
「えへへ、分かります? ハチ怪人さんのおかげですの。綺麗さっぱり清めていただきましたの」
「そうか。そいつはよかった」
彼もまた優しそうな瞳で微笑んでくださいました。香りがこんなにも周りに影響するとは。
うふふ。自分でも分かりますの。ふとしたときに匂い立ちますので、気が付く度に気分も華やかになりますの。こちらはとっても落ち着く香りですものね。
ちょっとだけ誇らしげな気持ちになりましたが、今進めるべきはこの話題ではありません。
「それはそれとして、お二人のご様子はいかがですの?」
総統さんの見つめる先に、私も視線を移します。
「安心しろ。両方とも峠は越せている。ちっこい方はじきに目を覚ますと思うが……連合側の洗脳具合を確かめる必要もある。即退院とはいかないだろう」
「では、メイドさんの方は……?」
私から見て右側に茜さんが、左側にメイドさんがベッドに寝かされていらっしゃいます。
「明らかにこっちの方が重症だな。なんとか一命は取り留めたものの、とにもかくにも出血が酷い。今も最善を尽くしてはいるが……いつ目を覚ますかはこの人の生命力次第だろう。心停止していた時間も短くないから、目を覚ましたとてノンダメージとはいかないかもしれん」
「そう、ですの……」
どちらにせよ手放しでは喜べない状況なんですのね。つい昨日まで普通にお喋りできていたことを思うと、胸がキュンと締め付けられてしまいます。
ああ、早く目を覚ましてくださいまし。待ち遠しいですの。
ベッドの上に横たわるお二人を見つめます。
茜さんは穏やかに寝息を立てて眠っておられますが、反対のメイドさんは口に人工呼吸器を付けられていらっしゃいます。傷だらけになっていたお身体には至る所に包帯が巻かれておりまして、肘裏には輸血用の製剤パックも繋がれているのです。
色白のお肌がより青白く見えてしまいました。
本当に間一髪だったのが分かります。
お手に触れてみると、微かに温かさを感じました。
一度は諦めた命ですが、まだ灯火は残っていたのです。
いつ目を覚ますか分からないとしても、死んではいないというこの事実に、この上ない安堵が湧き上がってきてしまいます。
感涙にうっすらと目が滲んでしまいますの。
「……早く目を覚ましてくださいまし。私、いつまでも待っておりますから」
この胸に誓います。金輪際、貴女を心配させるようなことはいたしませんの。戦いに出ることも、この身を傷付けることもしなくてよいのです。
総統さんには感謝してもしきれませんわね。私にとっての本当のヒーローは彼なのです。たとえこれが一時の感情であり盲信であったとしても、受けた恩を仇で返すつもりはありません。
それが淑女たる私の義と言えましょう。
いつか必ず恩返しいたしますの。
私の大切なモノを守っていただいたように、今度は貴方の大切な守らせていただきますの。たとえそれが、この世界の理に背を向けた行為であったとしても。
新たな決意を胸に掲げた、そのときでございました。
「んぐぅ……ぅ……ぁ……あっ……」
「茜さん!?」
ピクリと、茜さんの指が動いたのです。
小さな呻き声も発せられます。
「待て。何か変だ。一旦様子を見よう」
総統さんが平手を突き出して制止なさいます。
「…………す。……ろ……す」
「茜さん? いかがなさいまして?」
とても虚な目をしていらっしゃいますの。いかにも心ここに在らずといったご様子で、顔にも体にも全く生気を感じられません。
そう思った刹那のことでした。天井から伸びる見えない糸に吊るされたかのように、茜さんがむくりと半身を起こされたのです。感情の見えない機械的な動作に何故だか気持ち悪さを覚えてしまいます。
口元を見てみるとモゴモゴと何かを呟いていらっしゃいます。けれども開き具合が甘いのか、明確な言葉にはなっておりません。
なんとか聞き取ろうと、この場にいる三人とも、息を殺して耳を澄ませます。
「――ろす。殺す。殺す」
「へっ……!?」
「怪人は殺す。裏切り者は殺す。連合の敵は……即刻制圧して殺……んぐぅぁッ!? なんなの、これ……嫌……嫌ぁ……っ」
「茜さんッ!?」
聞き取れた言葉に耳を疑ってしまいました。間違いなくいつもの茜さんの言葉遣いではありません。まるでロボットのように無機質で無感情な声色です。しかし時折我に返ったかのように動揺に震えた声も発しなさいます。
しばらくすると、彼女は何かに怯えるかのように、頭を抱えてガタガタと震え始めました。
「まずいな……だいぶ汚染が進んじまってる」
「そんな……!」
今もなお彼女は心の中で戦いを強いられてしまっているということなのでしょうか。自身に植え付けられた偽りの感情に、必死で抵抗していらっしゃるのでしょうか。
うぅ、そんなのってあんまりですの。やっと、私たち二人とも解放されたと思いましたのに。いつまでもいつまでも、魔法少女という責務が悪夢のように付き纏って……!? ヒーロー連合の圧がこの身とこの心を焼きにきているんですの……!?
「うぐぅ……ガハッ……み、美麗ちゃん……!?
ねぇ、美麗ちゃん……そこに、居るの……!?」
俯かれたまま、茜さんが私の名前をお呼びなさいます。