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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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6.かみの世界へようこそ


「次はどこへ?」

「最後は紙屋。今度は時間が掛かるから、本当に帰ってもいいよ?」

「構わないさ。さぁ、行こう」


 藤通りを路地から南に抜けて、袋小路に入った。正式名称ではないが、この袋小路は『紙市場』という呼称があり、その名の通り紙屋が八店も軒を連ねている。

 何故この場所に紙屋ばかりが集まったかと言えば、元は同じ紙屋が、店が手狭になるたびに建物を増やしていっただけのことで、それが時を経るとどうしたことか、それぞれに独立した店となり、今では親戚でもなんでもない赤の他人が個々の店を商っていると言う。

 面白いことには、どの店にも創業者一族が残っていないという話だ。

 何があって店を広げた創業者の一族はすべてを手放すことになったのか。今の店主たちに通じた者たちはどうやって店を得て紙屋を始めたか。という問題は、人の想像力をよく掻き立てる話題なのだろう。街ではこの紙市場について面白おかしく語り継がれている噂話はいくつもあるが、当の紙屋の現店主たちはこの話題に関して口を噤んだままだ。

 かつての八つの紙屋の店主が結託し、創業者一族を葬ったのでは?という話を聞いたときには、さすがに私も眉を顰めたし、それが過ちであったとしたら失礼過ぎると思うのだが、何故かどの紙屋の店主もこの噂話すら否定していない。

 こうなると、あえて何も言わないのだろうと予測した。真実はとてもつまらない話なのではないか。


 しかし写本師にとっては、成り立ちなどはどうでもよく、紙屋が集まっているこの環境は喜ばしいことだった。

 何度ここに八つも紙屋があって良かったと思ったか分からない。


 しかし今日は一店しか見ない約束がある。

 どうしたものかと思案すれば、珍しい人を連れているのだから、この人に運を任せてみようと思い立った。


「ここにある店はすべて紙屋なのだけれど、どの店に入るか、選んでくれる?」

「私が選んでいいのか?」

「うん。お任せするよ」


 本当はすべての店を見たいところだが、玉翠との約束で、一日に巡る紙屋は一店だけと決まっていた。


 それは幼い頃に夢中になって紙屋を巡ったあと、熱を出したことがあったからだ。

 それが紙屋で興奮したせいだったとは限らないが、心配した玉翠が紙屋は一日に一店までと決めてしまった。


 ただしこういう紙が欲しいと決めて来たときには、ここにあるすべての紙屋を見てもいいことになっている。この場合は、目当ての紙以外には目移りしないことが条件だった。


 という話を、中嗣にするわけはなく。

 伝えたら大騒ぎして、もうこの紙市場には一人で来られなくなりそうだからね。


「そうだな。では、そこの店に」


 中嗣が決めたのは、赤い看板を掲げた店だった。

 この紙市場では、それぞれの店が色の違う看板を出しているので、客のほとんどは店主の名ではなく、あの色の紙屋と呼んでいると聞くし、私も玉翠も同じように紙屋を色で区別している。今日も帰ったら、赤い紙屋に行って来たと伝えることになるだろう。



 さっそく赤い紙屋に入れば、まずは客の姿が目に入る。


 どの紙屋も店内は広く、そしていつ来ても客で賑わっていた。

 それは私たちのように仕事の紙を求める者ばかりが客ではないからだ。

 もっとも多い客は懐紙や文用の紙を求める者だそうで、店に入ってすぐに目に入る低い棚には、可愛らしい絵入りの懐紙がずらりと並んでいたし、その奥の少し高い棚には文用の見目美しい色をした紙が色別に収められていた。


 中嗣からは「ほぅ」とため息交じりの声が聴かれたが、その気持ちは私にも分かった。

 どの紙屋を選んでも、まずは展示の美しさに感服し、購買意欲が増すことになる。


「お久しぶりでございますね。今日も特別な紙をお求めでしょうか?」

「うぅん。今日はただ、新しいものを眺めに来たの」


 冷やかしに来たようなことを言ったのに、店の女性はそのようには捉えなかった。準備してくれると言うので、それまでは中嗣と共に店の中を見て待つことにする。


 ちなみにこの女性は店主ではなく、売り子としてこの店に雇われている者だ。

 紙屋は店内も広く、客も多いので、どの店でも売り子を多く雇い入れていた。


「紙はどれくらい買う気だ?」


 文用の紙を眺めていた中嗣が小さな声で尋ねてきたのは、墨や筆なら荷としてかわいいものだが、紙は束になると重くなるため心配だったのではないか。どうせこの人は、私から荷物を奪い取ってしまうのだから。

 今も中嗣の左肩には、書と筆と墨の入った布袋が提げられている。その肩に掛けられる長い持ち手の付いた大きな布袋は、玉翠がよく使っているものだけれど、いつの間に渡されていたのだろう。

 私は両手で荷を持ちたいので、いつも大判の風呂敷を持ち歩いているが、今日は出番がなさそうだ。


「沢山は買わないよ。写本で使う用の紙なら、いつも配達して貰っているから安心して」

「では今日は試しとして買うのだね」


 その通り。そうして、これはという紙を見付けたとき、次の写本用として玉翠が沢山仕入れてくれるのだ。


「君はどうやって写本に使う紙を選んでいる?」


 返答に迷った。明確な基準があるわけではない。

 しかし説明すると長くなりそうである。


 そうしたら、中嗣から具体的に聞いてきた。


「たとえば幼子に向けた書ならどうだ?」

「小さい子ども用の書なら、なるべく強い紙を選ぶようにしているよ。それから少しくらい水に濡れても墨が滲まない紙を選ぶかな」

「手習い用の書にも、強い紙がいいのではないか?」

「その通りだね。だけど扱い方は幼い子どもの乱暴さとはまた違うから、何度も読み返すことを考えて、コシのある破けにくい紙を選んでいるよ」

「では、歴史書などはどうだ?」

「それは依頼したお客様に依るね。人によっては長いこと棚に眠らせておくことになるから。そういう書なら、虫食いを避けることを一番に考えるよ」

「虫食いを避けられる紙があるのか?」

「少し前から虫よけ薬入りの紙が出回るようになったんだ。だけど写本に向くかと言われるとまだ微妙なところでね。その紙は書の前後や章の変わるところに挟むようにしているよ」

「そのような紙の使い方もあるとは面白いね。では紙の強度以外のところは、どうだ?」

「うーん。強さ以外では……まずは色の違いを気にしているね。昼と夜とで灯りが変わると、字の見え方も変わるから。なるべく目が疲れないように気遣って紙を選ぶようにしているの。それからね、紙には……」


 中嗣がよく尋ねてくれるから、長く語ってしまったではないか。

 それなのに中嗣は私の過ぎる口を止めず、さらに問い掛けてくるのである。

 こんな話を聞いていて、退屈しないのかな?


「客には書の用途を問うようにしているのだね」

「そうなんだけど、直接注文に来ないお客様も多いからね。これが新規のお客様だととても難しいんだ。玉翠とも相談して紙を決めているのだけれど、分からないときは残念だけどもっとも無難なものを選ぶしかないの。それに書店に卸す分なんかは、誰がどう読むことになるかも分からないし、予測するしかなくて……」


 また長く語ってしまったのに、中嗣はこれも止めず、しかも何度かうんうんと頷いていた。

 何を納得しているのだろう?ただの紙の話であるのに。


 話しながらよく分からない中嗣をじっと見ていたら、店の女性が戻って来て、私たちを店の奥へと案内してくれた。


「わぁ。こんなに」


 沢山の紙が並ぶ棚を越えてやってきた空間に置かれた広い卓の上に、これから見る紙が一部重なりながら並べられている。

 その量の多さには、嬉しくて飛び跳ねそうになった。


「こちらはどれも新しく買い付けたばかりのものでして。他店はまだ扱っていない紙に御座います。どれも書には適しているのではないかと」


 破かないように気を付けながら、一枚ずつ紙に触れ、眺め、その質を確認していった。

 店の女性もまた、並べた紙に関する豊富な知識を与えてくれる。


 そうして長い時間を掛けて選んだ紙は増えていき、最後にはそれなりの厚みになったが、それでも私が自分で持てない量は買っていない。そう説明したところで、その紙の束は中嗣に奪われ、中嗣の肩に提げられた布袋の中に収まってしまったのだけれど。

 荷を分けないかと提案したが、即却下された。というか、これに関しては聞いてもくれない。


 店を出れば、風は穏やかになっていたが、陽の位置が低くなっている。お昼頃出て来たのだから、日が落ちるのが早くなっているとはいえ、かなりの時間が経っていた。


「こんなに長く付き合って、大変だったでしょう?疲れていない?」

「私は楽しかったよ。君こそ、休まなくて平気か?」


 中嗣が心配そうに顔を覗き込んで来る。

 疲れてはいないけれど、この後の予定は決まっていた。


「いつも最後にお団子を食べているの。今日は荷物を持ってくれたお礼にご馳走するよ。本当にご馳走してくれる人は、玉翠だけどね。二人で食べておいでと言ってくれたんだ」


 そこまで喜ぶこと?

 お団子をご馳走してもらえると聞き、破顔する文官様なんて、他にいないのではないか。

 中嗣は余程甘いものが好きなのだ。




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