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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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5.書くだけが写本師の仕事ではないのです


 筆屋を出ると、外は風が強くなっていた。

 私の体は温かいからいいが、中嗣は平気だろうか?と見上げれば、中嗣が顔を顰めている。

 辛そうに歪められた顔を見ていたら、よく風邪を引く人だから、寒空の下を歩き続けてどうにかならないかと心配になってきた。

 凍えているなら、予定とは違うが休憩がてらどこかで暖を取ってもいい。あるいは次の店に急ぎ向かうことにして……とこちらは気遣うことを考えていたのだけれど。


「あの筆屋の店主とは、兄と妹の仲なのか?」


 私はどうやら読み間違えていたらしい。

 されど、寒さが身に沁みて険しい顔をしていたのではないのなら、安心だ。

 安心だけれど、冷たい風に身を晒しているのは事実だから、しばらくは風邪を引かないようによく見ておかないといけないね。


 中嗣が一段と険しい顔をして、私を見ていた。


「もしや隠す仲なのか?」

「え?違うよ。どこでそう見えたのかと思って考えていたの」


 ごめん、違うことを考えていただけなんだ。


「お兄さんと呼んでいただろう?」


 あれ?呼んでいたかな?

 言わないように気を付けていたつもりだったけれど。

 だけど別に隠すことではないし、何ら悪いことはしていないはずだ。


「君にとって彼は兄なのか、それとも彼が勝手に君を妹……」


 びゅうっと音を立てるほどの強い風が吹き、中嗣の言葉の先が掻き消される。

 直後には側にあった銀杏の木から、黄色い葉がぽとぽとと結構な音を立てて落ちてきた。


 その落ち葉の量の多さには、思わず俯き目を閉じてしまったが、頭に何か触れた気がして顔を上げると、中嗣の手が伸びていて、すでに落ち葉の雨は止んでいた。


「風情はあるが、痛まないか?」

「はい?」

「頭に葉が乗っていたよ。痛みはないか?」

「落ち葉が当たって痛くないかと聞いているの?」


 伸びた手は頭を撫でたのではなく、乗った落ち葉を取ってくれたようだ。

 その黄色い銀杏の葉を渡されて、私は困ってしまう。この葉をどうしろと?


 中嗣は笑いながら、私の頭を撫で始めた。痛むかと聞いたのは冗談だったのか。

 あまりに笑い続けるからむっとしたけれど、ふわっと体が楽になる感覚を覚えたことで、手は払わず、睨むだけで我慢した。

 だからと言って、外で頭を撫でることを許したわけではないからね?

 え?何なの、その顔は?何か勘違いしていない?


「聞いてはいたが、君がこうも多くの人から良くして貰っているとはね」


 しかもまたおかしなことを言い出したね。


「聞いていたって?誰に?何を?」

「すまない。言葉の綾だ。それより、次はどこへ?」


 その一言が言葉の綾になることがある?

 何か誤魔化したよね?


 そっちがそのつもりなら。


「退屈してきたでしょう?先に帰っていいよ!」

「いいや、楽しい。これはいい気分転換になるね」

「一人で好きに気分転換してきたら?」

「君といることが私にとっては一番の癒しになろう。仕事のあとは君がいい」


 駄目だ、嫌味が通じない。そして意味が分からない。

 本当に変な人なのだから。


「それでどこへ?」


 もう、しつこいな。


「墨屋だよ。これはすぐに終わるから安心して」



 私は銀杏の葉を手に持ったまま、中嗣と共にまた歩み出した。


 藤通りと楠通りの交差する角にある墨屋では、筆屋と違ってそれほどの時間を掛けない。

 悩んだ末に、銀杏の葉を懐に仕舞って店に入れば、店主とは短い言葉を交わすだけ。今使っている墨と合わせ、目新しいものをいくつか購入すると、すぐに店を出た。


「墨は店で試さないのか?」


 利雪とは違って、中嗣は気を遣える人だ。

 中嗣が店内で同じことを聞けば、試させろと命じたことになり、店の人たちは酷く慌てただろう。


「墨の質は水の量で変わるし、紙との相性を見たいからね。家でゆっくり試すことにしているんだ」

「試すほどに大きな違いがあるということだね?」

「それはそうだよ。まず色が違うし、筆への含みも、紙への滲み方も違っていて……」


 説明すると、中嗣はとても驚いた顔を見せて、また一人頷いた。

 今日はよく頷いているね?どうしたのだろう?


「私も買えば良かったな」

「はい?」

「君の話を聞いていたら、自分でも試してみたくなった。店に戻ってもいいか?」

「待って。墨なら家に沢山あるから。それを使って」

「それは君が仕事に使うためのものだろう?」

「試しただけで使っていない墨は沢山あるの。要らぬ紙も沢山あるし。勿体ないから、あるものを使って」


 あの墨屋は、中嗣相手には高級品を売りつけて来るに決まっている。

 墨に詳しくない客には、手厳しいのだ。


「墨屋の彼とも仲が良いのか?」

「うーん、仲が良いかと問われると、どうだろうね」


 墨屋の店主は中年の男だが、幼い私に対し、筆屋のおじさんやお兄さんとは真逆の反応を示す人だった。真面に話してくれるようになったのは、私が正式に写本師として仕事をするようになってからである。

 それはこの墨屋が、商売にならない者は相手にしないと決めているからで、商売人の気立てとしては、清々しいではないか。

 冷やかしに来ておいて、その素っ気ない応対に怒る客もいるそうだが、私は特に不快な気持ちにはならなかった。下賤の育ちだと見下されることに慣れていたせいか、存在をなきものとされたところで、悪い扱いをされたようには感じない。客に連れられただけの子どもとして店にいることを受け入れられるなら、私にとっては上等な扱いだった。

 だから私の意見など参考にはならないだろうけれど、私はこの店の、墨を買う者だけを客として扱うという信条を、とても気に入っている。


 だから今は、店主とは悪い仲ではない。けれども、良い仲かと問われるとそれは疑問だ。

 客としては丁重に扱ってくれるというだけの話なのだから。


「店と客の間柄で、いい関係なのだね」


 まだ何も説明していないのにどこで分かったのか、中嗣はそう言うと、ご機嫌な様子で頷いた。

 まったくもって喜ぶ理由は分からなかったが、余計な言葉は掛けなかった。伝える言葉を増やすほどに、面倒なことになりそうだったから。


 おかしな人を連れた私の仕事は続く。




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