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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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4.仕事道具を見に来ましたよ


 同じ藤通りを戻る形で、葵川に掛かる御影石橋横の筆屋に入った。

 中嗣にはどこか近くの店でも見て来たらと伝えたが、ここでも共に店に入ると言う。


 現れた私たちに向けて店主が驚いた顔をしたのは一瞬だけ。さすが商売人だ。

 後ろの男はただの付き添いだと伝えれば、店主は中嗣に軽く会釈だけをして、私に聞いた。


「久しぶりだね。今日は何を?」

「いつものを五本ずつ。玉翠の分も同じ数でお願いね。あとは新しく小筆が欲しいのだけれど」

「穂は長めでいいかい?」

「うん。それは変えないで。試しもいい?」

「もちろんさ。用意してくるよ」


 この筆屋の店主は若い。実は昨年父親である先代が引退し、息子の彼がこの店を継いだばかりだ。

 その若い店主が店の奥に消えたとき、中嗣はそっと私の頭に手を置いた。


「こんなところで辞めて」


 勢い払うと、とても嫌そうに顔を歪める。

 嫌そうにしたいのは、急に触れられた私なのだけれど?


「どうしたと言うの?」

「彼とも仲が良いのか?」

「そう見えた?長い付き合いだけど」


 この短い間に、そう感じさせる会話があったとは思えないけれど?


「それは店主と客の仲だと思っていいね?」

「一体何を聞いているの?」

「すまない。しかし……」


 店主が戻り、中嗣のおかしな言葉を最後まで聞かずに済んだことに安堵した。

 ちなみには私は、この筆屋の店主をお兄さんと呼んでいる。

 それもまた、先の書店と似たような理由で、修業のために先代と共に店に出ていた彼が、玉翠に手を引かれ現れた幼い私を妹のように可愛がり、兄と呼べと言い出したことが始まりである。

 私に筆の良さを教えてくれたのも、お兄さんだった。 


 お兄さんは余程子ども好きかと思うほど可愛がってくれたが、私が成長してからも、変わらずに優しく接してくれるいい人である。客であることもあろうが、今日も新しく入って来たという小筆を私の前にずらりと並べてくれた。


 しかし、この重く冷たい空気は何だろうか。

 どうしてか分からないが、今はお兄さんと呼んではいけないような気がするし、これまたどうしてか分からないが、お兄さんからもそう呼ばないでくれと願う視線の圧を感じている。


 本当はいつもの調子で話しかった。おじさんの話を聞きたかったのだ。

 おじさんとは、もちろん先代店主のことで。おじさんはこの店を息子に引き継いだあとは、とっとと街を出て行った。名目はいい筆探しの旅だそうだが、目的なく放浪する隠居爺だと説明するのはお兄さんだ。お兄さんの元にはおじさんから時々文が届くそうで、しかしその中身は筆のことなど一切触れていないものだと言う。

 おじさんがどうしているか、お兄さんから愚痴混じりに聞くのもまた、最近のこの筆屋の楽しみなところなのだけれど。今日は諦めないといけないのか。


 恨めしく睨もうかと思ったが、何か良からぬ空気が一層重くなりそうで、斜め後ろにいるであろう中嗣の顔は見ないでおいた。


 さて。筆選びである。

 並べてくれた小筆から気になるものを持ち上げ、軸の長さや持ちやすさ、穂先の出来、穂の弾力、柔らかさなどを順に確認していった。


「これとこれ、それからこれも試したいな」


 それなりの値段のする筆を心置きなく試す場を与えてくれるところもまた、玉翠がこの店を贔屓にしてきた理由のひとつだ。

 試し書きを許さない筆屋は多いが、お兄さんはむしろ客に試し書きを推奨し、買うなら試してからにしてくれと言うほどで、これはおじさんもそうだった。


 まずは一本目から。

 墨の含みの良さを確認した後に、お兄さんが用意してくれた紙の上に適当な文字を書く。

 うーん、これではないね。


 次の筆を取り、また同じように文字を書いた。おや?これは良さそうだ。

 この前の紙にも合いそうだね。


「いい筆だろう?」

「うん、なかなか。山羊の割合がちょうどいいね」

「確かに割合も絶妙だが、そいつは山羊のなかでも珍しい雌山羊の首周りの毛を使っているんだ」

「雄のとはどう違うの?」

「短い筆にしかならないが、より毛先が鋭いものを作れると言われている」

「そうなんだね。うん、この毛先はいいよ」

「職人の腕がいいのもあるぞ。その工房は最近いい筆を出してくるようになったから確認したが、評判のいい職人を別の工房から引き抜いたそうなんだ。それから、他の職人も感化されたのか腕を上げてきて……」


 お兄さんと夢中で話し込んでいたところで、ふと思い出して振り向けば、中嗣は後ろで腕を組み、難しい顔をして私を眺めていた。


「退屈だったら、他を見て来ていいよ?」

「いいや、面白い。それが終わったら、私にも筆を選んでくれないか?」

「はい?」


 何が面白いのかも分からないし、面白そうな顔をしていなかったし、どうして私に筆を選ばせるのか。


「筆は自分で選ぶものだよ」

「今まで筆について深く考えたことがなくてね。助言をしてくれないか?」


 お兄さんに頼めば良いだろうに、私にお願いしたいと言って聞かない。

 そして何故かお兄さんも「私が選ぶよりは、その方がいいですね」と中嗣に同意を示す。

 筆屋の店主として、それはどうなのか。


「何用の筆が欲しいの?」

「知っての通り、主に書類用となるだろうね。あぁ、君に文を……」

「それはいいや。書類用ね」


 中嗣のおかしな言葉は聞かなかったことにして。

 うーん、筆は好みの問題が大きいところだ。

 と中嗣に言ったところで、どうせ無意味なので。


「私は羊と馬と鼬を合わせたのから選ぶことが多いよ。羊は墨含みがいいけれど柔らか過ぎるでしょう?馬だけじゃあ、墨が持たないし、ちょっと固過ぎる。少しは鼬も入っていた方が穂先のまとまり方が良くなるし、長持ちするようになるんだ。まぁ、鼬は馬より柔らかいし、羊程ではないけれど墨の含みもいいから、鼬単体の筆もいいのだけれどね。私は合わせたのから好みを探すのが好きで。紙によって滑りも違うから、紙それぞれに合う筆を選べたら最高で……」


 失敗した。

 いつの間にか、私が使う紙の話になっている。


「駄目だね。私の好みの話になってしまう。中嗣は自分が好きな筆を買うといいよ」

「参考に聞きたい。華月なら、どれを買う?」

「うーん。()()()()、この人に良さそうな筆をいくつか選んでくれる?」

「今すぐに」


 お兄さんの顔が、何故か青白く見えた。

 もしかして体調が悪いなら、今日は辞めておくけれど。

 問う暇もなく、お兄さんはまた違う筆を用意して私たちの前に並べてくれた。さすがはお兄さん。目の前には、中嗣の手の大きさに配慮された、私には普段出さない筆が並んでいる。

 これはこれで、面白い。


 まずは私が先程と同じように、穂の柔らかさやこしなどをじっくりと確認し、それから試し書きをして、書類に使うあの紙に良さそうな筆を選定していった。

 それで選んだのは五本。

 けれどもここからは私が決めることではない。


「中嗣も持って。書いてみて」


 筆を渡して試し書きをして貰い、「どう?」と問うも、中嗣は首を傾げるのだ。

 最後はあなたが決めないでどうするの?


「君はどれもいいと思ったのだね?」

「すべて買うとは言わないでよ。ちゃんと選んで。中嗣の手は私より大きいんだから。合わない筆を買って、疲れたら困るでしょう?」

「疲れやすさは、そんなに変わるものか?」

「合う筆を使えば無駄な力がいらなくなるから、とても楽になるんだよ」


 中嗣はそれから真剣な顔で試し書きを続け、結局一つに絞れずに、二本の筆を買うことになった。


 こちらも玉翠の分と私の分の筆をまとめて貰い、代金を支払うことにする。新しい小筆は少々高額だったが、それに見合う価値ありと判断して買うことにした。


 そこで中嗣が払うと言い始めたときには慌てたが、写本屋の経費となる旨を説明すると、中嗣もすぐに引き下がってくれた。

 理解のある人で良かったよ。


 中嗣を連れて店を出たときには、先はとても悪そうに見えたお兄さんの顔色も戻っていて、いつもとは違い中嗣には頭を下げて、いつものように私には手を振って見送ってくれた。


 もしかすると私は多大なるご迷惑を掛けていたのかもしれないね。

 今度は一人で来て、詫びて回らねば。


 隣の男は私に笑顔を向けて、「次はどこへ?」と聞いて来る。

 一度厳しく言い聞かせておくべきは、この人からかもしれない。




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