3.お世話になっている書店に来ました
「今日の用事は時間が掛かるよ?仕事はいいの?」
「問題ない。まずはどこへ?」
私は大いに問題がある。が、言っても無駄だろう。
「書店に行くよ。藤通りの西にあるの」
「これを届けに行くのだね?」
「そうだよ。そろそろ返して」
「その書店まで私が持つよ。さぁ、行こう」
中嗣の荷物が無くなったからと、玉翠はさらに書を足して先より大きくなった風呂敷包みを、家を出る前に私ではなく中嗣に渡した。
これまで私のために書の数を減らしていたとは知らず、これには落ち込むことになる。
もっと頼ってくれていると思っていたのに。
不意に頭を撫でられ、「玉翠は君が心配なのだよ」と言われると、ますます穏やかな気持ちではいられなくなったけれど。「それに私は男だからね。それも君の素敵だと思う強い男だから」と余計なことまで言ってくれたので、睨んでおいたら心がすっとした。
まぁ、いいか。確かに中嗣には力では敵わない。
写本屋から藤通りまではさほど遠くもないが、桜通りと交差したところから西へ曲がれば、そこから書店まではそれなりの距離がある。
「いつも君が配達を?」
「たまにね。玉翠がすることもあるよ」
「少し遠いのではないか?これからは無理をせずに、玉翠に頼んだ方がいい」
「いつも平気だってば!それに他の用事もあるの!」
過剰に心配しないで欲しい。それも私の傷を知らせてしまったせいだけれど、すでに知られた今は、後悔したところで何にもならない。そろそろ対策を講じなければ。
それに今は心配こそ不要なもので、本当に楽なのだ。
たまに痛むこともあるが、以前と比べたら雲泥の差で痛みを知らずに暮らせるようになった。
特に中嗣と居る間は、何故か薬を飲まずとも痛みを忘れてしまう。今のところ、これが何かはよく分かっていないし、中嗣も癒す力については知らない様子だ。
そうそう、何故か中嗣は、中嗣が私の側にいると傷が痛まないことを知っていた。
中嗣がやたらと私の心を読むせいかと思ったけれど、もしかしたら私が思ったことを口から出していたのかもしれない。過ぎる口には気を付けないと。
「二人だけで長く出掛けるのは、祭りのとき以来だね」
「そうだっけ?」
「そうだとも。これからはもっと外出も楽しもうか」
「はい?」
「思えば、祭りなどの大きな理由がなくてもいいのだからね」
何を思ったのだか。
それからも中嗣の分からないご機嫌なお喋りは続き、その中嗣がおとなしくなったのは、目当ての書店に入ってからである。こちらが仕事で動いていることを配慮してくれたのだろう。
藤通りの西にある書店は、とても小さな店だ。
宮中の側にあるような巨大な書店を想像していたかは知らないが、中嗣はその外観を見て「ほぅ」とため息交じりの声を漏らした。
荷物を奪って店に入ると、私だけが棚の間隙を縫って店の奥を目指し、中嗣には適当に店内を見ていて貰うことにする。
「おばあちゃん、こんにちは。繁盛している?」
この店の主人は羅賢くらいの年齢の女性だ。
私は親しみを込めて、彼女をおばあちゃんと呼んでいた。というより、小さい頃にそう呼ぶように強要されたと言った方が正しい。玉翠に手を引かれて現れた小さな私を、おばあちゃんは遠方にいてなかなか会えない孫と重ねたのだそうだ。
店の奥に変わらぬおばあちゃんの姿を捉えれば、この店が遊び場のように楽しかった懐かしい日々を思い出す。
小さいながら、他に見ない珍しいものが多く並ぶ書店は、子どもにとっては宝箱の中身と同じだった。
これは私が書を好む稀有な子どもだったからというだけの話ではない。おばあちゃんの趣味で、異国の調度品が店内のあちこちに並んでいるのだが、これが子どもの私を魅了した。
店の奥に置かれた椅子はその最たるもので、背もたれのある前後に揺れる椅子が珍しく、幼い私は何度その椅子に座らせて貰ってきたか。
しかし本来この椅子は、客のためにあるのではなく、おばあちゃん専用の椅子である。他の珍しい調度品もすべて、おばあちゃんの所有物であって、売り物ではない。
「見ての通り、いつも通りさ」
おばあちゃんは今日もその珍しい椅子に座り、しかも書を読んでいるところで、声を掛けると顔を上げ、微笑みかけてくれた。
なんと他に客はない。
それでも繁盛しているのだろう。前回来たときとは棚に並ぶ書が様変わりしているのだから。
いつ来ても、客はいないか、一人か二人見るだけであるのに、とても不思議だ。
どうやって珍しい書の買い付けを行っているか、再三尋ねてきたが、いつも秘密だと言って教えてくれなかった。これだけ入れ替わるのだから、懇意にしている行商がいると思うのだけれどなぁ。
中嗣はこの狭い店のどこを見ているかは知らないが、振り返っても姿は見えず、私は仕事を続けることにした。
おばあちゃんが両手を出したので、そのまま重たい風呂敷包みを渡せば、おばあちゃんはこれを膝に置き、風呂敷を解いていった。
このおばあちゃん、なかなかの力持ちで、さすが一人で書店を経営してきた女性だ。
おばあちゃんが軽々と書の束を運んでいるところを見てしまうと、この店の独特な雰囲気も相まって、おばあちゃんは何かの怪し気な力を使う達人なのではないかと思うときがある。
おばあちゃんは風呂敷の中身をひとつひとつ丁寧に確認していくと、またこちらに笑顔を見せた。
「確かに。いつも助かるよ。次はこれを頼めるかい?」
近くの棚から、一枚の紙を抜き取り、渡される。ふむふむ。結構あるね。
「依頼が溜まってきているから、今回は時間が掛かるよ」
「構わんさ」
それから代金の入った袋も受け取って、それは懐に仕舞った。
さて。私にとってはここからが楽しい時間だ。
「良いものは入った?」
「間に合って良かったねぇ。ちょうど店に並べようかと思っていたところさ」
「沢山あるの?手伝うよ」
「少ないからいいよ。そこで待っておいで」
椅子から立ち上がったおばあちゃんが奥から持って来てくれた五冊のうち、三冊の書を購入した。
後の二つは読んだことがあったのだ。
「一緒の彼は、華月のいい人かい?」
「はぁ?あり得ないよ!」
おばあちゃんの前でも口が悪くなってしまったことを反省していると、おばあちゃんは優しい声で笑ってくれた。
老人になると、笑い方が穏やかに変わるのだろうか。性別は違うが、羅賢のそれと重なるものがある。
「そういう人が出来たら、おばあちゃんに紹介するんだよ」
「そんな予定はないってば!」
ぶつぶつ言いながら、店内を物色し、もう一冊購入して店を出ると、中嗣が外に立っていた。
中嗣も書を数冊買ったらしい。何か声がすると思ったら、おばあちゃんと話していたのか。夢中で書を選んでいて話の内容を聞かなかったことを少し後悔した。
「素敵な店主殿だったね。それは私が持とう。まだ君は用事があるのだろう?」
鬱陶しさを覚えながら、揉めたくもなかったので、買った書を手渡した。
四冊くらい書を持ったところで、私の体はどうにもならないと知らせるのは、帰ってからにしよう。
何せ今は機嫌がいいからね。
揉めて嫌な気持ちになりたくないし、身軽なのも悪いことではない。
「嬉しそうだね」
「新しい書が手に入ったからね」
緩んだ顔を引き締めておいた。指摘されると急に恥ずかしくなるのは何故だろうね。
だから話題を変えたくなった。
「中嗣は仕事をしなくて平気なの?」
「捗り過ぎたくらいだから、今日はゆっくりしようと思ってね。君にも体を労わると約束しただろう?」
「それなら家で休んでいたらいいよ」
「体のためには動くことも大事だ」
それは私も同じであるが、中嗣はここに考えが至らない。
しかし今は揉めたくないので、これも後にする。
「途中で帰ってもいいからね?」
「本当に忙しいときはそうするよ。先の店には書を卸していたんだね?他にも卸している書店があるのか?」
何故そんなに尋ねるのかと思ったが、そういえば、中嗣とはあまり仕事について話したことがない。
これも以前はお互いにそうだったのに、近頃は中嗣の仕事について詳しくなった。
「書店からの注文はあの店だけだよ」
「では、あの紙は注文書?」
そうだから頷いたけれど。
何が知りたいの?
「写本用の書は受け取らないのか?」
「今日の依頼分に珍しい書はなかったからね。あのおばあちゃんはお気に入りの書がいくつかあって、それをよく頼むんだ」
「何も見ないで君が書くのだね」
「今回はそうだけど。それがどうしたの?」
「君のことを知りたかっただけだ。いつも書の取り置きも頼んでいるのか?」
「頼んでいるわけではないけど。珍しい書が入ったら、店に並べる前に見せてくれるんだ」
「そういうことか。あの方とは昔から仲良くしていたのだね?」
「仲良く見えた?」
「あぁ。いい付き合いなのだろう?」
「私のことを孫と重ねてしまうと言っていたから、余計にそう見えるのかもね」
「孫か。それで」
それで?
え?その先はないの?
中嗣は嬉しそうに一人で何度も頷いていた。
この人の気持ちが分からないときは、本当に分からない。
「こんな話が楽しいの?」
「思えば、君の仕事についてよく聞いてこなかったと思ってね」
同じことを考えていたんだ。だけどそれはお互いさまだったから。
「これからは互いに語り合い、仕事に関しても知っていくとしよう」
別に私の仕事について中嗣は知らなくても構わないと思うのだけれど。
いや、お互いにそうだね。
中嗣の仕事についても知らない方が身のためだ。それなのに、日々宮中についての知識を深めている気がするのはどうしてか……。
「次はどこへ?」
「筆屋だけど、本当に一緒に行くの?」
「今日は最後まで付き合う気だよ。問題ないね?」
だから問題大ありなんだ。
長い付き合いの人たちに、一体誰を連れて来たのかと思われる。
皆、長く商売をしている人たちだから、中嗣がいる前で余計なことは言わないだろう。
そうすると次回が怖いのだ。
早く帰ってくれないかなぁと思い中嗣の横顔を眺めれば、やはりご機嫌な顔で一人頷いていた。
何がそんなに嬉しいのか。何を納得した顔をしているのか。
本当に分からない人である。
この分からない人と仕事の買い出しをする日が来るなんて、思わなかった。
昨日までの私が知ったら、「はぁ?あり得ない!」と叫ぶことだろう。