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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第五章 はたらきもの
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1.妓楼屋で寛ぐ稀有な人が言っていますよ


 ここ数日、午前中から妓楼屋で悠悠閑閑たる時間を過ごしている。

 今日も酒はすぐに飲み終え、美鈴の膝を借りて書を読んでいるところだ。

 時折髪を梳くように撫でる手が気持ちよく、毛布まで体に掛けられては、気を抜くと寝入ってしまいそうである。

 

 寒いというのに、小梅と小夢は妓楼屋の庭で羽根つき遊びに興じていて、さすがにこう寒いと庭に面する広縁側の戸はすべて閉められているが、楽しそうな声はこちらにも聞こえていた。

 子どもは元気だ。


「華月、少しいいかしら?」


 どれくらい時間が経ったか、柱の影の位置から確認するのが最近の癖である。

 陽が出ている日は影の位置を見て、おおよその時間を読んだ。

 あまり遅くなると、面倒なことになるからだ。


 書を置いて、ゆっくりと起き上がれば、その背を美鈴が支えてくれた。

 目が合えば、美鈴はすぐに美しく笑ってくれる。今日も綺麗だなぁ。


 私が何の返事もしていないのに、胡蝶は傍らに腰を下ろした。

 美鈴もまた何も言われてはいないのに、胡蝶の視線を受けて、小梅らに声を掛ける。


「小梅。小夢。遊びはおしまいにしなさい。今夜の準備を始めますよ」

「はーい!」


 二人の元気な声は重なっていた。長い時間遊んでいたから、遊びを終えることに不満はないようだ。

 広縁から直に室内へと上がると、「またね、華月!」とこれまた元気な声を発して、二人は私の返事を聞かずに広間から駆け出ていく。


「遊女は走らないわよ」


 胡蝶の叱咤する声から逃げるように、二人はさらに足を速めて、廊下を駆けて行った。あとで長いお説教の時間があっても知らないよ。


「美鈴。今日も膝をありがとう」

「いくらでもお貸ししますわ。またいらしてくださいますわね?」

「もちろん。また昼間にね」

「たまには夜にもおいでになって。誰かさんとご一緒でも構わないわ」


 笑って誤魔化しておく。誰かさんを誘うことがまず一苦労だ。


 子どもの声が消えると、広間がやけに広く感じた。

 この時間の花街は静かで、遠くから届く音も少ない。

 子どものはしゃぐ声などがいつも聞こえている逢天楼がおかしいのであって、他の妓楼屋から聞こえるのは楽器を鳴らす稽古の音くらいであることは知っているが。

 それも今はなく。


「静かだねぇ」

「えぇ。ゆっくり話せそうだわ。お時間はあるの?」

「今日はまだ平気かな。長くなるならお酒が欲しいところだけど」

「今日はもう飲んだと聞いているわ」


 思わず眉間に皺を寄せてしまう。

 美鈴は優しくも厳しいところがあって、無限に酒を与えてくれることはなかった。

 それもこれも羅生が余計なことをこの逢天楼の姐さんらに吹き込んだせいである。


「膝を貸しましょうか?」

「いいの?」

「いいわよ。疲れているのでしょう?」

「疲れてはいないから、そういう気遣いならいい」


 美鈴の膝はただ気持ちがいいだけなのに。これも羅生のせいか。


「冗談よ。さぁどうぞ」

「話があるのではなくて?」

「横になって聞いたらいいわ」


 有難く胡蝶の膝に転がった。枕としては美鈴より厚みがあって、なかなか気持ちがいい膝である。

 胡蝶がさっと毛布を整え直してくれて、その心地よさには、気を抜くと寝てしまいそうな気分が舞い戻った。


「お叱りを受けてしまったわ」

「誰から?何の?」

「分かるでしょう?」

「……まさか」


 あの領主の件で、胡蝶に協力を仰いだせいか。

 はじめは巻き込むつもりはなかったが、これくらいならば直接的にお咎めを受けるようなことにはならないだろうと、ついつい甘えてしまったことを後悔する。


「ふふ。そんな悲し気な顔をすることはないわよ。あの方の何倍も言い返してあげたもの」

「ここに来たの?」

「えぇ。それも昼間によ」

「いつの間に!」

「先触れがあっただけよかったけれど、こちらは断れない立場にあると分かっておられるのかしらね?せめて嫌味の一つも伝えておいてくださるかしら?」

「あの人なら分かっていると思うけど、嫌味は沢山言っておくよ。だけど胡蝶に会いたいなら、私にも言ってくれたら良かったのにね」


 胡蝶の笑みの麗色が深まったとき、起き上がって逃げ出そうかと思った。

 そんなことを胡蝶が許すはずもなく。頭に置かれた手によって、身動きは封じられている。


「まだそんなことを言っているの?」

「だって……胡蝶の前だと違うから」

「あなたが特別だから、他の人の前で変わって見えるのよ」

「それはないよ。胡蝶の前と、他の人の前とで違うもの」

「ふふ。それはあの方がおかしいだけよ」

「それは確かにおかしい人だけれど。胡蝶が綺麗だから、よく顔を見られないのだと思うよ?」

「可哀想だからその辺で辞めておきなさい」


 可哀想ってなんだろう?

 胡蝶の前で何かいつもと違う感じになるのは本当のことなのに。


「近頃その方は、外に妻がいると噂になっているそうね」

「え?そんな噂があるの?」

「宮中から姿を消してその妻の元にいるのだと言われているわ」

「その妻はどこのどんな人だって?」

「……本気で言っていないわよね?」


 だって妻ではないし。


「それでも変わらず、ご縁談の話が絶えないそうよ」


 それに関してはあちこちから話を聞いたことがある。私が当の本人に聞いてみると、いつもいかに迷惑かと語られ、結婚する気のないことを強く主張されてきた。そこまで聞いていないのにね。


 あれ?だけど、そういえば。いずれ結婚する気だと言っていたね。

 心変わりしたのかな?もしかして、もういい人が見付かった?


 そうだとすれば、毎日家にいるようになったのは、私の知らない人たちとの約束を守るための最後のお世話で……


「あなたの今の考えは、完全に間違っているでしょうね」

「えぇ?胡蝶は心を読めるようになったの?」

「遊女ならそれくらい出来るものよ」

「姐さんたちも!え?美鈴も?」

「さぁ、どうかしらね?」


 優雅に笑われたので、揶揄われただけのようだ。

 考えを口から出してしまったかと焦ったのだけれど、違っていた。


「さすがに同情するわ。そろそろ逃げていないで向き合ってあげなさいね」


 胡蝶がどういう意味で言ったかを考える前に、消えてしまった羅賢の言葉を思い出す。

 胡蝶まで同じようなことを言わないで欲しい。


 胸がぐっと苦しくなると同時に、何故か腹の傷が痛んだ。

 これはおかしいな。

 羅生がくれた薬は酒との相性も悪くなく、いつもはもっと長く痛みを忘れていられるのだけれど。


「今日はそんな話より、聞きたいことがあったのよ。伝まで通い始めたというのは本当なの?」


 胡蝶の言葉の意味を確認する前に、話題を変えられた。

 まぁ、いいか。私も逃げる云々の話はしたくない。


「どうして胡蝶が知っているの?」

「岳がたまに来るのよ」

「はぁ?あいつは客だったの!」


 奥さんは知っているのだろうか。いや、知るはずがない。

 知ったらあの人は……想像するのは辞めよう。そこに私も巻き込まれる。


「違うわよ。うちに米を卸してくれているの」

「え?そうだったの?それなら前から?」

「前からではないわ。でも、以前からうちとの付き合いはあったみたいね」

「米問屋の若旦那が自ら配達なんかしないよね?直接話す機会があったということ?」


 胡蝶は首を振った。下から見上げても、うっとりするほどに美しい様は見事だ。


「あなたに許されて気が緩んだようね。わざわざ配達をしてくれて、会うように言われたわ」

「自分から胡蝶に会いたいと言ってきたの?」

「いいえ。対応したお婆様に、同郷の者がいると教えたそうなのよ。それで代表して私が呼ばれたわ」

「結局自分から会いたいと言ったようなものだよね?」

「呆れるでしょう?」


 うん、呆れたよ。


 岳も昼間に来たのだろうけれど、花街なんて誰がどう繋がっているか分かった世界ではない。

 そこで出自が知られて、商売をしにくくなって困るのは岳である。


「これも強く言っておいてくださるかしら?」

「そうだね。少し言い聞かせておかないと」

「一緒に伝も叱るといいわよ。あなたはどうしても下の子たちに甘くなるわ。伝に対しては、あの子が成長して、甘やかす年齢ではないことを思い出してちょうだいね」


 久しぶりに頼の言葉を思い出す。


 今日は人の言葉を思い出しやすい日なのだろうか。それとも胡蝶の話術に人の記憶を引き出す才がある?いや、それはないか。私が勝手に思い出しているだけだ。


 今日は頼に会えるだろうか。

 帰りにもう一度寄ろうと思っているけれど、今は仕事が忙しい時期なのかもしれない。ここ数日逢天楼の行き帰りにあの河原にも立ち寄ってきたけれど、一度も会えなかったから。


「ところで華月。それ以外に会っている子はいないわね?」

「え?何?」


 ぼんやりとしていて、聞き返してしまった。

 ということにする。本当は違う。


「ここで会う私たちと、岳と、伝と、今も付き合いのある子はそれだけよね?」

「そうだね。あとは先生かな」

「あら、私としたことが、大事なお人を忘れていたわ」

「先生がここにいたら笑うだろうね。また会いに行こうと思うけど、何か伝言は?」

「いつになったら、お客様として来ていただけるのかしら?と」


 声を上げて笑ったのは、少し酔っていたせいもある。

 以前より飲む量が減ったせいか、どうも酒の回りが早い。

 妓楼屋で提供される酒の量が少なくなったのも悪いと思うんだ。姐さんらが渡してくれる酒瓶や徳利が一回り小さいものになっていて、何度不満を漏らしたか分からない。

 それでも文句を続けられないのは、飲まないなら返せと言われるからだ。それは有難く飲むしかないよね。


「岳にも同じように言ったでしょう?」

「もちろんよ。何故か血の気を失くしていたわ」

「あはは。岳らしいね」


 誘われたと知られただけでも、奥さんに叱られそうだ。

 それからしばらく岳と伝の話で盛り上がった。

 私たちにとっては懐かしい人たちであったのに、今や私には日常の一部に戻っていて……戻るというのはおかしいね。新しい今の日々に、岳と伝が溶け込み始めている。

 あの小屋を出たら、もう二度と関わることはないと思っていたのに。どうしてこうなるのだろう?



 この日は頼に会えなかった。

 冬が深まる前に会いたかったけれど、厳しいだろうか。


『逃げる振りを続けるのはお辞めなされ』

『誰のことも甘やかすな』


 会えない人の言葉がやけに頭に響いて、同時に傷痕が痛んだ。

 久しぶりに自由になれたからと、妓楼屋に通い過ぎただろうか。





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