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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第一章 おくりもの
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8.昼下がりの妓楼屋


 見習い文官の漢赤が風呂敷に包まれたそれを抱えて利雪の部屋に現れたのは、三日後のことである。


「利雪様に、お届け物です」


 風呂敷の中には、異国の書が二冊と、表紙が白いだけの書が二冊。

 その一番上の一冊には、小さな文が栞のように挟まれていた。


『お忘れ物は未完です』


 利雪は漢赤に礼を伝えると、急ぎ羽織を取って廊下を駆け出した。紅玉御殿の廊下を利雪がこのように駆けている姿を見ることは珍しい。


「行きましょう!」


 宗葉の部屋に飛び込んで来たかと思えば、予定も聞かず、利雪は宗葉を外に連れ出した。利雪も宗葉に負けず劣らず、身勝手な男だ。似た者同士だから付き合いも上手くいくのだが、二人はこれに気付いていないどころか、お互いに正反対の部類にあると信じている。


 一段と春に近付く陽気な日差しを受けながら宮中の北門から飛び出した二人は、あっという間に桜通りの写本屋に辿り着いた。

 暖簾をくぐった直後、まだ二人が何か発する前に、玉翠は渋い顔で丁寧に頭を下げた。


「申し訳ありませんが、出掛けております」


 ついさっき宮中に届けてくれたのだから、戻っていると考えたが。

 行き違いになったか、どこかで寄り道でもしているのだろう。


「お戻りになられるまで、お待ちしても?」


 利雪が言うと、玉翠は再び申し訳なさそうに頭を下げるのだ。


「おそらく今日は遅くまで帰りません。行き先ならば分かりますが……」


 玉翠は、至極話しにくそうに、行き先を告げた。少々のお願いを加えることも忘れない。

 官に願うなど、この男も肝が据わっている。


「出来ればお帰りの際には、華月を送り届けて頂けると嬉しいのですが」


 二人は安請け合いし、外に駆け出した。

 酷い目に合っているという被害者面をしていた宗葉が晴れやかな表情に変わったのは、そういうことだ。宗葉は率先して、利雪の前を駆けていく。



◇◇◇



 昼間の花街は、夜とは様変わりしていて、利雪らに足を踏み入れることを戸惑わせた。

 夜には怪しくも妖艶な雰囲気をどの建物からも感じられたはずだが、今やその面影がどこにもない。陽射しは冷酷に、この場所の本来の姿を露呈していた。

 花街とは、人の手で作られた偽りの楽園だったのである。


 逢天楼の玄関で彼らを迎えたのは、最初のときに会った客引き婆だ。昼間だからか、番頭の姿は見えない。夜に働いているのだから、今は眠っているのだろうと、利雪らは考えた。

 老婆は日の高い時間にやって来た二人の若者を見て、露骨に嫌な顔を見せたが、華月に会いに来たと伝えると態度を改める。


「裏に回りな」


 改めたところで、素っ気ないことには変わらないが。客ではないからこそ、老婆からの扱いが雑になったという事実など、利雪らは察することが出来ない。


 二人が言われた通り、脇の路地から建物の裏手に周ると、そこに少女たちの笑い声が届いた。それで二人の足は自然に止まっている。


 路地の左手側が建物の側面から垣根に代わると、屋敷から屋根のある渡り廊下で続く離れや東屋もある広い庭がよく見渡せるようになった。その垣根に沿ってもう少し路地を進めば、庭に面した逢天楼の裏側全体も見て取れる。

 歴史ある逢天楼の屋敷は古く、実は何度か焼けているものの、今の建物はすでに完成してから二十年を経過していた。広い玄関に独特な間取りを取っているために凡庸とは言えないものの、外観は街の屋敷とそう変わらないものであることに、利雪らは驚かされる。花街の独特の雰囲気は、まずは夜の闇があって、そこに灯篭や照明の明るさが加わり、艶やかな遊女ら、そして酒と料理があってこそ、作られるものなのだ。

 それがない今は、もはや別の場所である。


 利雪らは、垣根からそっと屋敷の裏側を眺めた。

 庭を望む屋敷一階の広縁にて、座る女性の膝を枕に書を読みふけっている者がある。それが誰か、二人にはすぐに分かった。

 しかし膝を貸す女性が誰かは分からない。おそらく遊女であろうが、簡素な長衣姿では、町娘が屋敷で寛ぐ様と何ら変わり映えしないもので、とても夜に見た遊女を連想させる姿ではなかった。

 庭にて毬遊びに興じる二人の少女も気になったが、あの禿たちとは違って見える。幼い声を掛け合いながら毬を投げ合っている様は、街の子どもたちと変わらない。


「ねぇ、まだぁ?」


 毬を手放した少女が寝そべる華月の側に駆け寄った。

 華月はしかし、書を読み続けている。

 我慢できなくなったようで、少女は華月の手から書を奪った。


「あぁ、何をするの」

「遊んでくれる約束だよ?」

「毎回遊ぶ約束はしていなかったけどなぁ」

「好きなだけ遊んでくれると言った!」

「そうだったかなぁ?」

「そうなの!遊んで!」


 もう一人の少女も毬を持って華月の側に駆け寄った。

 華月は仕方ないという風にゆっくりと起き上がる。


 ところが華月は、すぐに動かない。

 大きな口を開けて欠伸を漏らしたあと、膝を借りていた女性から瓢箪を受け取ると、直接口を付けて、思い切り傾けた。

 まさか中身が水であるとは思えないが。まだ昼下がり。

 利雪も宗葉も思わぬことにその瓢箪を凝視している。


「毬遊びでいいの?」

「別の遊びでもいいよ!」

「華月様。その前に二人の字を見てやってくださいませ」


 女性が二枚の紙を差し出しながら言えば、「あぁ、そうだったね」と言って、華月はそれを受け取った。

 その女性の声に聞き覚えがあるような気がしたが、さて誰か、利雪らは考えている。利雪らが知った遊女など三人しかいないのだが。


「どれどれ。上手くなったねぇ。小夢も小梅も覚えが良いなぁ」


 それから華月はわざとらしく、顔を曇らせる。


「あぁ、小夢。とっても惜しいよ。ひとつ点が足りなかった」

「どこ?すぐに書き足すわ!」


 少女は筆を持ってきて、あっという間にその紙に点を加えた。どこか誇らしげで、それは幼い少女らしく可愛い様である。


「小梅は、線が一本多いところがあるね。惜しいなぁ。とても上手なのに」


 二人目の少女もまた、同じようにすぐに筆を取って、空いた場所に正しい字を書いて見せた。


「これでどう?」

「素晴らしいね。とても上手だ」


 庭を挟んだ垣根からは紙の上を確認出来ず、利雪は気になって、いつ声を掛けるか迷っていた。ちょうどそこへ、いい声が降ってくる。


「お二人とも、話し掛けてよろしいのですよ?」


 声は屋敷の二階の窓からだった。その声は知ったもので、利雪らは顔を上げるも、髪を下ろして窓辺に寄り掛かる女性の姿は知らないものだった。

 声に誘われ、華月も顔を上げ、女性や少女たちも垣根の向こうにある利雪らを捉える。


「利雪様、宗葉様、どうされたのです?」


 華月の大きな声に問われると、利雪は答えるより前に歩き出した。

 垣根の間を通り、少々木の葉に体をぶつけながら、堂々と庭を取り抜けて、華月の前に歩み寄る。宗葉はその行動力に恐れ入った。女性が苦手などとうそぶいていたのではないかと疑いの目で利雪の背中を眺めている。


「その前に、私の名も書いていただけませんか?」


 その前とは、何の前なのか。

 何をしに来たか説明するよりも、それは大事なことか?


 宗葉だけでなく、華月もぎょっとしていたが、すぐに笑い出して、利雪の提案を受け入れた。


「今度こちらに参られるときには、この子たちに素敵な紙でも差し上げて頂けますか?」 


 手習い用の紙が足りないのだろう。利雪はもうすべて分かって、宗葉を振り返る。利雪がここに来る予定は、華月がいない限りなかったからだ。

 宗葉は勢いで頷いたが、いつ来られるというのか。宗の家の次男坊で、五位の文官ではあるが、三大妓楼屋で遊ぶほどに自由になる金を持つはずもなく。

 そんなことで使い込んでいると知られたら、むしろ家から勘当される可能性もあって、宗葉の顔色は冴えなかった。だから官として素晴らしい名目を持って遊びたかったのだ。


 そんなことを利雪は知らず、宗葉は女好きだから、夜な夜な遊んでいるのだと勝手に想像していたわけだが。宗葉が狙うのは家格のいい女官らだということを、利雪は知らない。というのも、彼がいかに語っても、利雪がこの手の話を聞いていないからである。

 宗葉よ、頑張れ。と事情を知った人がいたら、応援してくれたのではないか。


「では、新しい紙に書きましょう。小梅、一枚貰える?」

「どうぞ」


 少女から紙と墨を含ませた筆を受け取ると、華月は躊躇いもなく紙に文字を書き綴った。


『利雪様』


 様が付いたところが、何やら気に食わなかったが。それでも利雪は嬉しかった。

 憧れの文字で、自分の名が表現されるというのが、これほどまでに素晴らしいことだとは!

 利雪は叫びたい気持ちをぐっと堪えて、華月に礼をした。


「ありがとうございます。大事にします!」

「捨ててしまって構いませんが」

「捨てることなどあり得ません。これを家宝にしましょう!子孫には、代々大事に扱うように約束させますから!」

「利雪様以外には、何の価値も見出さない家宝になりましょうね」


 華月は穏やかに笑って言った。幾分か酔っているのではないか。

 やはり酒だろうと、宗葉は遅れて近付きながら、確信した。

 誰も騒がないことを確認できたので、宗葉も近づくことにしたのだ。


「あなたが妓楼屋に通う理由は、こういうことでしたか。確かにこれは、お礼というよりも、対価ですね」

「えぇ。一方的な礼を頂くことはしない主義なんです」

「人助けは好みませんか?」

「助けるなら、私も何か貰うというだけです」

「こちらからのお礼は受け取らないのにですか?」

「一方的な礼が気に入らないだけですよ」


 一度目よりも饒舌な華月を前に、利雪は今日はもっとよく話が出来るのではないかと期待した。

 華月殿と友人になりたい。利雪は自然にそう願っていたのである。


 そこで華月が何か重要なことを思い出したようだ。それは利雪の考えていたことにはまったく届かないものであって、利雪は驚かされる。


「あぁ、お二人とも!先ほど考えていらしたような嗜好は、持ち得ていませんからね」


 華月が大真面目な顔で言ったときには、まだ利雪らは何のことか分からなかった。

 理解したのは、隣に座る女性が華月の腕に手を絡めたときだ。


「嫌だわ、華月様。そんなお寂しいことを言わないで」


 近くで声を聞いて、利雪らはようやくこの女性が美鈴であると知った。

 こんなに幼かったのか。というのが、利雪と宗葉の共通する感想である。

 化粧を落とした美鈴は、十五、六といったところか。少女らしい面影が残っているし、二階でまどろむ胡蝶とて、華月と同じか、少し上くらいの年の頃だろう。近付いて見たわけではないが、遠目から見ても、二十歳に足りているかどうか分からない容姿だった。


 そしておそらく、この十歳前後の少女たちは、あの禿に違いない。

 どちらの子も元気いっぱいな育ちざかりの少女で、いずれにせよ、ここが妓楼屋であることを忘れる姿だ。見ている限りは、どちらも禿とは思えないが、ここにいるからにはそうなのだろう。


 ここで珍しいことが起きた。


「女性の膝を枕に眠っていらしたのに?」


 意地悪く言った利雪を、宗葉が意外そうに見やる。

 利雪は美しい見目に反して意外と毒を吐くが、それを知っているのは限られた者だけだった。それが誰の影響か、知っているのも宗葉と少しの者だけであろう。


「姐さん方の膝の上は、柔らかくてとっても気持ちが良いんですよ。お二人様も試してみてはいかがです?」


 反撃されて、利雪の耳が紅く染まった。慣れないことをするものではない。

 宗葉は苦笑しつつ、それでも発言を控えていた。本当は遊女、特に二階にいる胡蝶と、もっと親しく話してみたいのだが。それをすると、追い出されるのではないかと危惧し、この場を利雪に預けていた。

 元より宗葉はこの件に積極的に関わると痛い目に合いそうな気がしていたのだ。皇帝からの催促はまだないが、容易に諦める男ではないことを知っていると、今後面倒なことになるのは目に見えていた。


「それで、今日はどうされたのです?」

「お礼と、本のお話をしたく!」


 利雪は、嬉々として叫ぶように言った。

 宗葉は何故自分まで……、と呆れながら近づいたものの、少し距離を置き、遠巻きに眺めた。それは喜んでこの場に来たことを遊女らに悟られたくなかっただけである。


「胡蝶、店開きまで、場所を借りていいかな?」


 華月が二階の胡蝶に向けて、大きな声を出した。華月からはとうてい顔は見えないが、上から胡蝶の声が下りてくる。

 宗葉は失礼にも、中庭から胡蝶の顔をじろじろと見上げていた。化粧をしていないが、綺麗だと分かる。むしろこちらの方が……


「どこか茶屋でも行っていらして?」

「お詫びはないの?」

「それは美味しかったでしょう?」


 華月は瓢箪を撫でながら唸った。見えなくても、胡蝶は華月がそれを持っていることを知っているのだ。


「殿方がこの時間にここにいらっしゃるのは、あまり良くない……ありません。お話をするのであれば、どこか別の場所に移動しませんか?」

「では、茶屋にでも。甘いものはお好きですか?」

「辛い方が好きですね。今日は飲んじゃったしなぁ。……失礼しました」


 やはり酔っているらしく、口調が軽くなるのを誤魔化そうとしている。

 それがかえって、宗葉の興味を引いてしまった。

 華月には露ほども惹かれない宗葉だったから、その手の意味合いはなかったが。何せ二階の胡蝶が……

 しかし宗葉は、華月に提案した。


「茶屋で飲めば良いのではないか?辛い料理も頼むといい」

「んー、今日はあまり持ってないんだよねぇ」


 ごそごそと懸命に衣装の中を探り始める姿は、とても女性らしくはないが。それが演技ではないことは、明らかだった。

 身分の高い者たちが目の前にいるというのに、馳走になろうという考えがないことにも、宗葉は興味を引かれる。


「ご馳走しますよ」


 当然のように言ったのは利雪だった。

 これを意外に思う宗葉だったが、しかし憧れの写本師相手ならいくらでも馳走するかと、宗葉は考えを改めた。利雪が女性に食事をご馳走する絵を想像するから、おかしく感じるだけで、相手が写本師ならば別である。


「ご馳走していただく理由がありません」


 やはり一筋縄にはいかない華月であるが、利雪は優しく微笑むのだった。


「訳書のお礼です。もちろん、これだけとは言いません。今日の分は届けていただいたお礼ということで、どうでしょうか?」


 あぁ、そうだった、と華月はしんみりと頷いた。ついさっきのことなのに、すでに忘れていたようだ。


「お礼は要らないんだけどなぁ。あれは趣味だから。届けたのも早いところ終わりに……失礼。つまり、お礼は要らないということです」


 ここで宗葉も助け船を出す。


「俺は書を貸して貰ったお礼がしたい」

「それも押し付けたようなものですので、礼は要りません」

「茶屋で飲むくらいの礼だ。もっと軽く受け取ってもいいのではないか?」


 利雪も次の言葉を何にするかと考えていたのだが、華月の笑顔を見てそれは止まった。

 初めて自然な笑顔を向けられたことに気付き、誘われるように利雪も笑顔を見せていた。


「そうですね。これでは足りないから……今日のところは甘えましょう」


 禿の少女は揃って「えーっ!」と大きな叫び声を挙げ、美鈴は腕にしがみ付き、頬を摺り寄せた。

 悪いことをしてしまったかと、利雪らは気まずく目を見合せたが、しかし何も出来ないのであった。


「まだ遊んでいないよ!」

「そうだよ。これからでしょう!」

「まだ話し足りないわ」


 若い娘たちの言葉が続き、利雪は日を改める提案をしようか迷った。

 そこに二階からパンパンと手を叩く小気味よい音が響く。


「ほらほら。次のお稽古の時間よ。美鈴も我がままは言わない約束でしょう」


 禿の少女たちは一人ずつ華月に抱き着いて、頭を撫でて貰ってから、走り出した。

 しかし美鈴はまだむすっと頬を膨らませて、絡めた腕を離さない。少々涙目だ。


「仕方ないなぁ」と言った華月の空いた方の手が、ゆっくりと伸びていく。

 それは、優艶に。美鈴の白い頬にぴったりと沿って、止まった。


「美鈴が叱られたら悲しいよ。行っておいで」

「もう少し居てらして。準備が終わったら居ないなんて淋しいわ」

「また美鈴に会いに来るから」

「それはいつ?」


 うっとりと潤んだ瞳が、決まった言葉を待っている。


「分かったよ。後でまた来よう」

「ご指名頂ける?」

「そうしよう」


 美鈴の瞳が一層潤んでいく。

 否定した通りの嗜好があるのでは……、とおそらく二人同時に思った。


 美鈴が離れ去ると、華月は瓢箪を思い切り傾けて、残りの酒を一気に飲み干した。瓢箪を上下に振って、最後の一滴まで飲み切って見せる。

 酒の飲み方は、繊細な文字と掛け離れ、豪快だ。



この世界のお酒はとーっても薄いのです。水で薄めたようなもの。

というわけで、現実世界で華月の飲み方を真似してはいけません!

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