0.序章~写本師への道
「これからしたいことはありますか?」
老人がそう尋ねた時点で、私の先は決まっていたのだと今なら分かる。
それを予測出来ないあの当時の私はと言えば、何も考えずに聞き返した。
「したいこと?」
「せっかく自由の身になったのです。どのように生きていくか、一緒に考えてみませんかな?」
「自由?私には仕事がないの?」
「お仕事をされたいですか?」
幼い私はいつか覚えた言葉を頭の片隅からなんとか引っ張り出した。
「……私の……しょぐうはおまかせします。おおせのままに」
私の記憶が確かなら、老人はこのときも穏やかに微笑んでいて、私の返答は彼の予想通りだったのだろう。
「こちらで決めるものでしたな。されど、どうしたものか。他の子どもたちがどうされているか、知っておりますか?」
「誰がどうしているかは知らないよ」
「では、あの小屋から出たあとにどうなるか、聞いておりましたかな?」
「買われた先でどうなるかということ?」
「えぇ。何か知っていますか?」
得意になって説明していたと思う。
今思うと本当に恥ずかしい。
すべては老人の手の中にあったのに。
「家に買われたら下女として働くんだよ。お店に買われたら、そのお店の手伝いをするの。たまにいい方だと、そこの子どもになって家やお店を継ぐこともあるんだって。そうそう、妓楼屋なら遊女でね。領主なら田を耕すの」
老人は初めて聞いたような顔で頷いて、隣の男に視線を向けた。
淡い色の目をした人間がいることを知らなかった私は、会ったときからその目を見過ぎてしまう。それで微笑まれると、なんだか悪いことをした気分になって急いで目を逸らした。それでも学ばず、何度も目を見詰めていたように思う。
この日もそうだ。
「買い取った者に合わせて先が決まるそうだ。どれ、その道理に従ってみるかの?」
「どうりって?」
思えば昔から不思議だった。老人は私には敬語なのに、隣の男にはそうしない。
あれは子どもの私に敬意を払うことで、子どもだからと見下していないことを示し、早く友として仲良くなりたかったのだと後から教えてくれたけれど。それからも老人は最後まで私に敬語を使っていた。その意味を今の私は知っている。
彼が敬意を払っていたのは、私ではなかったのだ。
「その決まりごとに合わせましょうと言ったのです。あなたを買い取った彼は写本師をしておりましてな。これをお手伝いしてみませんか?」
「しゃほんし?」
「字は読めるのでしたな?」
「少しだけ」
「その齢なら、少し読めるだけで素晴らしいことです。これはちょうどいいですな。写本師とは、書を写し、新しい書を作るお仕事ですが、してみたいと思われますか?」
「書を写すの?それなら書が沢山読める?」
すっかり御機嫌になって、笑っていたと思う。
老人と一緒に隣の男もまた幸せそうに笑っていたから。
「書がお好きで?」
「うん。大好きだよ!」
◇◇◇
それからしばらくの間、淡い瞳の男から貢がれるように沢山の書を渡された。
写本の手伝いなんか二の次で、まずは読めるようになればいいと言ってくれて。他の手伝いをすると言っても、書を読んでいたらいいと言われる始末。
当時の私はとても単純に、その人に懐いていった。
書を渡されるだけで嬉しくなるし、読んでいるだけで偉いと言われ、読み終わって内容を報告すれば過剰に褒められる。その繰り返しの日々で、好きなことをしているだけで褒められる子どもが、いい気分にならない方が難しい。
家名が与えられていないことは知っていた。だから分かっていたのに。
読書や写本に夢中になるうち、私は期待していたことを後に知る。
「私が華月のお父上様の代わりなど、とんでもございません」
この言葉を聞いたとき、私は自分の立場を思い出し、二度と育ちの悪さを忘れないようにと自分を強く戒めた。
この人が敬意を払う相手も、私ではない。