24.近くにいても知らないことがある
呼び出した武官に領主を引き渡し、後は宮中で取調べを行うことになった。
屋敷を改める必要もなく、応接室へと案内してくれたこの屋敷の侍従が田畑の分の裏帳簿に加えて、子売り業に関する帳簿や資料を提出してくれた。
これにより領主が屋敷の者たちをどのように扱っていたか窺い知る者もあろうが、中嗣はそう簡単に彼らへの厳しい目を緩めない。
侍従が協力を惜しまなかったのは、宮中の権威に対する恐れや、領主と共に裁かれることを回避するためであり、あわよくば後からやって来る新しい領主に雇って欲しい気持ちもあろう。
彼らの素直な行いだけで、領主が屋敷でも悪人であったか、それは安直に決められないことだ。
昨年の検分を行った官らの処分もあって、中嗣はしばしの間、宮中に足繁く通うことになるだろう。
華月との時間が減ることを忌々しく思いながら、それならばせめて今日は残る時間を楽しもうと、中嗣らは夕方に屋敷を出て、もう一度田を見てから街へと戻ることになった。今朝乗って来た馬車もその田の向こうに待たせたままだ。
当然のように、中嗣は華月の隣を歩いた。
羅生が率先して気を遣い、官らは二人の先を歩き、楊明夫妻も彼らに続く。
少しずつ前を歩く者たちからの距離が離れていったのは、中嗣が華月のゆったりとした歩調に合わせて歩いていたからだ。
華月が先ほどから中嗣を見ようとしないことを、中嗣はよく分かっていた。
まずは気を緩めようと、優しい声で語り出す。
「先は驚かせて悪かったね。隠す気はなく、話す機会がなかっただけなのだよ」
先に華月が驚いた顔をしたあとに、切なそうに眉を下げたことを、中嗣の目はしっかりと捉えていた。
あの領主の腕を掴み、押えている間も、華月から目を離していない。
「私は十五の時に、文と武の両方の官試験を受けていてね」
その当時の中嗣に、何かの思惑があったのではない。
ただどちらになるか迷っていたから、とりあえず両方受けた。
「それが両方受かってしまったのだよ。さて、どうするかと悩んでいたら、羅賢殿に助言を頂いてね。迷っているなら、どちらも経験してみたらどうかと言ってくださり、後でいずれも選べるようにするとお墨付きを頂いたのだ。それで私は先に武官から始めることにした」
文官から始めると、武官になる暇はないと若い頃の中嗣は悟っていた。自分の性質を考慮すると、文官の仕事を始めたらもう逃れられない気がしていたのだ。
だから中嗣は先に武官となった。なれば当然、武術を身に付けることになる。
「武術を一通り修練したのはそのときだ。私は家の威光などもないから、先輩の武官からはよく扱かれたものでね。街の警備にも出ていたから、実践でも鍛えられたのだよ」
中嗣が武官をしていたのは、ほんの二年余り。
あとはずっと文官だ。
それでも一度時間を掛けて身に着けたものは、そうそう体から抜けないものである。あの涼やかな笑みのように。
「どうして蒼錬に殴られたの?さっきのようなことが出来たでしょう?」
ようやく華月から声が漏れて、中嗣はそれだけで嬉しくなった。
心に従い、中嗣の声と表情は明るく踊る。
「それくらい受け取ってやろうかと思ってね」
華月がふっと息を吐くように小さく笑った。その儚さに、中嗣は勢い華月を抱き締めそうになったが、なんとか耐えた。まだ話していたい。
「中嗣は優し過ぎるんだよ」
「そう言ってくれるのは、君くらいだよ。宮中では鬼か悪魔かと騒がしい」
華月は顔を上げず、またぼんやりと呟く。
「私は中嗣のことをよく知らなかったんだね」
「それは私も同じだよ、華月。だからこそ沢山語り合って、知っていきたいと願う」
華月は静かに頷いてから、ようやく中嗣の顔を見た。
待っていたとばかりに、中嗣は問い掛ける。
「今日のことはいつから考えていた?」
「いつからと言われると難しいなぁ」
最初からだろうことは、中嗣も知っている。
華月の言い方から察すると、仕入れた情報が増えるにつれて、計画が変わっていったというところか。
あの夏の暑さの中、華月が田を数えて、子どもの数も確認していたとしたら。
その頃はまだ傷のことも知らなかった愚かな自分を、中嗣は過去に戻り殴りたくなった。
「これは私の仕事だと思わないか?」
「分かっていても、出来るところまでは自分でどうにかしたくなって」
へらっと力なく笑う華月がまた切なく見えて、中嗣は抱きしめたい欲と戦った。あと少し話したいことがある。
「それでも事前に相談してくれないか?」
「それでは楽しめないでしょう?」
結局我慢ならず、中嗣は華月の手首を掴み、その歩みを止めた。
だがまだ手首だけだ。
「楽しみはいいから。これからは事前に言うように」
「なるべく」
「必ず頼むよ」
中嗣が口を尖らせた華月に有無を言わさず圧のある視線を送れば、華月は渋々と頷いた。
本当に分かっているのか。
「子売り業の件の裏取りについては?」
「前回来たときに子どもの多さが気になったんだ。玉翠からは、この領地は田畑があるだけで、他の商いはしていないと聞いていたからね。それで玉翠が宮中の登録確認をしてくれて、胡蝶にはここから売られた子らが多くいる妓楼屋から売買証書を借りて来て貰ったんだ。まぁ、もちろん本人の筆跡ではないと思うし、さっきはあぁ言ったけれど偽名だったでしょう?その辺は、あとでしっかりと文官様に調べて貰えたらそれでいいかと思って」
何故頼る相手が玉翠なのか。そして胡蝶なのか。
すべては中嗣に言ってどうにかなる話だ。
「君のそれは見学する領地を決める前から始まっていたことだろう?私には言っておいてくれても良かったのではないか?」
信用がないと宣言されたようで、中嗣は苦しむ顔を見せた。
これを慰めるように華月は首を振る。
「中嗣に言って、また落ち込ませるのが嫌だったの」
中嗣の目が見開かれたのは、華月の言葉が予想をしないものだったからである。
落ち込んでいる?華月にはそう見えていたのか?中嗣は戸惑った。
「中嗣は私の過去にまで落ち込むでしょう?関係のないことなのに。今回も私の過去と重ねてそうなると思ったから」
これをまた拒絶と捉え、中嗣は掴んでいた手首から滑り、指を絡めて手を握り締めた。
まだ手までだ。
「君のことが私に関係ないことはないし、落ち込んでいるのでもないよ、華月。私はただ悔しいだけだ」
「子売り業の話は気にするでしょう?」
「気にしないとは言わないよ。けれどもそれも、すぐに何も出来ない自分が悔しいだけだ。それに当時その子売り業がなかったら、君はどうなっていたかと考えれば、良くは思わないにしても、悪いだけには捉えない」
じっと瞳を見詰められて、中嗣は大事な質問を忘れそうになった。
が、気を取り直して、口を開く。
「もうひとつ、どうしても聞きたいことがある。先は自分から殴られようとしていなかったか?あれは何故だ?」
華月は何故か恥じるように視線を落として微笑み、中嗣は再び目を瞠った。
恥じることを伝えた覚えはないからだ。さらにはその恥じらう笑みが可愛く見えた。
それで中嗣はとんとおかしなことを言ってしまう。
「傷害罪を加えて、より厳しい処分にしようとでも考えたか?」
「痛い想いをしてまで、そんなことをしないよ」
「ではなぜだ?」
華月は眉を下げると、「落ち込まない?」と確認するのだ。
まだ中嗣は落ち込みやすい男だと信じているらしい。
これを不甲斐なく思い、中嗣は強く頷いた。
「昔のことが体に染み付いているの。逃げても余計に酷く叩かれるだけだったから、どうせなら一度で済ませようと思うでしょう?その一度も、出来るだけ痛くないように、なるべく危なくないようにと考えたら、上手く当たるためにその場に留まることが癖になってしまって。ほら、下手に避けると、爪で肌を抉られたり、当たり所が悪くて気を失ったり、鼓膜が破れたりするでしょう。それを避けていたら、こうなったんだ」
落ち込むなと言われたのに、中嗣は一時落ち込んだ。
だがそれはこれからの華月を幸せにしなければという想いを強めるもので、辛いだけの感情ではない。
「嫌な話を聞かせてごめんね?」
華月は心配そうに中嗣の顔を覗き込んだが、中嗣はゆったりと首を振った。
「聞いたのは私だよ。言ってくれて嬉しいと思う」
「無理はしなくていいのに」
「無理なものか。本当に聞きたいのだよ。お願いだから、私が落ち込むかどうかを気にせず、これからは何でも話してくれないか」
「中嗣もそうしてくれるなら」
今までのすべてを見透かされているような気がして、中嗣は返答に言い淀んだ。
華月にくすっと笑われ、焦り言葉を紡ぐ。
「私もそうするように努めるから。それなら君も話してくれるね?」
「なるべく」
「なるべくではなく、いつも頼むよ」
「中嗣だって努めると言ったのに?」
「うっ……私もいつもそうする……ように努力する」
「それは同じ意味だよ」
柔らかく笑った華月に安堵して、中嗣はそのまま華月の手を引き、畦道を歩いた。
もう前を歩く者たちの背は、遠く、小さくなっている。
「痛まないか?」
「平気」
「抱えるよ」
「大丈夫だってば。それより、ねぇ、見て」
華月の視線を追えば、中嗣は息を呑んだ。
どこまでも広い空が橙に染まり、長く伸びた雲は真っ赤に燃えていて、その下には壮大に靡く稲穂が、茜色に輝いている。
風が凪ぐ。静寂がまた、この場に恐ろしいほどの美しさを与えた。
垂れた稲穂はしんと静まり、世界に華月と中嗣の二人だけが音を出す存在として取り残されてしまったようだ。
風が吹く。ざわざわと音を立て一斉にしなる稲穂の朱き煌めきは、風が凪ぐ前よりも際立っていた。
刻々と雲は流れ、空の色が変わっていく。それに合わせて稲穂の輝きも変わった。
ますます朱が濃くなったとき、中嗣は愛しい者の横顔を眺めた。夕日に染まり、赤みを帯びた顔に落とされた陰影は、いつもよりも華月を大人に導いていて、中嗣はこれにも息を呑む。
少し前まで少女であったのに。いつの間にかこんなにも成長し、今やもう……。
中嗣はしみじみと感慨に浸っていたのに。
「悔しいなぁ」
中嗣の目に映った華月の膨らんだ頬は、少女の頃と変わらないものだった。
すぐに中嗣は「どうした?」と問い掛ける。領主への怒りでも再燃したかと心配したのだが、これは違った。
「中嗣があんなに動けることを知って悔しいの!中嗣には勝てると思っていたのに」
これには中嗣も苦笑してしまう。
己は落ち込みやすい男で、さらには華月よりもか弱い男だと思われていた。これを知り、挽回しなければと、中嗣は自分を奮い立たせたのだが。
「それから、あまり心配しないでね。これでも色々と考えて喧嘩を売っているんだから。勝てない喧嘩はしない主義だもの。今日は岳もいたからで、いつもはあんなことをしていないからね?」
続く華月の言葉には、笑顔を残しつつも中嗣の眉間に皺が寄った。
色々言いたいことはあるが、そもそも喧嘩など売らなくていいし、喧嘩を売るという前提を改めるところから説得を始めたらいいのか?いや、その前に喧嘩を売りたくなったら、先に相談するように言ったらいいのだろうか?と中嗣はしばし悩まされることになった。
それなのに、まだ華月は言う。
「悔しいなぁ。中嗣が強いなんて狡いよ」
「少しは見違えたか?」
期待はなかったとは言わないが、中嗣は良い言葉が返ってくることはないと思って言った。
諦めて期待しなければ、傷付かない。
それなのに。
「うん、素敵だった。武術を教えて欲しいな」
今日は中嗣の予想を超えたことばかり起こる。
「素敵だったか?」
思わず中嗣は聞き返した。そのせいで良くない言葉が返されてしまうと思っていたのに。
またしてもだ。
「凄く素敵だったよ!悔しいけどね!」
酒を飲まない華月から、いまだかつて素敵と言われたことがあっただろうか。
中嗣が浮足立ったのは言うまでもなく。
「華月、足が痛くなってきたね?今日はよく歩いたから辛かろう」
「え?痛くないよ?羅生の薬がいいみたい」
「いいや、痛いはずだ」
中嗣はさっと勢い華月を両手で抱え上げた。
ここしばらくで華月を抱き上げることに慣れて、中嗣はいとも簡単に両腕に華月を収めることが出来る。
「本当に大丈夫だから、下ろして」
「走っているところが見たいと、前に言っていたね。今から見せてあげよう」
「え?走る?あ、もしかして前回のときの話?それは別に暑かっただけで……」
「落ちないように、首に腕を回して。舌を噛まないよう、口も閉じているのだよ」
「へ?ちょっと待って」
「口を閉じて。さぁ、行くよ」
中嗣は華月を横抱きにした状態で駆け出した。
小さく粒のように見えていたのに、すぐに楊明夫妻に追い抜き、ついには利雪らの背中を越える。
「利雪。宗葉。羅生。馬車まで競争だ。最後の者が皆に夕餉を馳走すること!」
叫んだ中嗣を官たちは慌てて追い掛けたが、利雪など今日は動き過ぎて走れていない。
もっと後ろからは笑い声が聞こえていた。楊明とその妻の声だろう。
長い影を引きながら、官たちが夕日に向かい走っていく。
馬車の前で華月を下ろしたときには、中嗣の息も切れ切れで、あまり褒められる状態にはなかった。
しばしの間、華月に背中を撫でられたほどだ。
「私の走りはどうだ?素敵だったか?」
「はぁ?」
甘い時間は終わりを告げる。
と思われたが、中嗣にはもう少し続いた。
帰りの馬車の中で、華月がぐっすりと眠ったからだ。
中嗣は往路よりもさらに愛しい視線を、膝に乗せた華月の寝顔へと注いでいた。
また何かが変わっていく――