21.お楽しみのお時間です
楊明の顔色が悪かったのは、短いときだけだった。
華月と共に先頭を歩き始めてからは、何か強く決意したあとのような厳しい視線で、楊明は田を見据える。
その視線の先の田では、今まさに稲刈りが行われているところだった。
腰を折り作業する者たちに近付くまでもなく、そこにいるのは子どもたちである。
華月と楊明は立ち止まり、畦道の土手の上から田を見下ろす形を取った。
楊明など腰に手を置き、仁王立ちとなって、その様は作業する者らを馬鹿にしているようにも見えなくはない。
「うわぁ、下手だね。これじゃあ、日が暮れちゃうよ」
大きな声は華月からである。
そのわざとらしい声に呼応するよう、楊明もまた大きな声を出した。
「こりゃあ酷いなぁ。これだと時間が掛かるだろうよ」
この田は今朝から作業を始めたようで、田には手つかずの稲穂がほとんど残っていた。
子どもらは手前から奥まで列をなし、畦道から見て右から順に稲を刈っている。
訪問者が来ることは聞いていたのだろう。
華月の側にいた子らは一瞬顔を上げたものの、声を掛けられたわけではなかったので、すぐに顔を戻して作業を続けた。
一方、遠くにいる子どもたちは、華月と楊明の様子を窺いながら小声で何か囁き合っている。
中嗣はしばし傍観することに決め、後方から華月の背中を眺めていた。
他の官らも中嗣を習い、少し後ろに立って、田を眺めている。
前回も子どもを見ていたはずの利雪が、作業する様子を見ては切なげに眉を顰めていたのは、前と違って見えている証明であろう。
「この田が終わったら、今日はもう終わりなの?」
「左様です」
華月が問うと、今度は近くの子どもが答えてくれた。
華月と楊明は目を見合せて一つ頷くと、また華月が口を開く。
「ねぇ、みんな。早く終わらせて遊びたくなぁい?」
近くにいた子どもらが一斉に顔を上げて、華月を見た。
華月はふわりと微笑むと、子どもらの気を引く言葉を重ねていく。
「今日はいくら早く終わっても、私たちは誰にもそれを言わないからね。他の田に行って仕事をさせられる心配は要らないよ」
それでもまだ疑っているようで、子どもたちの顔は下がり、刈り取り作業が続けられる。
華月は子どもらの様子を気にせず、なお言った。
「私たちも昔は田で働いていたんだ。それでこの兄さんはね、刈り取りがすごーく早いんだよ」
先とは違い「本当かよ?」と疑う声が、華月らの耳に届く。
華月が隣の楊明に目配せすれば、楊明は頷き声を張り上げた。
「見る方が早いだろうよ。誰か鎌を貸してくれ!」
畔道の土手から田へと飛び降りると、楊明は近くの子から鎌を奪うように借りて、稲穂の束をいくらか刈った。
その身軽な動きに驚いたのは、子どもらよりも利雪と宗葉の方である。
羅生はくつくつと笑い、汚れることも厭わず畦道に腰を落とした。中嗣がまだ立っているというのに、この男はこれだから。
「大人の真似じゃあ駄目だ。もっと鎌の根元を持って。そうそう。あぁ、違う。角度はこうだ。それだとなかなか切れねぇんだよ。お前らの力じゃあ、こうした方がいいな」
子どもらが言われた通りに試すと、稲穂が刈り取られる手際が格段に良くなった。素人目にもそれが分かるほどに、刈り取りの速度が上がる。
ここで華月は役目を終えたのか、羅生と同じように畔道の土手に座り込むと、田に向かい足を投げ出し、稲刈りの見物人となった。
楊明に「お前も手伝えよ!」と叫ばれたが、嫌だと笑い、動かない。
手伝わないのではなく、手伝えないのだと分かっている中嗣は、自然隣に腰を落とし、そっと華月の背中に手を置いた。
華月が「もう少し見ていて」と小声で伝えてきたので、中嗣は声を出さないが手も離さない。
利雪と宗葉はまだ座らなかった。田を眺めることで忙しく、立っていた方が田をよく見渡せることもあっただろう。
楊明と子どもたちが田で忙しく稲刈りをしている前で、華月はおしゃべりを続けていく。
「今年は実りが悪いんだってねぇ。なんでかなぁ?」
「天気が良過ぎたからだよ」
楊明が作業に加わったことで、子どもらの警戒心が解かれたのだろう。
次第に子どもたちの口は軽くなっていった。
「へぇ、そうなんだ。よく知っているねぇ。稲は天気がいいと良くないの?」
「夏が暑かったでしょう?」
「今年は嫌になるほど暑かったねぇ。もしかして田は涼しい方が実るの?」
「暑さが足りなくても駄目で、暑さが過ぎるのも良くないんだって」
「それは知らなかったよ。勉強になるなぁ」
華月がよく褒めたことで子どもたちも上機嫌となり、しばらくは子どもの明るく楽しい声に耳を傾け、官たちも気を楽にしていたのだが。
その和やかな空気が変わったのは、「最近はどんな美味しいものを食べたの?」と華月が尋ねたときである。
利雪、宗葉は、これでもかと目を丸くし、直後には戸惑いの色を示した。
羅生は冷静な様子だったから、もう知った話なのかもしれない。
中嗣は当然、顔色ひとつ変えず、涼やかに微笑し、今もなお、華月の背中に手を置いていた。
さて、楊明の妻である李紫だが。
彼女は少し離れた木陰の下に布を敷いてそこに座り、遠くで働く夫を眺めていた。
笑顔であるから、夫の珍しい様を楽しんでいるようである。
若い文官たちの戸惑いなど知らず、子どもたちは元気な声を張り上げた。
「一昨日は鰻を食べたよ。今も罠を仕掛けてあるんだ」
「鰻かぁ。近頃食べていないから羨ましいな。仕掛けの上手い子がいるの?」
「俺だよ、俺!」と名乗り出る男の子に、華月が「凄いねぇ、今度教えてよ」と笑い掛ける。
話題が良かったのか。
いまだ様子を伺って遠巻きに見ていた子らも、一人、また一人と、会話に加わるようになり、ついには遠くからも大きな声が届くようになった。
「あっちの沢で岩魚が取れるよ!」
「岩魚釣りなら、俺が一番だ」
「いいや、俺だよ。この間一度に五匹も釣ったんだぜ」
「その前は一匹も釣れなかったくせに」
「なんだと!」
喧嘩が始まったかと思えば。
「この間、おっちゃんが猪を捕まえて分けてくれたんだ。あれは上手かった」
嬉しそうに語る声がして。
「あっちの藪には柿がなるよ。干すと甘くて美味しいの」
「向こうでは山菜が沢山採れるんだ。いつもみんなの粥に入れてあげているんだよ」
少女たちも得意気に語る。
「こっそり藪の中で芋も育てているんだ。大人には内緒だからね」
秘密を明かす子どもらまで出始めた。
すると華月もどんどん饒舌になっていき。
「酒を造る親父なんかはどう?いるなら、あとで分けて貰いたいな」
「辞めておきなよ。死んじまうよ!」
「それは酷い酒だね。余計に味が気になるなぁ」
「大人は不味くてとても飲めないと言うよ?あの人だけ美味いって言うんだ」
「あの親父は、もう味が分からないんだよ。それでも酔って死ぬなら本望なんだってさ」
「それは分かるなぁ。酔って死ねたら幸せだもの。その人はどの田に居るの?」
分からないでくれ。頼むから。
中嗣は願い、華月の腰に手を回すと、その腰を引くようにして体を引き寄せた。
華月からは迷惑だという視線を感じたが、中嗣は手を緩めない。
「今日は東の五に居るはず」
「あとで行ってみよう」
「おい、教えるなよ。辞めときなよ、お姉さん」
「行かない方がいいよ。それに会話にもならねぇもん。どうせ飲ませてくれないよ」
「今日だって働いているか怪しいもんだ」
「そうそう、会話も出来ないし諦めよう?あとで鰻を分けてあげるからさ!」
庶民には、己で作った酒の中毒で死ぬ者は多い。
酒だって楽しめるんだよ、と利雪らに伝えたかったのだろうが、これは上手くいかなかった。
それ以前に、利雪は会話の意味を理解していただろうか。
「みんなのいい話を聞いていたら、お腹が空いてきちゃった。岳、早く終わらせてよ。鰻が食べたい!」
華月が大きな声で叫ぶと、「それなら、手伝えよ!」という楊明の大きな声が轟いた。
華月は順に官たちの顔を眺め、ふわりと笑う。
「おや、ここに暇そうな兄さんたちがこんなにも!」
宗葉が一番に駆け出したのは、中嗣にも意外なことだった。
動きたくてうずうずしていたのではないか。利雪と羅生もこれに続く。
しかし利雪は見ている方が心配になるほど、足取り怪しくよたよたと土手を下りて行った。何にせよ、怪我だけはしないで欲しいと、ひっそりと祈る中嗣だ。
華月は小首を傾げ「隣の兄さんは?」と言い、中嗣を見て笑った。
「私にも働けと?」
「いつもとは違う中嗣が見てみたいな」
隣に座る娘の何もかもが可愛く見える中嗣が、この言葉を聞いて動かずにいられるはずもない。
それでも側を離れることが心配で、「痛まないか?」と小声で聞き、鬱陶しいから早く行けと腕を叩かれていたけれど。
中嗣も勢い、畦道の土手から田へと飛び降りた。
官たちは楊明から稲の刈り方を教わったあと、子どもらに道具を借りて実際に稲を刈り始める。おかげで子どもらは休憩も出来て、一層華月とよく話すようになった。
涼しいというのに、すぐに官らの顔には玉の汗が伝う。
途中、利雪が派手に転んで皆を焦らせたが、衣装が泥だらけになっただけで怪我もなく、何よりも利雪が声を上げて笑い出したので、誰もが安堵した。
それは鎌の使い方に慣れてしばらく、疲れによって利雪の動きが悪くなってきた頃である。
華月がまたわざとらしいほどに、大きな声を出したのだ。
「あぁ、大変!今日は見ないといけない田があったんだ!えぇと……その田はどこにあるんだろう?」
「連れて行ってあげようか?」
近くの子が案内を名乗り出たが、華月は首を振った。
「皆は忙しいし、自分で行くよ。ここの田が何番か教えて?」
「西の五だよ?あっちが六」
「それなら西の十は、林の向こうかな?」
「違うよ。七から先は並びが変わるんだ。あの大きな木が並ぶ向こう側になるの」
「ありがとう、助かったよ。あとで行ってくるね」
中嗣が華月の顔に魅入られながら、背中に冷や汗を掻く。
ふわぁっと息を吐くような、あの独特な華月の笑い方を見てしまったからだ。
昨日の玉翠の言葉が即座に思い出され、中嗣は顔色を悪くしたが、そんな中嗣に向かい、華月は手を振った。頑張れという意味であったが、それはこの場の作業だけに対したものだっただろうか。