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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第四章 ふとどきもの
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19.上司らしいことも出来るのです


 宗葉の瞳は明らかに揺らいでいた。誰とも目を合わせないように気を配り、迷いに迷って視線の先が納まったのは、卓の上に広げたままとなっていた表の上だった。


「確かに話したが。下働きの者たちの衣装がどうだったかまでは……」


 利雪も宗葉も蒼錬の雇う下女らが、彼と同じ扱いをされていないことは覚えている。

 しかしそれは、華月の言葉によって作られた薄っぺらい記憶だった。

 利雪どころか、目の前にして会話までしていたはずの宗葉でも、彼女らがどんな衣装を着ていたかの記憶が定かではない。


 宗葉は確かに、下女らから染物屋の若旦那の評判や不正を匂わせる話を聞き出すことは出来たが、これでは中嗣の望む働きには足りないことを自ら明言しているようなものである。


 中嗣はしかし呆れはしなかった。そもそも部下たちの今の働きには満足していなかったのだから。

 ここで驚きと戸惑いを示したのは、華月の方だ。先まで会話に興味を失っていたが、さすがにこの宗葉の発言には華月の胸に与えるものがあった。

 官の前で繰り広げた蒼錬との言い合いのとき、心の中だけで服装について非難せず、口に出していたならば。服装を意識する概念が生まれ、多少は違っていたのかもしれないと、自身の行いを悔いるほどに。

 いつもは口が過ぎると反省するところが、今は違った。


 田の見学のとき、薄汚れた衣装に着替えさせられたあとに利雪がはしゃいでいた理由。

 それも本質を分かっていなかったからだと知り、華月は愕然とする。

 利雪は汚れるから衣装を変えさせられたとでも思っていたのだろう。

 余程懇切丁寧に説明しなければ、こちらの意図が伝わらない相手だとようやく悟った華月だった。


 利雪は賢くも世間知らずだと思っていたが、ここまでとは。

 だから世が良くならないのだという考えに至ったとき、華月は恐ろしく感じた。おそらく宮中でも良心にある利雪がこれでは。民の暮らしが向上する期待は出来ない。


 思わず中嗣を見上げれば、中嗣は優しく微笑んで、華月の背中をまた撫でていくだけだったが、それは華月の心を静かに落ち着かせた。


「宗葉まで覚えていないとは。本当にお前たちはめでたいな。さすがは宮中に囲われてきた文官様だ」


 羅生は辛辣な言葉をなお重ねた。

 その容赦のなさは、利雪や宗葉相手にも変わらないのかと、華月は驚きを持って羅生を見ていた。

 華月は宮中での彼らのことなど何も知らない。


「あなたとて元は……」


 カッとなり言い始めてしまったものの、羅の家の者たちを失った羅生にはその先を言えず、利雪は押し黙った。

 羅生はこれを鼻で笑い、話を戻す。


「ぬくぬくと育ったお前たちと一緒にされるのは心外だが、羅の家のことなど今さら言っても仕方あるまい。話を戻そうぞ。お前は作った者がそれを手に出来ぬのはおかしいと言ったな。これを通せば、世には高級品を扱う仕事をしたい者で溢れよう。しかし金を得た者は、その類の仕事をしたがらない。これをどうする気だ?」


 中嗣の役目を羅生が奪っているように感じ、華月は中嗣を見たが、変わらず涼しい顔で笑う男が何か気にしている素振りは見えなかった。

 それで華月は、その顔をまじまじと眺めるのだが、今度は中嗣に気付かれ慌てて顔を逸らすことになった。


「どうして働かなくなるのでしょう?たった今、仕事をしたい者で溢れると言ったのは、あなたですね?」

「その者たちは作った物を手に出来るのだろう?それを売って大金を得れば、即働くのを辞めようぞ。世に出る売り物などひとつも残らないかもしれんな」

「続ければもっと得られるのに、どうして辞めてしまうのです?それに仕事とは、そのように富を得るためだけにするものではないでしょう?」

「お前は本当にめでたい男だな。世のどれだけが、望んで働いていると思っている?仕事を誇りに出来る者など僅かだぞ」

「……あなたの言っていることが分かりません」

「そうだろうな。俺とて分かったように言葉を並べているだけだ。所詮、俺たちは良き生まれ、良き育ちで、苦労を知らん。偉そうに語るなと言うところだ。なぁ、華月?」


 ぴくっと肩を揺らした華月からは、「うん?」という曖昧な返事しか出て来なかった。

 中嗣から顔を逸らしたあと、中嗣をいかに出し抜いて一人で外出するかという問題に頭を巡らせ、あまり聞いていなかったのである。一度は衝撃を受けたものの、長くなる会話に飽きていたとも言えた。


 中嗣は柔らかく苦笑して、華月の背中を撫で、部下たちの顔を眺める。

 宗葉が一切口論に参加しないことを憂えながら、ようやく上司らしく口を開いた。


「そろそろ話を戻そうか。私は何故我らが米を受け取れるのかと聞いたね。君たちは今、知見を広めたところで、これから見る田は違って見えることだろう。稲刈りを見学するまで、そして見学するときも、今話したことについてよく考え、その答えを探るといい」


 中嗣は朗々と語る。彼にしては珍しいことが続けば、それは新しくも中嗣らしさのひとつになろうとしていた。


「利雪と宗葉には、ひとつ、個人的な指摘をしよう。君たちが周りの様子を見ていないのは、それだけ君たちが周りからどう見られるかという視点を持っていないことの表れでもある。これについてもしばし考えてみるといい」

「周りからどう見られるか、ですか?」


 利雪は儚い声で言い、首を傾げた。

 普通の若い娘なら、この美しさに魅せられて卒倒しそうだが、花街に通い慣れた華月はただ美しいと思うあまり。


「ここで私の意見も言っておけば、私は周囲の者におもねることも、迎合することも、好ましく思っていない。さて、この話はここまでだ」


 詳しく説明しないと、理解して貰えない相手だと悟ったばかりの華月は、心配そうに中嗣を見るが、中嗣は気にせず涼やかに微笑んで、今度は部下を指導する。


「これは上司として言おう。利雪、先の君の発言がただの思い付きであったとしても、それは四位の文官としての意見になり、利の家の意見ともなり、そして今は私の意見として受け止められる。それは分かるね?」


 利雪は震える声で「はい」と小さく言った。


「私の前で素直な議論は許そう。されど、外で不用意な発言は控えるように。これは全員に言っているからね。それから、宗葉」


 中嗣が先を言う前に、宗葉は「はい」と大きな声で返事をした。


「今後私が調査を依頼したときには、詳細の報告を期待するよ」


 今までは足りないよ、と言っているのだが。

 宗葉はそのまま大きな声で「かしこまりました」と答えるだけだった。


 宗葉に対しての不安を飲み込んだ中嗣が華月を見ると、すぐに目が合った。

 それで中嗣が自然に華月に向かいにこりと微笑めば、なんと華月も微笑み返したではないか。

 中嗣の目がすっと見開かれ、今度は中嗣が華月に目を奪われることになった。

 中嗣から見た愛しい人もまた、いつもと違うように見えている。


 互いに普段とは違い不思議だと思い観察する様は、まるで思い合っているようで、羅生は一人ほくそ笑む。

 偉そうに言った中嗣が、はたしてこの娘の前にあって、それが出来ているのか。そう考えてしまえば、笑いも起こる。


 離れたところから、玉翠は若者たちを見守っていた。利雪は青白い顔で俯いていたが、宗葉は隣でぼんやりと空を眺めていて、いつも仲の良い二人が対象的な性質であることを知る。


 この場で稲刈りの見学へ行く日は決められた。




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