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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第四章 ふとどきもの
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18.実は口論する仲だったのですよ


 ここが写本屋であることを忘れた高位の文官様が作る笑みは、店先の空気を変えた。


「利雪。農民がどれだけの米を受け取るか、その表から読み取ることは出来るか?」


 穏やかに問い掛ける上司を前に、利雪は目を瞬いた。


「こちらは税収をまとめた表ですから、農民への分配量までは分かりません」


 一目瞭然となるようまとめた表だ。中嗣が本気で問うていないことは利雪にも分かっていて、だからこそ戸惑っている。


「では、農民は誰に雇われて働いているか知っているかな?」

「田の領主殿ですね」


 子どもに諭すような言い方になるのは、かつて実際に子どもに教えを与えていた経験が尾を引いているのだろう。

 懐かしそうに目を細めて中嗣の声を聴いていたのは、華月ではなく、玉翠だった。店の暖簾を下げた今も、玉翠は番台前にある。


「その領主は、出来た米をどれくらい手に入れるだろう?」

「それはこの表からも見て取れますね。我々が徴収した残りの分ですから、例年領主殿の元には、田から得た六割程度の米が残ります」

「その米の行方は知っているか?」

「えぇ。聞いて参りました」


 利雪は笑顔で明瞭に答えた。褒めてくれとでもいうように。


「領主殿は、税を払い終えたあと、残った米を米問屋に回します。その米問屋から、市井の米屋や酒屋、料理屋などへと米が売られていくのです」


 よく調べたね、と中嗣が言うはずもなく。さらに中嗣は問い掛けた。


「それは領主の手元に残ったすべての米になるか?」

「いえ。おそらくですが、ご自身で食べる分や、農民らの分を先に確保して、残りを米問屋に売却するのではないかと」


 中嗣の視線が華月へと向かった。

 合わせて華月の背中がゆったりと撫でられる。華月は嫌な顔をせずに、ただ頷いて、口を開いた。


「私はかつて、農民と同じ立場にあったことがある」

「そうだったのですか?」


 利雪は驚くが、聞き役に徹していた宗葉は特別な感情を示さずにぼんやりとした顔で華月を見ていた。

 羅生は彼にしては珍しく、腕を組み、口を閉じて、こちらも聞き役に徹している。


「小さい頃の話だよ。利雪は領主が農民らのために米を残しておくと言ったね?」

「えぇ。わざわざ市井へと流したあとに、米屋から米を買うという不利益なことはしないかと思ったのですが。違いましたか?」

「違うどころか。その当時、私は米も麦も育てていたけれど、そのどちらも口にしたことはなかったよ」


 利雪の顔には、信じられないという疑いの念がまだ生じていなかった。

 そこにあったのは、理解が追い付いていないという、呆けた顔である。


「領主の指示で育てた野菜だって食べたことはなかったね。そのうえ、一切の給金も貰っていなかったから、街に出て食材を買うことも出来なかった」

「そんな……それでは……」

「朝と晩に食事は出たよ。米でも麦でもなく、合わせた雑穀の粥だったけれどね。それもほとんど湯のような粥で、中身があると嬉しかったなぁ。すべての農民がこれと同じとは言わないけれど、多くは領主から昔の私と変わらない扱いを受けているはずだよ」


 華月の話が終わっても、中嗣は部下たちが悲嘆にくれることを許さない。


「さて、ここで考えて欲しい。我らはどうして領主から米を受け取れるのだろうか?」

「それは……主上様の土地にあっては、そこから得たものを税として献上することは民らの当然の義務でありまして……」


 利雪の声は、先に行くほどか細くなり、最後はよく聞き取れなかった。


「宮中であれば、それは正解だね。宗葉はどうだ?」

「同じく、この国のすべての土地は、主上様が所有されるものであり、借りた土地で得た作物の一部を徴収することには問題はないと思います」


 宗葉は利雪のように声を窄めることはなく、最後まではっきりとした声で語った顔には迷いもない。


「制度としては正しく、問題は他にあると言いたいのかな?」

「私はそのように考えます。農民らに良き食事を与えないのは、田の領主です」

「そうです。すべての田の領主殿に対し、農民らに与える分の米を正しく確保するよう、お触れを出してはいかがでしょう?」


 宗葉の考えに便乗する形で、利雪が改善策を提案すれば、羅生はくくっと笑い、しばらく組んでいた腕を解いた。

 利雪は顰め面でこれに答える。


「羅生殿。笑っていないで、あなたも共に考えましょう」

「俺も考えてはいたところだが、お前があまりにおめでたいことを言うものだから、つい笑ってしまったぞ」

「私がおめでたいですって?」


 羅生は一度中嗣と華月へ視線を流してから、美しき男の瞳をまっすぐに射抜いた。


「めでたいだろう。そのような清き正しき触れに、どこの領主が従うと言う?」

「厳しい罰則を付ければ、どの領主殿とて従いましょう」

「宮中は領主より農民を大事にするという意味に取られるぞ?」

「どちらが大事という内容ではありません」

「領主からすれば、そうはならん。農民のために罰せられるなど理解してはくれんぞ。そもそも農民をどう扱うか、そこは領主の領分だ。農民らは領主の管理下にある」

「領主殿も、農民の皆様も、等しく我が国の民ではありませんか。宮中に従うのは当然のこと。それでも不満が出るとすれば……そうです、どちらも十分に食べられる米を残すようにと指示すれば良いのです」

「農民がどれだけいるか、分かっているのか?」

「世に出回り余るほどの米があるのですから、彼らの分が足りないはずはありません」

「それほど言うなら、あとで試算してみるといい。しかしその触れを出せば、米を食べられん民は、こぞって農民になることを願おうな。田に限りはあるが、これはどうする?」

「それでは食べられない者たちのために、別の施策を考えることと致しましょう。神事の際に炊き出しを行っておりますが、民らに米を分配しても良いのかもしれませんね」


 羅生がまたくくっと笑い、「本当にめでたいな」と言えば、利雪も顰め面で「私のどこがです?」と問い返し、戦う意思を見せる。

 これが珍しくて、華月は二人の男を交互に眺めた。

 それもそのはず。華月を前にしたとき、利雪はその字に魅せられた男に変わってしまうので、不機嫌な顔を作ることがないし、字から華月自身のことも崇めているせいか、言い合いになることもなかった。


 華月は今、感動している。利雪の言動ではなく、造形の美しい顔が多少歪んだところで、これまた美しいものなのだという発見をしたことに。

 悲しいかな、言い合う様を珍しく思おうと、会話の中身には興味の失せていた華月だった。


「米が高級品であることは学んだと聞いていたが、違ったか?その米を、農民らや、炊き出しを必要とする者らに配ってどうする?」

「確かに働かずして米を得ることは許されないかもしれませんが、少なくとも、米を育てた皆さまが口に出来ない状況はおかしいでしょう?」

「それを言ったら、一等の絹織りに関わる者たちが、それを着ていないことはどうなる?」

「え?着られていないのですか?」

「着ている者もあろうが、多くは麻や綿の衣装を着て、絹織りを行うのだぞ。先に見たと言っていた染物屋とて同じことではなかったか?」

「同じとは?」

「覚えてもいないとは。お前はどうだ、宗葉?確か下女と話したと言っていたな」


 呼吸さえ目立たないようにして空気に徹していた宗葉は、まずいと思い大きな肩を揺らした。





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