10.酒を酌み交わしたら本音で語りましょうぞ
「毒の線は本当にないのか?」
中嗣はあえて確認した。羅生は大仰に首を振る。
「いつまでも熱と痛みを持たせる毒など、存在すると思いますか?」
「私は知らぬから聞いているのだよ」
「では、この世の果てまで確認しない限り、ないとは断言出来ないとお伝えしておきましょう。皮膚が焼かれる毒ならば、確かにありますから、絶対にないかと問われればそれは否定出来ないものです」
「それは私にも分かるから、医官として君の想うところを語るといい」
「ではここからは、そのような世の中全体の話ではなく、私の見解としてお聞きください。現状の医の知恵では、一度焼かれただけの皮膚が熱を持ち続けることはあり得ません。これを可能にするためには、熱と痛みを与える薬を長く傷口に擦り付けることしか思いつきませんが、それを行える人間が華月の側にあり続けたというのも考えにくいことです」
中嗣は華月が寝やすいように、抱え方を変えながら、さらにあえて聞いた。
「あの医者に会う頻度で、それは起こらないということでいいか?」
「私もそれを疑いましたがね。年に二度ほどしか通っていないのでしょう?診せるときに触れられてはいるようですが、その際に何の薬も塗られてはおらず、塗り薬の処方もなく、確認したあの飲み薬もただの弱い痛み止め薬でしたからな。ただし、華月があえて隠しているのなら、話は変わりますぞ」
可能性の薄いものを消去するため、中嗣はなお問うた。
完全に中嗣に身を委ねた華月の体は、上手いこと中嗣の膝に乗り、横向きに座るような形に変わったが、華月に起きる気配はない。
「痛みの原因が、汗の出ないせいだということはないか?」
「確かにそのようなことがあると言いましたが。聞く限り傷痕は皮膚の一部であって、体の内側に熱を籠らせるには足りないかと。それに内に熱が籠って気分が悪くなるのは分かりますが、あのような形で古傷が痛むという話は聞いたことがありません」
羅生は一度言葉を区切ると、迷いなく中嗣に対し非難の目を向けた。
「このように話していても無駄ではありませんか?傷を見れば、確実に判断出来ることです」
中嗣はここで頷くことはしなかった。
羅生は中嗣のこの甘さを無意味を越えて、悪いものだと考えている。
「中嗣様、心を鬼にしてでも、早う傷を見た方がよろしいかと」
「今しばらく待ちたいのだよ」
「今のように酒で口が滑るなら、いくら飲ませても構いませんぞ?」
「酒を飲んだところで、嫌なものは嫌だと言う子だよ」
「試されたのですか?」
「あぁ。少々しつこく聞き過ぎて、平気だからもう言うなと泣かれてしまったね」
冷静さを保つためにふぅっと息を漏らしたのは、羅生の方であった。
「そうですか。ところで酒はどうされます?」
「何を聞く?飲んでいいのか?」
「先に飲んでいただいた薬湯は滋養にいいだけで薬としては特別な効果もなく、酒との相性も悪くありませんからな」
「私は効く薬を出せと言ったはずだよ?」
「中嗣様のそれは、よく休めば治るものです。これを機に無理をしないことを覚えてくだされ。華月の手本にならず、どうするのです?」
痛いところを突かれた中嗣は、華月の背中を撫でたが、あまりにぐっすりと眠っているので、そろそろ横にしてあげようと思った。
羅生は言わずとも中嗣の心の変化を察し、中嗣の側に布団を敷く。
それで中嗣は有難く羅生の敷いた布団の上に華月をゆっくりと横たえたものの、それから布団を掛けたあとはやはり離れがたくなって、華月の額を撫でていた。
そこまで触れておいて、何故何もしないでいられるのだ。と理解出来ない顔で、羅生は中嗣を見ていたが、気付きもしない。
結局どうしても離れがたく、中嗣は華月の手を布団から取り出して、自分の膝の上に置いておくことにした。
「よく寝ているようですし、医官としてなら見ても構いませんな?」
「駄目だ」
中嗣の答えまで、僅かの間もなかった。
羅生はまたしても呆れるのである。
「見せて貰えぬのなら、こちらが勝手に見るしかありませんぞ。それで知らぬ顔でもしておけばいいのです。これなら華月も泣きますまい」
「駄目だと言っているだろう。そのようなことは考えるな」
この一線は、許されずに超えてはいけないと中嗣は考えている。
それは築いてきた華月の信用を失う行為だ。
「まったく甘いですなぁ。対応が遅れ後悔しても知りませんからな」
「分かっている。私の責でいい」
「誰の責かなど、どうでもいいことです。ところで」
羅生が酒瓶を持ち上げたので、中嗣は有難く酌を受けた。
加減なくなみなみと酒杯に注がれた酒を一口飲んで、中嗣は唸る。確かに美味い酒だった。
そうだとしても、中嗣は華月のように一度に酒杯を空けるようなことはしない。何度かに分けてこれをゆるりと味わった。
「近頃は利雪だけでなく、以前華月を泣かしておったあの男も、ふらふらとこちらにやって来るそうですな」
「それは華月からも聞いているよ」
羅生の言葉は、中嗣の前でしか泣かないのだと聞いていたのに昔を知る者の前で泣いていた、という点を長く気にしている中嗣への嫌がらせだ。華月に関わることになると、途端に器の小さき男になる中嗣である。
「では、瑠璃川の東岸によく足を運んでいることもお聞きしながら、好きにさせているのですな?」
「妓楼屋の話ではないのか?」
「花街に行かず、あちらで頻繁に会っている者がいるようですぞ」
「何者だ?」
中嗣の声は分かりやすく低く据わった色になる。
羅生は卑屈に笑い、中嗣の杯に酒を注いでから、自身の杯にも酒を注いだ。
それからぐいっと一息にそれを煽る。
羅生は意外にも、華月が見ていないときに限り、豪快に酒を飲む男だった。医官らしいような、そうではないような、こちらは屁理屈の塊のような男である。
「なかなか鋭い男でしてな」
「男だと?」
「えぇ。我らとさほど変わらないような齢の男ですぞ。さて、どうされます?」
「何者だ?」
中嗣は同じ言葉を重ねることがある。二度目は苛立っていることを、羅生は知っていた。
「ですから、後を付けられぬ男だったのですよ。見目はどこかの店の下男のようでしたが、華月に仔細聞かれた方がよろしいかと」
「危ない男に違いないのか?」
「尾行出来ない相手だと思ってくだされ。華月は危ないと思っていないでしょうがな」
「特徴は?」
聞き終えると、中嗣は渋い顔となって、口を閉ざした。
ここで羅生はあざとく話題を変える。
「ところで華月では話にならんので、中嗣様に改めてお聞きしますが。いつもご一緒に眠っておられるので?」
すっかり忘れていた中嗣は、ぼんやりとだが頬を赤らめた。
熱が戻ったわけではない。
「そんなことがあるか。いつもは寝る部屋も分けている」
その華月と変わらない言い様には、羅生も怪訝に眉を寄せていた。
「ご病気では?」
「熱は下がったから問題ない」
「そうではなくて。好いた女と朝まで共に過ごし、何もせぬなど。私にはとても理解出来ませんなぁ」
簡単に言ってくれるなという想いを込めて、中嗣は羅生を睨んだ。
しかし羅生は、にやにやと嫌らしく笑うばかり。
「ははぁ。ようやく毎夜部屋に通えるようになったから、拒絶されるのが怖いのですな」
「恐れなどではない。まだ早いと思うだけだ」
嘘だ。中嗣は華月の拒絶を恐れている。
このように通うようになったからこそ、今さらこの関係を壊したくないのだ。
だから誰に会っているのかさえ、聞くことを躊躇う。
「華月も十八ならば、早いも何もありませんでしょう」
「街ではまだ早い方だよ」
「そうでしょうかねぇ」
「いずれにせよ、君には関係ないだろう?」
「そうですとも。関係ないから、面白く聞いていられるのです。そちらの方面の薬もご用意しておきますか?」
「余計な気を回すな!」
それからの二人は、官らしくない会話を続けた。主に羅生の女性に対する持論であるが、何の役にも立ちそうにないそれを、中嗣は不満なく聞いていた。中嗣にとっては、羅生を知るいい機会である。というのも実は、羅生と中嗣が二人だけで酒を交わすのは初めてのことだった。
その話がひと段落したところで、羅生はわざとらしく、たった今思い出したように言った。これには中嗣も、小さく笑ってしまう。
「今日は祭りを見られる限りぐるりと巡ってきましたがね。東岸側に書の並ぶ一角がありましたぞ。品揃えはなかなかのものでしたな」
中嗣が訳知り顔で頷いたとき、物音が聞こえ、二人の会話は打ち切られた。
この場に玉翠が加わり、改めて三人で飲み始めれば、また羅生は医官らしく、今度は玉翠から華月の普段の様子を聞き出していく。
玉翠は懇切丁寧に華月の日常の様子を語ったので、中嗣はまた違う意味でじっくりと話を聞いていた。その間も膝に乗せた華月の手を握り締めて離さず、そうして少しでも痛みが緩和するようにと願い、普段の華月の様子を想像しては、ゆったりと酒を味わっていく。
祭りの喧騒を遠くに感じながら静かに過ごす夜もいいものだと、中嗣はしみじみと思った。
熱を出し騒がせていたのは自分であることを忘れ、愛しき寝顔を眺め続ける。
初めて自分が側にあることを正しく肯定された幸せな夜だった。