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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第四章 ふとどきもの
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9.久しぶりのお酒は酔いますね、真実かどうかはさておき

 

 酒が回ったのか。ふわふわとした柔らかい雰囲気を纏った華月は、その後もよく話した。

 いつもよりもゆったりとしたその口調は、中嗣の心の琴線に触れ、それでついつい酒を勧めたくなっては、耐えるのに苦労する中嗣だった。


 しかし今宵はそれほどに苦労する必要は、初めからなかったのかもしれない。

 華月が目を擦るようになるまでは、早かった。


「眠いね、華月。横になろうか」

「中嗣こそ、平気なの?」


 華月から伸びた手が、中嗣の額に収まる。

 もはや酒のせいで、華月の手の方が温かく、中嗣は本気で心配になってきた。

 

「私はもう熱も下がったようでね。それより傷は痛まないか?」

「ん、平気」

「平気なのは分かっているよ。少しは痛むね?」


 すんなりと華月が頷くと、このときを待っていたとばかりに羅生が卓に腕を預ける形で前のめりになったが、動きとは裏腹に羅生から出て来た声は、やけに落ち着いていて、羅生らしからぬ静かなものだった。


「少しとはどの程度だ?」

「少しは少しだよ。大丈夫だからね」

「聞き方を変えよう。しくしくと長く続く痛みか、あるいはズキン、ズキンと、脈と共に痛むようなものか。それとも、動かすたびに痛むのか」


 酒が入ったところで、華月がいつも今宵のように素直になるわけではない。

 そこに中嗣の存在は欠かせず、それでも中嗣がいても必ずというわけでもなく。

 羅生が今宵固い話を避けていたのは、華月が気分良く酔うよう促そうとしていたわけだ。


「うーん、動かすたびに痛いことはないね」

「動かしたことで痛みが増すことは?」

「余程動かさないと、特に変わらないかな」

「では痛みの種類はどうだ?先に言ったような、しくしくと長く続く痛みか、あるいは……」


 華月は首を傾げて、しばし黙った。酔いで頭が回らないのかもしれない。

 その間にさっと中嗣が酒杯に酒を注げば、やはりそれは瞬く間に空となるのである。

 飲み終えてから、華月は言った。


「ズキン、ズキンという方が近い気がする」

「脈と共に打つ痛みで間違いないか」

「脈を測って確認したことはないけど、そんな感じかな?」


 自身のことであるが、よく分かっていないように言う華月の頭を中嗣が撫でた。

 目を細めながら華月に微笑まれ、中嗣は胸を詰まらせる。


「ふむ。よく分かった」

「これだけで何か分かるの?」

「俺は優秀な医官だからな。これだけ知れば、薬を良く選べるようになるぞ。だからお前にとってはなんでもないことも俺には伝えてくれ。誰かと違って、過剰に心配したりはせん」


 羅生の嫌味を聞き流し、中嗣はなお華月の頭を撫でながら言った。

 しかし華月をお前と呼ぶ点への不満は忘れていないので、あとで羅生は酷く疲れることになるだろう。


「よしよし。よく言えたね」


 中嗣がしていることは、子どもにするそれであったが、ここで珍しいことが起こる。

 普段なら怒り始める華月が、自ら中嗣に体を寄せて来た。体を傾け、そのまま身を預けた形だ。

 中嗣が破顔して両手を広げ、華月を受け止めるのは、自然な反応であろう。愛しい人を抱き締める喜びの中で、もっと頻繁に酒を飲ませたい気分となり苦悶する中嗣だった。心の中が忙しない男である。


「中嗣は不思議な力があるの?」

「私に不思議な力か?」

「うん。何か特別な力を持っている?」


 恋慕の情ならどこの誰にも負けないほど持っているが?とうっかりと言い掛けた中嗣を無視し、華月のそれがただの酔っ払いの発言とは思えなかった羅生が尋ねる。


「中嗣様にどんな力があるように思えたと?」

「痛みを祓う力だよ。こうすると痛くなくなるの」

「それは本当かっ!」


 もはや中嗣の腕の中に囚われている状態にある華月は、間近でその大きな声を聞くことになった。

 驚きでびくりと体を揺らしたあとに、腕の中から「怒ったの?」と問う小さな声が漏れると、中嗣は急ぎこの場を取り繕う。


「怒ってなどいないよ。驚かせて悪かったね。嬉しくて、つい大きな声が出てしまったのだよ」

「嬉しいの?それは良かったねぇ」


 笑いながらぎゅっと抱き着かれて、中嗣もまた破顔して華月を抱き返した。

 こんなときでも羅生は、抱き合う二人を真顔で見やり、冷静に質問を重ねるのである。


「それは中嗣様だけの話か、華月?」

「そうだよ」

「他の者にも確認したうえで、言っているか?」

「うん。他の人には起こらない」

「待ってくれ、華月。誰に確認した?」


 大いに喜んでいたくせに、急に顔を強張らせて聞いたせいで、華月から再び「やっぱり怒っているの?」と聞かれてしまい、焦って否定する中嗣であった。

 せっかくのいい機会に何をしているのだと苛立つ羅生は、聞こえぬように舌打ちを漏らす。


「怒ってはいないよ。誰で確認したのか、知りたくてね。これも言えるかな?」


 嘘くさいほど穏やかな声で尋ねた中嗣を皮肉に笑いながら、それでも羅生は口を挟まず中嗣の問いに対する華月の答えを待った。

 羅生はすでに、精悍な医官の顔付きをして、中嗣の抱き締める腕から覗く華月の横顔を眺めている。


「美鈴に抱き着いても何もないの。あとは玉翠。前はよく私を抱き上げてくれていたでしょう?そのときも何もなかった」


 中嗣から安堵のため息が漏れる。

 美鈴という遊女に関しては何か引っ掛かりを覚えるものの、確認相手として問題はない。玉翠が幼い華月をよく可愛がり育てていたことも知っているし、中嗣はこれに感謝していた。

 安心感を味わえば、再び喜びの波が来て、華月を強く抱き締めると、中嗣は心から笑った。

 幸せそうな中嗣を前にして、実は羅生もまた別の意味で喜んでいる。


「私がこうすると痛みが消えるのだね?」

「そう。とても不思議」


 中嗣がぎゅうぎゅうと強く抱いたせいで、華月から幼い少女のような軽やかな笑い声が漏れた。


「それならそうと早く言ってくれて良かったのに。これからはずっとこうしていよう」

「そうなると思ったから言わなかったの」

「何故だ?」

「だって、ずっとは邪魔だから」


 羅生が手で口を押えたが、笑いの息が漏れている。

 中嗣が羅生を見たのは、一瞬だけ。今は腕の中の華月が愛しくてならない。たとえ何を言われようと、離してやる気にはならなかった。


「華月、もう少し教えてくれ。中嗣様に抱かれると、痛みは完全に消え、元の何もない状態に戻るのか?それとも少しは残るか?どうだ?」


 中嗣に捕まりながら、華月は首を傾げようとする。


「分かる範囲でいいよ、華月」


 中嗣が優しく言えば、華月は頷いて、しばし答えを考えた。

 華月の頭が揺れるたび、胸に擦れ、中嗣はその振動に堪らない愛しさを感じている。


「いつもと違って、とても楽になるよ。でも元の感じは覚えていないの」

「君は元の無事なときを忘れているのか」


 途端、中嗣の声は沈んだが、その胸の詰まりを解消するように一層強く華月を抱きしめた。

 合わせて背中や頭を好き放題に撫で始めたのは失策だった。たちまち華月の体は力を失い、離れた羅生の耳にまで寝息が届く。


「どう診立てた?」

「何を聞いております?」

「本当に薬は必要か?」

「中嗣様がいれば要らぬと仰りたいので?」

「そうだ。私が華月にとって最も良き薬であろう」

「はぁ。そうだとしても、まだまだ薬は必要でしょうな。さて、布団はそこに敷けばよろしいですかな」

「抱いていた方が痛まないのだろう」

「ずっとそうしていたら邪魔だそうですぞ」

「うっ。そうだとしても、しばしこのまま様子を見たい」


 こんな嬉しい日は長く華月を抱えていたい。

 中嗣はもう自身が熱を出していたことも忘れ、すこぶる体の調子が良かった。

 今のいい気分なら、羅生のこれまでの無礼さも許してやろうと思っていたほどだ。


 それなのに羅生は、中嗣の気分をとてつもなく悪くすることを言い始める。


「今の話が本当ならば、私でも同じことが起きるかどうか、試したいところですな」

「誰が君に許すと思うのだ?」

「別に中嗣様の許可がいるとは思いませんが。影でこそこそ抱き合われるよりは宜しいのでは?中嗣様も気になっておられるのでしょう」


 せっかくの幸せな気分が台無しではあるが、中嗣は羅生の言いたいところは分かった。


「毒の線はないと言い切れるようになったのか?」

「中嗣様こそ、その線を一切疑っておられぬのでは?」


 華月が怪我をした際の仔細について、中嗣は華月から聞いた話を羅生には伝えていない。それでも羅生は同じところに辿り着いている。

 これはもう疑いようがないだろう。

 中嗣はあの話を聞いたとき、脳内ですばやくいくつかの仮説を立てた。その仮説の検証や裏付けは今も続いているが、いずれにせよどの仮説も同じ原因に基づき成り立っている。




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