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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第一章 おくりもの
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6.写本屋


 宮中の北門から出て、北大通を東に進み、桜通りで北に曲がった。

 それからしばらく直進し、向かって右側、看板もない、こざっぱりとした様相の二階建ての民家の前で、利雪は立ち止まる。

 されど、ここは店らしい。入口に濃紺色の暖簾が掛かっている。だが、何の店かの表記が無い。


 彼らとすれ違うように、沢山の書を抱えた一人の男が出て行った。

 宗葉はすでに、ここがどういう場所か、察している。先ほどからずっと利雪の顔が紅潮していたからだ。

 例のお方は、利雪の憧れの絵師ならぬ、写本師さまと繋がっているらしい。


 引き戸を開けて中に入ると、番台の前の広い土間の右側に、椅子と卓が並んでいた。客はこの椅子で待てということか。

 番台の向こうに台所が見えたから、裏手が住まいなのだろう。左奥には、二階へ続く階段も覗いていた。二階も住まいだろうか。


 番台越しに座る男が、この店の主人の玉翠である。四十も間近くらいか。両目の端に薄い皺が数本刻まれていた。

 宗葉が玉翠に少しの違和を感じたのは、淡い瞳の色と肌の質感に異国の民のそれを感じたからだ。異国から流れ着き市井の写本屋で働くというのは考えにくいから、祖先に異国の民の血が流れているのかもしれない。


「いらっしゃいませ、利雪様。新たなご依頼でしょうか?それとも先日の写本の件で何か御座いましたで……」


 いつもの利雪なら、玉翠のゆったりした口調に合わせて会話を楽しんだことだろう。しかし今日の利雪は、丁寧に語る彼が話し終わるのを待つことが出来ない。


「今日は客ではなく、先日お世話になったお方にお礼をしたく参りました。お会いさせていただけるでしょうか?」


 警戒して声を落としてはいたものの、利雪の声色は興奮が微塵も隠せていなかった。今にも踊り出しそうに、声が抑揚している。


 玉翠はため息を一度ならず、三度も漏らしてから、最後に強く息を吸った。


「例のお客様が参りましたよ!」


 その声は、温厚そうな玉翠から発せられるとはとても思えない大きな声で。利雪らは、一瞬びくりと体を撥ねらせてしまったくらいだ。


 返答までには、間が空いた。


「もう少し掛かるから、待っていて貰って――」


 間の抜けたような声が二階から届いたとき、利雪と宗葉は顔を自然見合せていた。

 女の声である。

 玉翠の娘か、この店の下女だろうか。それとも本当に利雪の期待通りの……?

 利雪だけでなく、宗葉まで同じことを考えている。


「というわけですので、利雪様。そちらの卓でしばしお待ちいただけますか?その間、お茶でも……」


 玉翠がなんと言おうと、利雪はもう瞳の輝きを押さえられるはずもなく。

 膨らんだ期待はいよいよ爆発してしまった。


「玉翠殿!()()()()()、見学させていただいでも?」


 宗葉は正直、関わりたくないと思っていた。このような状態になると、利雪は誰にも止めることが出来ない。


 その瞳の輝きに圧倒されたのか、それとも元々決まっていたことなのか。

 玉翠が指を揃えた手のひらで奥の階段を示したとき、利雪は飛び上がって小躍りしそうになった。その様子を見ていた玉翠も、客に見せるべきではない苦笑を隠さない。


「なるべく静かにお願いいたします。紙が無駄になりませんように」


 利雪に聞こえていたかどうか。履物を脱いで店に上がると、利雪は奥の階段を駆けて行った。

 宗葉は続かず、玉翠の淹れた茶を飲みながら下で待つことにする。



◇◇◇



 二階に上がり切る前に、目的の人影を確認出来た。階段に通じる二階の廊下に面して、三つの部屋が横並びになっている。襖がすべて開け放たれているから、一つの大きな部屋であるとも言えよう。

 その真ん中の部屋。明るい窓辺に向かう文机の前に、背中がひとつ。


 背中越しに開いた両膝が見えているし、背も丸めていて、とても行儀が良いとは言えないが、その線の細さは女性に違いない。


 背中の真ん中あたりまで真っ直ぐに下りる黒髪が、腕の動きに合わせて小さく揺れていた。

 窓から注ぐ光のせいで、体から後光が射しているように見え、利雪にはそれがまた神々しい。


 利雪は床に並ぶ紙を踏まないように気を付けながら、慎重に体を寄せた。

 どの紙も一様に長く、あらかじめ折り目が付いていることが見て取れる。完成時には一枚の紙が幾頁にもなるのだろう。


 利雪は上からのぞき込むように文机を眺めた。

 文机にも長い紙が一枚、その両端は床に垂れていて、片側は白いままだ。

 その白い部分に、今まさに、美しい文字が生まれていた。

 それは書くというより、描くという表現がぴったりで、美しく、繊細で、それでいて時に力強く、すべてが利雪の感情を揺さぶった。


 利雪はただただ、生まれ行く文字を眺めていた。時間が経つのも忘れて。

 しかしこの夢のような時間も終わりを迎えようとしている。


 流れていた筆が紙の端までたどり着いたとき、紙から筆が上がった。筆は硯の上に着地して、女性の手から離れた。


「お待たせいたしました。利雪様」


 言いながら、女性が振り返った。

 利雪と同じか、少し下と見られる若い女性だ。

 ようやく利雪が戸惑いを見せる。


 顔のどの部分も主張をしない、至極特徴のない、質素な顔も、女性らしくない墨色の長衣も、利雪が普段女性から感じる苦手意識を彷彿とさせるものではなかったが、それでも得意ではない。

 しかし勝手に来たのは利雪なのだから、話を進めなければならない。


「はじめまして。と申して宜しいのでしょうか?」

「写本師として顔を見合せたのは、今がはじめてです。それで宜しいのでは?」


 会ったことはあったのだ。利雪もその時のことを覚えている。

 一度だけ、店主の玉翠に代わり、彼女が店番をしていたことがあり、そのときは、ただの下女だと思っていた。


「先日はありがとうございました」

「何のことでございましょう?」


 女性は別に怒っているわけでもない様子だが、素っ気なく言うと、床に散らばる紙を部屋の隅に移動した。

 その意を汲み、利雪はたった今空いた床に腰を下ろす。

 女性が座り直すのを待って、利雪はさらに言った。


「我が主君よりのお礼です。受け取って頂けないでしょうか?」


 布に包まれた金子を差し出すも、当然のように、彼女は首を振る。


「受け取るわけには参りません。お持ち帰りください」


 淡々とし過ぎているから、怒らせたのではないかと不安を誘うが、利雪はもう少し頑張ることにした。本当はもっと違う話題を楽しみたいのだが、善処したと示す理由くらいは必要だと思っている。


「受け取って頂かなければ、私が主君からお叱りを受けます」

「それは貴方様の問題です。私にも礼を受け取る自由はありましょう」


 予想通り、いや予想以上に頑固である。おかしなことに、それが利雪には嬉しかった。


「では、別の礼ならば、如何でしょうか?」


 金子を仕舞い、袋から美しい装飾が施された、分厚い書を差し出した。薄紫の布張りの背表紙には、金の糸で美しい紋様が刺繍されている。


 一瞬、女性の瞳が輝いたことを、彼は見逃していない。


「受け取るわけにはいきませんが、拝見しても?」

「えぇ。どうぞ。隅々までご確認ください」


 女性は書を手に取ると、何度か装飾を撫でて、表と裏を確認し、それから頁を繰った。

 先ほどまでとは、まるで違う雰囲気を纏う。明らかに楽しそうで、その様は少し幼くも感じられた。


 差し出したのは、異国の書だ。珍しい装飾を紐解けば、見知らぬ異国の文字の羅列。市中には出回らない希少性のある書で、利雪は今日の相手がこれにどう反応するかを知りたかったのだ。


 女性はそっと書を閉じると、愛おしそうに薄紫の背表紙を数度撫でた。

 それから、名残惜しそうに書を利雪に返す。利雪は思わず微笑んでいた。苦手意識は散漫し、忘れつつある。


「お気に召しませんか?」

「いいえ、受け取る理由がないだけです」


 言いながら、落ち込んでいるようにも見えた。それならば、受け取ってしまえば良いものを。

 利雪は一層深く微笑んだ。それは感動するほどに美しい顔であるのだが、女性は利雪の顔を見ず、たった今、手放した書に視線を向けている。


「なぜそれほどまでに固辞するのでしょうか?」


 よくお考えくださいませ、と女性は言って、一間を空けて先を続ける。


「書を読めば答えが分かること。それが礼を頂く理由になりましょうか?」

「しかし今までにも、何かしらの礼を受け取って来たのではありませんか?」


 妓楼屋に通う金があるはずなのだ。一介の、ただの写本師が、そう何度も通えるような場所ではない。おそらく以前からこのようなことをしていて、助けた者から礼を受け取っていた、というのが利雪の見立てである。


 ここで利雪はもっとも初歩的な疑問を持つことになった。ようやく、と言っていい。

 そもそも彼女は女性であるのに、何故妓楼屋にいたのだろう?

 利雪が考えを巡らすうちに、女性から返答があった。


「これまでも、一方的に礼をされるようなことをした覚えはありません」


 彼女は首を傾げると、朗らかに微笑んで見せた。利雪の脳裏で、遊女の胡蝶と目の前の女性の笑顔が重なる。相好は似て非なるものであるのに、何かが似ていた。


「では別のお願いです。我が主君が直接会って、御礼を申したいとのこと。お会いして頂けないでしょうか?」

「それもお断りいたしましょう。私のような、下賤の者がお会いしてはならぬ、高貴な御方とお見受けいたします」

「下賤など、そのようなことは……」

「利雪様とて、本来は斯様な場所に居るべき御方では御座いません」


 利雪はこのとき、自分が思いの外動揺していることに、動揺していた。もはや何に動揺しているのか、彼にも分からない。

 利雪は動揺を誤魔化すためにひとつ小さな咳をすると、姿勢を正し、女性に向き直った。


「あなたの意志は分かりました。確かに我が主君の命に関しては、私の問題です。礼を受け取りたくない方に、無理に与えるわけにはいきませんし、会いたくないと申される方に、無理強いすることも出来ません」


 次は何を言い出すことやらと思ったのか、別に何も考えていないのか。女性は左手でしきりに右肩を揉んでいた。写本で疲れているのだろう。


「ここからは、個人的なお願いをしても宜しいですか?」

「写本のご依頼ですか?それでしたら、下で玉翠にお願いします」

「いいえ、違います。この書についてご意見を窺いたいのです」


 袋から書を取り出したときの瞳の輝きを、利雪が見逃すはずはない。

 背表紙だけで、例の、翻訳者によって内容が違う物語の原書であることを見極めたのだ。表紙の題名は東国の語で書かれているから、分かる者などほとんどいないはずである。


「少々拝見しても?」

「えぇ。あなたに是非見ていただきたくてお持ちしたのです」


 女性は嬉々として、受け取った書の頁を繰っていく。次第に集中し、このままではこの部屋から利雪の存在が消えてしまいそうだった。


「どうでしょう?」


 利雪が恐る恐る声を掛けると、女性はようやく顔を上げた。


「お伝えした方がよろしいですか?」


 女性は何故か答えを渋った。利雪はしかしその理由など考えられない。


「是非お願いします」


 利雪が興奮のあまり、若干前のめりの姿勢となったせいで、女性の方が体を引いている。


「首が飛んだりしないでしょうか?」


 思いもよらない言葉に、利雪は一瞬言葉に詰まったが、すぐにそれはあり得ないことだと否定した。


「そのようなことは起こりません。是非読んだ感想を教えてください」

「では、失礼ながら。いずれの訳書も出鱈目です」

「……でたらめ?」

「えぇ。訳書はあれでなかなか面白いので、別に構いませんが……まるっきり出鱈目ですね……」


 ふふっと笑って、それから何が可笑しいのか、女性は何度か区切りながら少しの声を出して笑った。


「原書の方が、面白いですか?」

「いえ……。何故斯様に訳したのかを考えると、あまりに……」


 必死に抑えているが、笑いが止まらないという風である。それが共有出来なくて、利雪は残念だった。


「異国語も読めるのですね」

「宮中の文官様には、とても敵いません」


 彼女の顔からそれまでの愉快さが消えていく。

 それが利雪にはとても勿体なく感じられた。


「私はそれを読めませんし、その訳者たちは二人とも宮中勤めの医官でしたよ」


 彼女は無言を貫いたが、利雪は諦めるつもりがない。


「この書を訳してくださいませんか?個人的な依頼です」

「お断りします」


 あまりに即答だったから、利雪も落ち込んでしまうが、諦めきれない。


「どうしてです?」

「私は写本を商いとしております。訳書ならば、専門のお方へ」

「専門の方々が不安だから、あなたに頼みたいのです」

「宮中にはいくらでも優秀なお人がいらっしゃるでしょう」

「いないから、お願いしているのですよ」


 女性は眼を丸くした。いないと言い切るとは思わなかったのだろう。


「そういえば。その前に大事なことをお聞きしていませんでした」


 何でしょうか?と首を傾げる彼女に、利雪は真っ直ぐな瞳を向ける。


「お名前をお聞きしておりませんでした」


 しかし彼女は答えを渋った。


「明かさねばならないことでしょうか?」

「吹聴することは致しません」

「写本師は、ここには居ないことになっております。ただの下女の名とでもお思いください」


 利雪は神妙に頷いた。利雪にとって、忠義よりも大事とする写本屋だ。皇帝に聞かれても、答える気はないし、宗葉を説得するつもりでいる。


「では、改めまして。カゲツと申します。華に月で、華月です。」


 描く文字に相応しく、美しい名前ですね。華月ですか。華月。写本師殿は華月殿と仰るのですね。華月とはまた、とても素晴らしき名で――。

 何度か反芻し、利雪は心の中でその名を味わった。


「華月殿。私個人からの言葉として聞いてください。訳書の作成をお願い出来ないでしょうか?お礼として、他にも珍しい書をご用意することをお約束します。いかがでしょう?」


 金銭的な礼よりも喜ばれるはずだ。利雪はそう信じていた。


 華月から静かな溜息が漏れる。


「宮中のために働くわけでは、決して御座いませんよ?」

「訳して頂けるのですか!」

「私も原書を読みたかったので」


 自身の手を合わせて歓喜する利雪の様子に、華月は首を傾げた。目の前の文官は何をしに来たのだろうか、と少々呆れていたことなど、利雪は知るはずもない。


 二人の後ろから宗葉が現れたとき、利雪はどれだけ恨めしい眼で見ていたのだろう。宗葉が怯み、後ろに半歩下がったのだから。


「華月、新しいお茶が入りましたよ」


 下から再び声が掛かったので、三人は階下に移動することにした。

 利雪は最後に立ち上がると、薄紫の背表紙の分厚い書を、そっと文机に置いていく。にんまりと笑って。



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