4.手に入れた居場所
中嗣は提灯を持たずに、月明りを頼りに足を速めた。目的地はすぐ側だ。気持ちは急いて、なお足は速まる。
写本屋の二階の窓から漏れる灯りを確認したときには、破顔していた。
声も掛けずに戸を開けて中に入ると、中嗣は誰に聞くこともなく内鍵を掛ける。
そこへ玉翠が現れて声を掛けるのはいつものことだ。
「お疲れ様です」
「あぁ。華月は?」
玉翠に言いながらも、中嗣の視線は奥の階段へと向かった。
慌ただしく履き物を脱いで上がり框を越えるも、人が下りてくる気配はない。
「すべて終えて部屋で休んでいます。中嗣様も先にお食事と湯浴みを済まされてはいかがでしょう?」
「華月は?」
なお同じ言葉を問う中嗣に、玉翠は苦笑を浮かべた。
何かあって、玉翠がこのように落ち着いていられるはずはない。
「体には問題ありませんが、今日は早くから動いておりましたので休ませました。朝から利雪様と楊明殿がいらっしゃいましてね」
「あぁ、利雪から聞いたよ。すまなかったね」
「いえいえ。しかし少々早い時刻の訪問でしたので、もう少しだけでもご配慮いただけますと有難いものです」
「言っておくよ。いや、すでに何度も言ってあるのだけれどね」
「中嗣様もご苦労されておりますねぇ。華月も大変そうですよ」
「華月の不満はよく聞いておくよ」
華月に会うのを後回しにするのは本意ではないが、中嗣は玉翠の言った通りに食事と湯浴みを先に済ませることにした。
食事中も顔を出さないなら、そういうことだ。
中嗣は作った玉翠には大変失礼ではあるが、味わいもせずに食事を掻きこみ、それから烏の行水で湯浴みを終えて、二階に上がっていく。
その手には玉翠から預かった盆が抱えられていた。
二階の南側の部屋の端に華月を見付け、やはり中嗣は気の緩み切った笑顔を見せる。
行灯の側に、座布団を並べ、その上で華月は転がっていた。書を読んでいる。
「華月、今日はどうだった?」
「いつも通りだよ」
不機嫌な声でさえ愛しくて、中嗣は華月の側に腰を落とすと、床に盆を置いた。
「新しい書か?」
「うん、今日買ったばかり。だから邪魔をしないでね」
「そうか。ではここに座っていよう」
「もう寝たら?」
「ここにいたいのだよ」
「そこにいたって、私は書を読むんだからね」
「あぁ、大人しくしておくよ」
無言のときは長く続かない。
華月は書に顔を向けたまま、口を尖らせた。
「私を使わないで」
「使った覚えはないよ?」
「せっかく中嗣を見送って、もうひと眠りしようと思ったのに。邪魔されたんだからね」
「それは申し訳なかった。今宵は早く寝た方がいいね。さぁ、華月。薬を飲もう」
「まだ早いよ。もう少し書を読みたいの」
華月はすぐに書を持ち替えて、寝返りを打って中嗣に背中を向けた。
おかげで中嗣は華月の頭に触り放題である。
「寒くないか?」
「平気」
「では読みにくくないか?膝を貸してあげるよ」
「おかしなことを言わないで」
「妓楼屋ではよくそうしていると聞いたよ」
「また羅生なの?」
「いや、宗葉から聞いたね」
「もう!二人とも余計なことばかり言うんだから」
「君の話は余計ではないよ。まぁ、彼らから聞きたいものではないがね。これからは私の膝も貸してあげよう」
「姐さんらの柔らかい膝がちょうどいいの」
「私の膝もちょうどいいかもしれないよ。まずは試してみてはどうだ?」
華月は傍らに書を置くと、腕で床を押して勢い起き上がった。
「書を読んでいるんだから、変なことばかり言わないで!」
中嗣はようやく顔を見て貰えたと喜んでいて、どうしようもない。
「んもう。毎日、毎日、来なくていいのに」
「私がいると酒を飲まずにいられるだろう?」
「いなくても飲まないよ」
「そうだといいけれど。それより、もうすぐ祭りだね?」
華月はなお、「何がそれよりなのよ」とぶつぶつ言っていたが、中嗣は聞いていない。
「今回は疲れぬように、日を分けて少しずつ見て回るとしようね。酒は辞めて、美味しいものをたっぷりと食べるとして。羅生が動き回るときを見越した強めの薬を試したいと言っていたから、それも飲んでみようか。初日は薬の効きを確認しなければならないし、無理をせぬよう近場から……」
一人盛り上がる中嗣に、華月は白い目を向けていたが、やがてふぅっと息を吐いてから、盆に乗る湯呑みに手を伸ばした。
「偉いねぇ、華月」
「すぐに寝ないからね?」
「分かっているよ。君が眠るまで、お喋りを楽しもう」
「私は書を読みたいんだけど」
苦い薬を一度に飲み干して、華月は眉を顰める。
「もう少し美味しくなればいいのに」
「あぁ。私もそうしてくれと頼んでいる」
「これがお酒なら最高なのにね。薬湯でなく薬酒なんて出来ないのかな?」
「それは駄目だ。酒が薬だと君は飲み過ぎる。今しばらく我慢しよう、ね?」
「分かっているってば。夜は飲まないよ」
中嗣は優しく苦笑するのだった。
かつて会いに来ることに迷っていたことが嘘のように、今の中嗣は日を空けずにこの写本屋に通っている。
たまに仕事で来られない日はあるものの、もはや写本屋に住んでいるも同然。続く外泊に、宮中では妙な噂も広がっていた。
羅生はこの噂を積極的に収集し、わざわざ宮中の中嗣の部屋で披露している。それも面白おかしくなるように脚色を加えることも忘れない。
さすがの中嗣も何度か本気に近い様子で叱ったが、羅生には牛に経文。その口が閉ざされるのは、ほんの僅かな時だけで、おかげで中嗣は高い集中力をより鍛えられることになった。
その点、羅生から一番の迷惑を被っているのは、宗葉であろう。彼の集中力は鍛えようがないらしい。それで中嗣から叱られては、宗葉は羅生を恨むのだった。
「ねぇ、中嗣。本当に毎日来なくてもいいんだよ?私は元気だからね?」
「私が宮中に留まっていられないのだよ。もうここに来る方が自然だからね」
「勝手に自然なことにしないで。無理をされても嬉しくないんだからね」
「分かっているよ。無理はしていない」
「嘘ばっかり」
中嗣が通っているのは、華月が心配だからという理由だけではなくなっていた。
今の中嗣にとって、ここが帰る場所なのだ。
それは中嗣がついに、二階の一室を自分のものとしたことに端を発する。
以前の中嗣は一階の客間を使っていたが、何度も階段を上下する姿を見兼ねた華月が、二階を使ってもいいと言ってしまった。華月は特に深い意味を込めずに言ったが、中嗣の意識はこれよりはっきりと変化する。心の奥底にくすぶっていた迷いが消えたのだ。
それから中嗣は巣作りでもするように、二階の北側の一室を自分好みに整えていく。
着替えに、書に、書道具、この国では珍しい置時計を運び入れ、そのうちに家具まで増えた。壁に沿って並べた棚と文机、その前に座椅子、それに行灯。
宮中の居室よりもずっと人間らしい部屋が出来上がったのは、中嗣の心情の反映だろう。
なお、これらの家具はこの写本屋の一階の物置部屋から中嗣が自ら見つけ出して運んだものである。
座椅子はいくつかあったので、華月の分も二階へと運んだが、慣れないことをすると手元が狂うとかで、華月は早々に使わなくなってしまった。一方中嗣は座椅子をことのほか気に入り、宮中でも使おうかと考えていたが、すぐに用意させない辺りは、変わった男と言えよう。
華月は意外にも、楽しそうに部屋を整える男を静観していた。これまで宮中にしか居場所を持たなかった男に、同情していたのかもしれない。
「ところで今日は利雪によく世話をしてくれたようだね。礼を言うよ。利雪は表が面白くてならないようだ」
「礼は要らないけど、次からは中嗣が教えたらいいと思う」
「君が教えた方が良く考えるだろう」
「私を使わないでと言ったよ。まだ仕事を手伝う返事もしていないんだからね」
「君を使うつもりなどないよ。それに本当は利雪にも会わせたくはないからね」
中嗣は大真面目な顔で言ったのに、華月は目を擦り、真面目には捉えていなかった。
まだこれでいいと微笑すると、中嗣はそっと立ち上がり、部屋に布団を敷き始める。
「まだ寝ないよ」
「構わないよ。先に敷いておくだけだ」
少し話すうち、華月がなお目を擦るようになった。
さらに話していると、華月が自分から布団に潜る。
少し前は、会話の途中でぱたっと倒れるように寝てしまうこともあったが、華月も薬が効いていく感覚を覚えたようだ。
「中嗣も早く寝てね」
「あぁ。おやすみ、華月。いい夢を」
頬をひと撫でしたときには、華月は眠りに落ちていた。
しばし華月の寝顔を眺めたのち、中嗣は静かに立ち上がる。
行灯の明かりを消し、部屋を一つ越えて、北側の間に移動すると、襖を閉じた。
さすがの中嗣も毎夜同じ部屋で寝る気にはなれない。
◇◇◇
中嗣はお気に入りの座椅子に腰掛け、持ち込んだ荷物を解いて、書類を取り出した。
それから静かに夜が更けていったが、途中でうんうんと唸る声がして、中嗣は時刻を確認してから立ち上がる。
「華月、入るよ」
小さな声で問うても答えがないことを確認してから、襖を開けて近付いていく。
眠る華月の額に滲む汗を、中嗣は綺麗な布巾でふき取っていった。
「もう少し長く出来るといいが」
効果が長く続く痛み止め薬の生成は、羅生にも難しい。
基本的にこの世にある痛み止め薬の効果は、長くても二刻。
重度の怪我など、特別な場合に限り、効果が消える前に何度も追加投与することはあるが、それは一時的な対応だから許されることであり、同じことを続けていれば、間違いなく体の毒となる。
華月に薬を使うべきか、否か。これは羅生も迷いを感じているところだった。
薬の効果でしばし痛みから解放されるも、それでかえって痛みが戻ったときに、華月が苦しむようになったからだ。
昼間ならばよく隠すが、眠る華月にこれは無理だ。
魘されるほどの痛みがあると知った中嗣が、華月の側を離れられるはずがない。
本当は昼間の仕事中も傍らに置いておきたいくらいだ。それどころか、身の上を捨てて、華月と共にありたいと願っている。華月がそれで喜ぶ娘なら、中嗣はすでに官ではなかっただろう。
中嗣が華月の額を撫でていると、不意に華月が静まるときがやって来る。
普段からある痛みに慣れているせいなのか、それは分からないが。中嗣は華月の役に立てているような気になれて嬉しかった。
額を撫で、頬を撫で、名残惜しい気持ちで、また部屋を移動する。
今度こそ、朝までよく眠れますように。祈りながら座椅子に戻り、中嗣はまた書類を眺めた。