1.厄介者が二人に増えました
今朝は空気が冷たく、からからに乾燥していた。布団が恋しい季節である。
早朝から騒がしかった男も、小鳥が鳴き始めた仄暗いときに出て行ったので、私は畳まずにおいた布団に戻り、ひとときの幸せを味わう予定だった。
それがどうしてこうなるのだろう?
玉翠が焦って声を掛けて来たとき、私は完全に布団の中にあって、意識は半分夢の中に置いていた。
あと少しで寝入る、あの気持ちのいい時間を邪魔されれば、誰だって不機嫌にもなるだろう。
「おはようございます」
この美しさを極めた笑顔も、朝っぱらから見るものではない。
こう眠いときに会えば、その美しき輝きも鬱陶しいだけだ。
隣には、この世で綺麗と称されたことはないだろう男がいて、利雪の美しさを引き立てていたが、これも今の私にはやはり鬱陶しさを増すだけだった。
美しいものを美しいものとして鑑賞するためには、人は満たされて余裕がある状態でなければならない。
今の私にはそれがなく。
とにかく寝たい。眠い。
「少々早過ぎるように思いますが、睡眠時間を削るほどに忙しき文官様にはちょうど良き時間というものなのでしょうか。庶民の私にはさっぱりと分かりませんが、今朝はどうされましたか?」
あえて恭しく言ったところで、利雪にその嫌味は伝わらなかった。
「中嗣様が、華月にならば書類をお見せしても良いと仰いまして。どうか私にこの書類の読み方を教えて頂けないでしょうか?」
先ほどまで、ふやけた顔で笑っていた男が、憎らしくなる。せめて一言でいいから伝えておいてくれないか。
「そうですか。それは大変なご用事ですが、私が教えることではないように思いますね。ところでそこの米問屋の若旦那様は、朝から写本師に何の御用がありまして?」
岳には嫌味が伝わっていようが、私の意など無視して勝手に語ってくれる。
「聞いてくれよ。うちのやつが三日前から俺と話そうとしないんだ。それで聞けば、お前のところで鍛え直して貰って来いって。そうしたら話してやってもいいって言うんだぜ?」
それはもう口を聞いているのではないか。
米問屋の若旦那らしくない言葉を聞きながら、岳の奥さんの顔を思い浮かべた。
岳を丸ごと受け入れたことを考えれば、なかなかに肝の据わったお方であろうが、見た目のようにか弱き可憐な女性ではなさそうだ。
あれから何度か米屋で話し、気さくないい方であることは知ったところだが、夫婦喧嘩のたびに私を巻き込もうとすることだけは勘弁願いたい。
「へぇ、岳を鍛え直せと。それなら、こんなに早い時間にはもう来ないでと言っておくよ。利雪も話は聞いたから、今日はもういいかな?まだひと眠りしたいから、返答はまた後日ということで」
これまで利雪を甘やかし過ぎたことを反省しよう。
このまま甘やかしていたら、先ほどまでここに居た男のようになりそうだ。
岳などは、元よりどうでもいいから、放っておく。
「そう言わずに書類を見ながらお話を!」
「そうだぜ、頼むよ、白!」
この通り、岳は官の前でも昔の名で私を呼ぶようになった。
まぁ、私も人のことは言えず、今の名である楊明ではなく、岳と呼んでいるのだけれど。
少し前に、先生のところで中嗣たちと会わせてしまったことで、私の周囲には昔の話をしても問題ないと認識されたようだ。
利雪はあの日いなかったはずだが、自分の店に通ってくる利雪と勝手に親交を深め、今やこの通り。
利雪も分からない男で、昔は名前が違ったのだと言えば簡単に納得してくれて、その意味を深く求めてこなかった。あえての気遣いなのか、純粋に意味を分かっていないのか、こちらから聞くことでもないので真偽は不明なままだ。
「うちは写本屋であって、相談処ではないの。利雪は中嗣に、岳は奥さんと話してきたらいい」
私は一介の写本師だ。
宮中の文官様に助言出来る立場にはないし、ましてや、米問屋の若夫婦の喧嘩を毎度仲裁する義務はない。
「店の客ではなく、友として相談に参ったのですよ」
「そうだ、俺たちは古い仲だろう?」
だからどうしたと言う?
早朝に睡眠時間を削ってまで友の相談に乗る義理はないのではないか?
そもそもどうして二人揃ってやって来た?
「偶然、店の前で利雪様にお会いしたんだよ!」
「えぇ。私もまさか楊明殿とお会いするとは思いませんでした」
「どうにも寝ていられなくて、朝まで待って、飛んで来たんですけどね」
「まぁ、楊明殿も!私もよく眠れず、朝になるのを待ち詫びて来たところなのです」
二人がすっかり仲良くなっているのは、別に構わない。
歳も近いから、話しやすいところもあろう。
けれども、早朝に人の家を訪問し、そのうえ未婚の女の部屋に上がり込むのは如何なものか?
私が女らしさの欠片もないから平気だって?
いやいや、いくら私が女らしさと掛け離れた女であるとしても、女であることには違いないのだから。常識的な問題だと言っている。
しかしこの二人には、私がいくら不満な態度を示しても、常識を諭しても、一向に伝わらないのであった。
よし、策を変えよう。
「二人もすでに友の間柄になったのでしょう?私は寝るから、二人で相談し合うといいよ。あぁ、場所はどこか別のところでお願いね」
「それは駄目だ。うちのやつは、白に鍛えて貰えと言っているんだからな」
「私もよく書を読んでいる華月だからこそ相談したいのです。それにもうあまり時間がありません」
「俺も早く仲直りしたいんだ」
それはそちらの都合。
そこに私の都合を少しだけでも考えてくれないか。
「利雪の時間がないって何?今日の仕事のこと?」
「いえ、まもなく稲刈りが始まるとお聞きしましたので、それまでに書類くらいは読めるようにしておきたいのです」
稲刈りと聞くと、秋の祭りを思い出す。祭りの日から、実りの早い田の新米が街に出回るようになるからだ。
祭りでは、何を買おうか。今度こそ、珍しい書が手に入るといい。
秋の祭りは美味しいものが出店に沢山並ぶから、上等な酒とともに楽しみたいところだ。
夏の苦しみが終わったあとの、この解放感の中で。
美味しい食べ物、美味い酒、そして新しい書。
気になるのはあの人のことだけ。
逃げてもいいかな。うん、それがいいな。そろそろ逃げても許される気がする。
「稲刈りといえば、私も今年は米の値段が跳ね上がりやしないかと、ひやひやしているところでしてね。利雪様は今年の出来に関して、何か聞いておられますか?」
「何も聞いてはおりませんが。今年は値が上がりそうなのですか?」
「えぇ、少々暑過ぎたので、収穫量が少ないのではないかと言われておりまして。ただ実際にそう宣言した領主はまだなく、実態がつかめていないのです。領主たちもぎりぎりまで他の状況を見極めたいのでしょうがね。米問屋に身を置く者としては、資金繰りもありますから、早いところ実情を教えて頂きたいところですよ」
二人の会話をぼんやりと聞いていて、気付く。
米の税に関する書類を持って、米問屋と共に現れる文官様など、許されるものなのか?
米問屋の若旦那もまた、気を遣って退席するいう考えに至らぬのは、何故だろう?
それ以前に写本屋に揃って現れるのはどうなのだ?ここが米取引の怪しい密会所だと思われたらどうする?
この通り、配慮が足りないから、いつまでも私の訴えは通じない。
説得出来ないのであれば、もう仕方がない。
「ねぇ、二人とも。話すにしても、まずは朝餉を貰ってもいいかな?まだ今朝は何も食べていないんだよ」
玉翠に頼む気だったが、利雪が張り切って「私が米を炊きましょう!」と言い出した。
いや、今から炊くの?もう誰かのために玉翠が炊いた米があるのだけれど?
私が言わずに呆れていたら、岳まで「それなら私も手伝いましょう!」と張り切り出して。
よし、放っておこう。
おかげで私はしばし眠ることに成功した。
二人が部屋を出ると、着替えもせずに布団に戻り、目を閉じる。
近頃眠いのは、誰かが薬を与えるせいだ。
初めの頃は飲まないように抵抗していたけれど、一度折れて飲んでしまえば、その楽さに縋る甘えが出る。
楽に生きていいのだろうか。
今もそうは思えないが、生きているなら何かしようという考えは始めていた。
中嗣と毎日のように話すようになったからだ。
私たちは生かされたと考えることも出来る。そのうえで何が出来るか考えたらいい。
中嗣はそう言って、私にもっとよく考えるよう促す。ただ苦しんで生きていても無駄であることは、何度も知らしめられた。そしていつも共に考えようとしてくれる。中嗣の意見はどれも一方的に押し付けるものではなかった。
それも中嗣が一人で苦しんできたからこそ出来ることなのだと、今は分かる。
私はこの人に、どうして当たることが出来たのだろう。
それなのに今も、時々当たりそうになって、謝ることになる。
私はどうも成長しない。学ばない女だ。
しばらくすると、米を炊く香りが二階まで漂ってきて、目が覚めた。
米の香りを嗅いでから、お腹が空いていることに気付くのは何故だろう。途端、目が冴えてくる。
米を食べてしまったら、あの二人の要望に答えなければならないのだろうなぁ。
朝っぱらから人の家に来て、勝手に食事を用意し、相談に乗れって?
あまりに横暴な振舞いではないか。
これに関しては、今宵少しの嫌味を伝えるくらいは許されるだろう。
岳については関係ないが。岳はまぁいい。あとでどうにでもなる。
そんなことを考えながら、体を起こし、布団を片付けた。