0.序章~消された記憶
その部屋にはいつも沈香の幽玄な香りが漂い、
女性たちは続く穏やかな息遣いを見守っていた。
「よぅ眠っておられますねぇ」
「本当に可愛らしいわ」
「この白い肌はお母上様譲りでしょうね」
「お鼻はお父上様に似ているわよ」
「お口はお母上様から頂いたのでしょう」
白い絹布に包まれた赤子は、職人が丁寧に編んだ籠のなかですやすやと眠り、
周りを囲む女性たちに混じる、唯一の男の子の目もまた、赤子の顔に釘付けとなっていた。
「母上、手は綺麗に洗って参りました。今日こそは触ってはいけませんか?」
「まぁ、辞めておきなさい。起こしては可哀想でしょう?」
「少し頬を撫でるだけです」
「よろしいですよ。でもどうか、優しく触ってくださいませね」
赤子の母親から許可を得ると、男の子は自身の母親が頷くのを確認してから、籠の中へと手を伸ばした。
おそるおそる前へと進む手は、指先が熱を感じた瞬間、すぐに引き戻される。
「母上、目が開きました」
「あらあら。起こしてしまったわね。まぁ、笑ったわ」
「なんて可愛いらしい」
赤子の艶々と輝く瞳に、男の子の顔が映り込むと、
まだ目がよく見えていないことを知らない男の子は、これに歓喜した。
「母上、僕を見て、笑っていますよ!」
「ふふ。きっとあなたのことが大好きなのよ」
「本当ですか?」
「えぇ。ほら、見て。まだあなたを見て笑っているわ」
男の子は再び手を伸ばした。今度は恐れずに、その手は赤子の頬に吸い付いた。
「わぁ。柔らかいですね。それに絹のように滑らかです」
男の子が赤子の頬を撫でていると、赤子が手を上に伸ばしたので、男の子はその小さな手にも触れようとした。
ところが逆に差し出した指先を掴まれてしまう。
意外に強い力に驚き離れようとしたが、赤子は握った男の子の指を離さない。
「気に入られたみたいね」
「それは嬉しいですが、どうしたらいいですか?」
「痛くはないでしょう?飽きるまで待ってあげなさい」
指を握られた状態で、赤子を見詰めていたら、また笑った。
「母上、どうしましょう。可愛いです」
「可愛いと、何か困ることがあるの?」
「こんなに可愛いと、誰が奪いに来るかも分かりません。僕はとても強くならなくては」
「強くなることは立派よ。でもね、あなたが一人で強くなることはないの。皆も一緒に守っていくわ」
「いいえ!僕は一人でこの子を守れるようになります。誰にもこの子を預けたくありません」
「あらあら」
「そうです。今日は連れ帰って、使っていない奥の部屋に閉じ込めてしまいましょう。そうして僕がこの子を育てます!そうすれば、僕しかこの子を知りません!」
「あらまぁ。またお父上様方から叱られるわね」
周囲にいる大人たちは、男の子の宣言を微笑ましく見守っていたが、皆それぞれに感じた一抹の不安を心の内に隠していた。
それも二人が大きくなれば、懐かしい笑い話の種となる。
ところがそうはならなかった。
幸福に満たされていた人々の記憶は、空から落ちたひとひらの雪ほどに儚く、あの日にすべてがなくなった――