5.三度目の正直
医者でない者の助言の成果は、すぐに確認出来た。
不治の病と称されていた正妃が、見る間に回復し、八日後には体を起こし、自ら食事をするようになったのだ。あとは長く寝ていた間に失った体力を取り戻せば問題ないという話である。
皇帝は喜びと感謝を伝え、なお二人に新たな命を与えることにした。
「その者に会わせて貰えるかな?」
「申し訳ありません。ご説明した通り、そうせぬようにとの約束を交わしておりまして。それが此度協力を得る条件でもありましたから、それを反故にするわけにはまいりません」
「ただ連れて来るだけで構わないのだよ?」
皇帝の穏やかな笑みから、無礼にも底意地の悪さを感じつつ、利雪は尋ねることにした。
「その者を連れて来たとして、その後はどうなさるおつもりですか?」
「分からないとは言わないね?」
そうではない。利雪はあえて聞いたのだ。
「素直に宮中で働く者ではないとお見受けします」
「その者に会えたのか?」
「いいえ。そうではありませんが、そのように想像します」
「想像ねぇ。ならば、知恵を使い、さらに善きように想像したらどうかな?」
利雪と宗葉は視線を合わせ、共に心の中でため息を漏らした。
しかし二人には、首の掛かった怯えはない。いつものお遊びだと捉えている。
「お約束は出来ませんが、出来る限りのことはしてみましょう。そのうえで、いくつかお願いが御座いますが、認めていただけるでしょうか?」
普段落ち着いた利雪の頭の中が浮ついていたことには、幼馴染である宗葉もさることながら、皇帝も気付いていないようだった。
利雪が今や皇帝の命を軽んじていることなど……この場では分かるはずもない。
◇◇◇
少し前まで利雪は己の人生において、妓楼屋『逢天楼』に三度も足を運ぶことになろうとは考えたこともなかった。それどころか、生涯足を運ぶ場所にないところが花街だったのである。
幼い頃より瑠璃川の東岸に渡ってはいけないと言われてきた利雪は、花街に興味を持ったこともなかった。いくら宗葉などが戯言で惑わそうとしても利雪の信念は一度として揺らがなかったのである。
それなのに、今宵の利雪は自ら行くと宣言し、宗葉を連れて逢天楼にやって来た。
何度でも言うが、これほど若き二人の文官が、一等の遊女である胡蝶と何度も相まみえることが出来ているのも、奇跡的なことである。
花街は官の権威が通じない場所としても有名だった。時に家の名や官位をちらつかせて無理を言う客はあったが、そんな者らに屈しないのが、浮世離れしたこの花街の常識だ。法の支配を受けながら、表社会の常識の通用しない場所が、花街なのだ。彼らが強いのは金銭的、物理的な理由もあるが、実は権力に支えられている部分も大きい。権威を振り翳すような恥ずかしいことをしてひっそりと消されるのはその者自身、というのはよくある話だった。
ましてや三大妓楼屋など、どんな為政者が通い詰めているかも分からない恐ろしい場所である。
ということまでは、利雪らも知らなかった。まだ若いということだ。
相も変わらず、目の前の胡蝶は贅沢な衣装に身を包み、艶やかに微笑んでいるが、珍しい美しさも三度目ともなれば慣れるものがある。
「本日は結果のご報告と、お礼を届けに参りました」
「結果だけ、頂戴いたしますわ」
「そのように返されると思っておりました」
友人でもある同僚の楽しそうな横顔を見て、宗葉は苦笑を浮かべた。
主上さまの命を忘れたのかと、疑いたくなってくる。宗葉はもう少し、皇帝の命に重きを置いていた。宗の家がそのように彼を育てたからだ。皇帝を筆頭に、皇家には絶対服従、身命を賭して仕えるもの。名立たる家の者たちは、臣下らしい考えを知らず身に着けて、当然のように官になる。いくら皇帝と打ち解けているように気安く接していても、宗葉の心の奥にあるものは変わっていなかった。
利雪が役に立たぬなら仕方がない。
宗葉は口を開くことにする。
「此度の件を私たちに依頼したさる御方が、直接お会いしてお礼を伝えたいと願われておいでです。胡蝶殿には、医者でないお方とやらにお会い出来るよう、取り計らっていただきたい」
「お受け出来ませんわね」
「たとえばそれが、とても権威ある御方からの願いであられても?」
宗葉は自信を持っていた。街では最も効力のある手段だと、経験から知っている。だから……
「お断り申し上げますわ」
「……それがどのような意味か分かっておいでですかな?」
宗葉は驚いたせいで、うっかりといつもより低い声を出していた。
そして自分のその声に慌てるのである。
圧力を掛けたことに等しいが、これは彼の本意ではなかった。これまで彼が宮中の権威を振りかざして、民たちに傲慢な態度を示すことはなかったし、この手段は悪人相手に取っていたものである。しかし慌てて口をついて出るのだから、本意であるとも言えるのかもしれない。
隣で利雪が珍しく眉間に皺を寄せていたことにも気付かず、宗葉は必至に言い訳を考えていた。
その言い訳を待たず、胡蝶は言った。
「花街で生きる者を甘く見ないことよ」
宗葉は息をのむ。
目の前の遊女が悠然と微笑む様は、絶頂を運ぶ天女のようで、地獄に誘う魔女にも見えた。
そんな胡蝶の優麗さを讃えることもなく、改めて利雪が口を開く。
「宗葉。我らはお願いする立場にあります。今日のところは、このまま下がりましょう。胡蝶殿、お約束した通り、結果をお伝えくださいませ。おかげさまで救いたい御方は、すっかりと元気になられて御座います」
何か言いたげな宗葉を手で制し、利雪は胡蝶の目をじっと見詰めた。美しい見目の若者だ、とここで最も美しい胡蝶が考えていたかもしれない。
「胡蝶殿。勝手ながらお尋ねいたしますが、お答え出来ねば、それでも構いません」
どうぞ、と伝えるように胡蝶が首を僅かに傾けたので、利雪は続ける。
「我らがそのお方の元へ馳せ参じ、直接お礼の品をお渡ししようとすること。これは、胡蝶殿を含め、こちらにご迷惑をお掛けすることになりましょうか?」
胡蝶の顔に、僅かではあったが、驚きの色が現れた。
それは間もなく、いつもの優美な微笑みへと変わる。
「それは私たちとは関係のない話ですわね」
さて、あの方は聞いているのかしら?と憂いながら、胡蝶は若き文官に見守るような温かい視線を向けた。
利雪は深々と礼をして、それから宗葉と共に、しばらくの間、おそらく最後だろうと思われる美味い酒を楽しんだ。
聞こうか悩んでいたことを胡蝶に尋ねたのは、部屋を辞す直前のこと。
「もうひとつだけ、お聞きしても?」
何かしら?と再び首を傾げた胡蝶に対し、利雪は零れる笑みを包み隠すことが出来ない。
「そのお方は、珍しい書をお好みですか?」
胡蝶は「どうかしら?」と答えるだけだった。しかしそこには、遊女らしからぬ柔らかい微笑みが添えられていた。
◇◇◇
中庭に面した廊下から明るい陽射しに照らされる宮中紅玉御殿の一室。
利雪は今、文机を前に、二つの紙を並べている。
一枚は胡蝶から直接受け取ったもので、もう一枚は医官から預かってきたものだ。
周りには珍しく書類の山がなく、普段より部屋の中が広々としている。
利雪に呼び出された宗葉は、現れてからずっとおとなしい。
昨夜の妓楼屋での失態もあって、この件で出しゃばるものではないと反省していたのだ。
しかし並ぶ紙には興味があって、呼び出しておいて話し出そうとしない利雪を前にしびれを切らし、ついに自分から問いかけた。宗葉は反省と我慢の続かない男でもある。
「それは、あのときの紙だな?」
「えぇ。どう見ます?」
利雪は二枚の紙を宗葉に差し出した。
わざとらしく試すような物言いをされて少々むっとするも、宗葉には利雪の言いたいことが分からない。
「筆跡が違うな。あまり上手くもない」
「そうですね。おそらくは、あの禿たちが書いたものです」
宗葉の眉が怪訝に歪んだ。
「あの齢で、こんなに難しい字が書けるのか?」
「禿とは何者か、聞いてきたのですが。遊女の見習いのようなものなのですね。そして遊女は客に文をしたためることが多いとも聞きました。贈りものなども多く、お礼と共にお誘いの文を出すものなのだとか」
誰に聞いてきたのか、と宗葉はさらに眉を歪めたが、あえて聞かずに先を待った。
「となると、禿のうちから相応の手習いを受けていることでしょう。自分で書いたからこそ、あの禿はすらすらと答えられたのでは?というわけで、そろそろいい時間です。行きましょう!」
「は?」
驚く宗葉をよそに、利雪は立ち上がり、壁に掛けていた羽織を取って袖を通した。
「待て。どこへ行く?」
利雪のこの美しい微笑みが、どれだけの女たちを惑わすのだろうか。と何か泣きたくなった宗葉だが、感動してはいられない。
「当然、医者でない者のところですよ」
「なんだと!」
興奮する宗葉の声など届いていないように、利雪は小脇に用意していた包みを抱えると、軽やかに紅玉御殿の廊下を歩き出した。
「ちょっと待ってくれ。どういうことなんだ?」
「仔細言えるかどうかは、お相手次第です」
「その相手とは誰なんだ?」
「まだわかりません。まずはお会い出来るように頑張りましょう」
核心について語る気はないと分かった宗葉は、頭を掻きながら、利雪の後ろを付いて行った。
幼馴染の慣れたはずの歩みが、踊っているように見える錯覚に首を捻りながら、それでも宗葉は後に続くしかない。