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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第三章 かわるもの
58/221

16.少しは近付いているようですよ


 曇天ということもあり、早くに入れた行灯の明かりは、二人の顔を揺らしていた。

 次第に闇は深まり、夏の短い夜が始まりを告げる。


「どう見立てたか聞くのは狡い?」

「何も狡くないね。火傷ではないかと思ったが。それにしては症状が一致しない」

「羅生に何か聞いたでしょう?」

「何故そう思う?」

「中嗣が医に詳しかったら、もっと自分を大事にするもの。医官に任せていいと思うから、そこまで学んでは来なかったのでしょう?側に医官を置いて、こんなときに聞かないとは思えない」


 バリバリと煎餅が砕ける音がした。しばしあと、華月は茶を飲んで口を潤す。


「名は伏せておいたよ」

「そんなことをしても意味がないよ」

「すまない。話す気はなくなった?」

「うぅん。でもこの先は嫌」

「羅生に薬を確認させようと思うが、それは?」


 中嗣ははじめ、いかにして華月の目を盗み薬を回収するかと考えたが、信用を失うときではないと写本屋へ向かう道すがらに考えを改めた。だから羅生についても隠す気はない。


「それはいいよ」


 調べられて困ることのない薬だと知れば、中嗣も人心地が付いた。


「薬は誰かに貰っているのか?」

「うん。ずっと診てくれている先生がいるよ」

「昔の知り合いだね?」

「そう。あの小屋の側にいる街医者なんだ」


 中嗣は頷き、それから華月の頭に手を伸ばしたが、一度目は払われた。

 払った方の華月は不服そうな顔をして、手を払われた中嗣はどうしてか嬉しそうである。


「それがどんな傷か聞かせてくれるね?」

「……火傷だとは思う」

「思うとは?」


 華月はしばし湯飲みの中に視線を落とした。


「これからは正直に語り合わないか、華月」

「分かっているよ。さっきからずっと考えていたけれど、中嗣が納得するような都合のいい言葉なんて、ひとつも思い浮かばなかった」


 食事をとって、その後は中嗣には湯浴みをして来いと言い、自分もまた水浴びで体を綺麗にしながら、華月はずっと考えていた。考えても、考えても、良案は浮かんでこない。

 思いついたことは、ひとつだけ。中嗣にこれ以上踏み込まれないようにするなら、もう逃げて、中嗣の前から姿を消すだけだ。

 それしか思い付かなかったことで、華月も覚悟した。

 その思い付いた方法が最もうまく出来そうになかったからだ。そこには様々な意味が含まれる。


「先生はただの火傷だと言っていたの」

「私は君の想うところを知りたいよ」

「世迷いごとだと思って聞いてくれるなら」

「あぁ。どんな話だろうと、君の言葉として受け取ろう」


 中嗣の笑顔に華月は反射的に顔を顰めるも、すぐに口を開いた。


「事情は言えないけれど、ある男の子が焼かれることになった。私はその子を助けたかった」


 華月らしからぬ感情の籠らない淡々とした声は続く。


「私は間に合わなかった。体を拘束されていたから。その拘束を解いて飛び出したときには、男の子は炎の中で。私はそこに赤い蛇を見た。炎と一体になったあの子の体に絡まる蛇を。そうして……」


 華月は一度大きく息を吸い込んで、続きを言った。


「気が付いたら、私はあの子を抱えていたんだ。無我夢中だったと思うけれど、そうした理由なんて今でもよく分からない。抱えたところで、火を消せるわけがないのにね。そのあとのことは覚えていない」


 内容の深刻さを感じさせない様子で、中嗣はゆったりと頷いた。

 驚きの色も、悲しみの色もない、優しさだけを含んだ微笑で、華月を見やる。


「それで普通ではない火傷痕が残っていたんだね?傷の様子は最初からおかしかった?」

「治療を始めた当初のことは記憶がないよ。寝てばかりいたから。それにあの頃は医の知識もなくて、おかしさには気付けなかった」

「気付いたのは、大分経ってからか」

「医学書を読めるようになってからだね。こういうものだと思っていたのに、何か違うなぁって」


 胸の痛みを隠し、中嗣は華月の頭を撫でる。今度は何事もなく、髪に触れられた。

 

「ごめんなさい」

「何を謝る?」

「こんなこと知らせたくなかった」

「君のことは何でも知りたい私だよ?もっと早く聞きたかったとは思えど、聞いて私は不快な気持ちにはならない」

「嘘」

「嘘ではないよ。それはね、変わってあげたいとか、どうにか治したいとは思うし、これまで知らずに君の側にいた自分を殴りたいほど憤ってもいるけれど。それくらいかな」


 華月は俯き、ぎゅっと両の拳に力を入れる。中嗣はじっとその手を眺めた。いつ掴もうかと考えながら、ゆっくりと華月の頭を撫でる。


「お願いがある。この怪我のことで、私を制限しないで欲しい」

「なるべくとしか言えないね」

「それでもお願い。それから……あまり優しくしないで」


 中嗣が目を瞠った。そしてまた優しく微笑む。笑むたびに、浮かぶ優しさは色濃くなった。


「それは難しいね」

「これが罰だと言っても?」


 中嗣は何の動揺も示さない。ただ一層優しい瞳となって微笑むばかり。しかし華月は俯いていて、これを見ない。


「君がそう思おうと、私にとってはそうではないからね」

「そんなの狡い。私の傷なのに」

「華月。私といるのはそれで嫌だったか?」


 顔を上げた華月の瞳が濡れていた。

 ふっと柔らかい息を吐き出して、中嗣はそっと近付き、両腕で包むようにして華月を抱き締める。当初考えていた手ではなく全体を抱えることになった。


「暑くなったら言って」

「嫌だと言ったら、もう離れてくれる?」


 広義だろうが、中嗣は無視した。


()()()もう無理かな」

()()いいよ」


 華月がいつもこう素直に甘えてくれたらいいのに。中嗣は抱きしめながら、決意する。

 願うのではなく、自分でそうしよう。


「罰と考えているなら、提案してもいいかな?」

「私からこれを奪わないで」

「奪わないよ。私はこれまで沢山の者たちを裁き、罰を与えてきて思うことがあってね。苦しい罰を与えることだけが正しいことなのかと考えてきた」

「それだけ悪いことをしたからでしょう?」

「ただ苦しんで誰のためになる?」

「悪いことをした相手への償いだよ」

「確かに自分を陥れた人間が苦しむ様を見て、喜ぶ者はいるね。だけど多くはそうではない。同じ苦しみを与えても、自分の苦しみは消えていかないからね。たとえば家族が殺されたとき、確実にこの罪人は斬首刑になろうが、それで遺族が楽になれるかと言えば、そうではない」

「私だって分かっているよ。死んだ人は戻らない。だけど、その罪人が楽に生きていくのは違うでしょう?」


 華月が中嗣の長衣をぎゅっと掴めば、中嗣はこれに返すように回す腕に力を込めた。


「償いならば、苦しみだけでは足りないと思わないか?たとえば罪人は労働をするだろう?」

「世の役に立てと言うの?」

「君が償いたい相手はその少年だね?」

「……もっと沢山いる」

「そうだったね。その者たちへの償いは君が一人苦しむことだけで済むと思うか?」

「闇雲に助けるのは違うと思うの」


 中嗣はここで、場違いにもくすっと笑った。


「どうして笑うの?」

「何度も同じような話をしてきたことを思い出してね」

「そうだよね。ごめんなさい」

「何故謝る?」

「こういう話はいつも、私の個人的な問題だったから。それなのに中嗣に官だからどうにかしろと当たっていたの」

「君は当たると言うけれど、私はそうは思わないよ」

「それならどう思うの?」

「頼ってくれて嬉しいとだけ。君のおかげで考えることも増えて私にはいいことばかりだ」


 小さな声で「もう」と言ったきり、華月は胸に顔を押し付け黙った。


「私は今日、珍しく沢山語ろうと決めているのだけれど。聞いてくれるね?」


 返答がなくとも、中嗣は語る。朗々と、それでいて穏やかに。


「君の満足する答えがどこにあるか、そんなものは私にも分からない。それは君も同じではないかな?けれども思い出してみると、私たちは一人で考えて分からないことも、共に考えることで解決してきたね。今回も同じように考えられないだろうか?」


 華月が答えずとも中嗣はまだ語る。


「君はそれを個人の問題だと言って一人で抱えようとするだろう。されど私は共にそれを抱えながら、共に考え、その時々の最良の答えを出していきたいと願う。その答えは時とともに変遷しようからね」

「償い方を変えていくということ?」


 華月から言葉が返ってくれば、中嗣はそれだけで嬉しくなってもっと伝えようと思う。


「人も世も変わっていくように、償い方も変わるものではないかな。君だって子どものときには出来なかったことを、今では出来るようになっている。これからも出来ることは増えていこう。その都度、最も良い償い方を考えていく方が意味のある結果に繋がると思わないか?」


 中嗣がここまで言葉を切らないことは珍しい。中嗣の言葉はまだ続いた。


「罪人には刑の重さによって労働の期間が異なろうが、私はその期間が終われば罪が消えるというものではないと思っているよ。再び世に戻ってからの生き方の方こそ、重要ではないかな。それはまた、苦しみのなかでそれぞれが見出すものだと思っている」

「苦しんでもまだ終わらないの?」

「君は苦しんだだけで心が晴れるか?」


 華月は何も言わないが、それが答えだ。


「君のそれは生涯掛けても心に残り続けるものだろう。私は早く楽にしてあげたいし、忘れさせたいと願っているよ。だけど君がそうしないことも知っている。それなら私もまた、生涯を掛けて、君の側にあり、君の苦しみを共に抱え、考え、そして共に償っていきたいのだよ」


 華月の答えは中嗣が予測した通りだった。


「中嗣には関係ないよ」

「君がそう思おうと、私は違う。君のことはすべて私に関係あるし、そうでなくても私は官としての責を感じている。そこに私の罪がある」

「だから言いたくなかったのに」

「知らずに君の側にある方が辛いよ、華月。私をそんな愚かな男にしないでくれ」


 中嗣の胸の中で華月は首を振り、それから言った。


「前から言いたかったことがあるの、中嗣。もう昔の約束を知る人はいないのだから、忘れていいんだよ?」


 それもまた、予測してきた言葉だった。

 中嗣が予想出来なかったのは、それがいつ言われるかという点だけ。意外と遅かったものだとさえ感じている。

 だから準備万端の中嗣は傷付かないし、恐れるものもない。


「約束があって、君に会っているわけではないし、約束のために、君と生涯共に生きたいとも思っていない」

「嘘」


 華月が顔を上げようとすれば、中嗣は自然腕の力を解いた。

 近い距離で見つめ合う。華月の濡れた瞳には、中嗣の顔がはっきりと映り込んでいた。


「嘘ではないよ。本心だ」

「最初からそうではなかったでしょう?」

「それも違うね。確かに幼い君を知っていて、心配はしていたよ。あんな形で君を失うことになるとは思っていなかったのだから、喪失感は何をしてもぬぐえなかったし、君の知らない大人たちのことを覚えていれば、君がどれだけ愛されて生まれてきたかも知っているからね。彼らの無念を感じ、自分だけが生き残っておきながら君の側にいられないことを日々責めていたものだよ」


 華月はただじっと中嗣を見ていた。その濡れた瞳に、中嗣は赤子の頃の華月を見る。かつても同じように、瞳の中に己が映った。しかしそれは、もっと幼い姿をした少年である。


「君が生きていると知ったときは泣くほどに嬉しかった。君に会えた日も泣かないようにと必死だったよ。もう手放すものかと思ったのも事実。それでもね、今の私の気持ちは、目の前の君を知っていくうちに育てたものだ。どちらの親のためでも、あの頃良くしてくれた大人たちのためでもないよ、華月。もちろんどの家のためでもない。私はただ自分のために、君といたいし、これからも君の側で生きようとしている」

「私といることは、中嗣のためだと言うの?」

「ここは君のためだと素敵な言葉を言いたいところだけれどね。確実に私のためだ。ただ私のために、君といたい」

「……その方がいいや」


 中嗣から笑みが零れたとき、華月も笑っていた。


「でも、私の罪はあげないからね」

「勝手に奪うと言ったら?」

「そんなことはさせないよ」

「それなら勝負だな」


 二人とも笑っていた。

 他の男女なら、ここでもっと深い仲にでもなりそうなものだが、二人は変わらず。

 笑い合ううち、話は変わり。最後には言い合いになって。それでまた笑って。


 夜が更けた頃には、華月は晴れやかな顔をしていた。

 二人が昨夜でこの年の真夏が終わりを告げていたことを知るのは、もう少しあとのこと。




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