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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第三章 かわるもの
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13.覚えた甘い水に沈む華弁


 井戸前での時間はあっという間に過ぎたと思う。

 中嗣がいつまでも冷たい水を汲んでくれるおかげで、楽になるのが早かったからだ。

 痛みが和らぐと同時に、強い罪悪感に苛まれ、また違う苦しみはやって来るけれど、これに関しては周りの目に映ることはない。


 だからもう問題はないはずで、あとは言い訳を考えるだけだったのに。


「君は言いたくないと思うが、私は聞きたいよ」


 そろそろ部屋に戻ろうかと私が言う前に、とても静かな声で中嗣が言った。


 月が明るいから、肌着越しにすべてが見えているかもしれない。

 たっぷりと濡らしたせいで、あの肌にも肌着の布が張り付いてしまっている。

 

 どんな素晴らしい言い訳が出来るだろう?

 見てしまった中嗣が納得する言い訳を考えられる自信はないけれど、いつものように沢山の言葉を重ねて誤魔化さないと。


「分かっているけど、嫌なの」


 すぐに出てきたのは、素直な気持ちだけだった。これでは嫌だ嫌だと言って泣く子どもと変わらない。


「分かった。今宵はいいよ」


 今宵と言わないで。ずっといいと言って。


 まだ酔っているのだろうか。

 目の奥が熱くなり、勝手に込み上げてくるものに耐えるために下唇を噛んだ。


「私が聞きたいと思っていることは、知っておいてくれるね?」

「知っていても言えないよ。ごめんなさい」

「謝ることはない。私こそ、すまないね。気付いてあげられなくて、一人で辛かったろう」


 泣きたくなることを言わないで。もう優しくしないで。


「客間で寝るか?」

「そっちの方がいい」

「着替えは二階?」

「うん。取って来る」

「私が取って来るよ。あとは?」

「上に布団は掛けないで」

「分かった」


 抱えて運ばれているくせに、どこまで甘える気かと自分を責めた。

 客間に戻り、中嗣は一度私を下ろすと、説明した通り着替えを取って来てくれた。迷わせたのか、沢山服を持って来てくれたけれど、客間の布団のありかには迷うこともなく、押し入れからさっと取り出しそれを敷いてくれた。客間が自分の部屋みたいだ。

 だけどどうしてもう一組布団を出すの?


「今宵は楽しく夜中まで話し、疲れてそのまま寝てしまったことにしようかと思ってね。玉翠には明日、私がいいように言っておく」


 どうして分かるのだろう?


「出来れば相談したいところだが、羅生も嫌か?」

「うん。言わないで」


 私は分かってしまった。先生に言ったことが嘘だったって。

 中嗣に言わなかったのは、こうなることが分かっていたからだ。

 私はいつも、この人の前で甘えてしまう。

 それが許せなくて、逃げていた。


「抱きしめたら暑いかな。横になろうか」


 意味もなく首を振った。何度も振った。動きたくない、何もしたくないと、我がままを伝えるみたいに。

 そうしたら、込み上げてきたものもどこかに消し飛ばせる気がしたんだ。

 でもそうはならなかった。


「辛くなったらすぐに言って」


 温かいものに包まれているのに、不思議と暑さが消えていく。

 恥ずかしいことにしゃくりあげてしまったのに、中嗣は笑わずにいつまでも背中を撫でていた。ついさっき、同じ手を払いのけたばかりなのに、どうしてまた変わらずに触れてくれるのだろう?


「今日あったことも言いたくないか?」


 狡いよ、中嗣。これ以上、優しくしないで。


 溜め込んでいた言葉が吐き出される。 

 岳の話なんか伝えたくなかったのに。

 羅賢の話なんか今さらしたくなかった。

 蒼錬の話まで蒸し返すなんて。

 そしてまた、祭りで会った男の子の話をした。


 結局この人に言葉をぶつけ、傷付けてしまうなら。

 私は側にいない方がいいと思う。

 中嗣が古い約束に縛られる必要はない。



◇◇◇



 翌朝中嗣は宣言通り、玉翠に状況を説明してくれて、三人で朝餉を取った。

 私は泣き腫らした酷い顔をしていただろうし、玉翠は中嗣の説明に何ら納得していないと思う。それに玉翠は同じ家にいたのだもの、私が騒いでいる声を聞いていたはずだ。

 それでも何も聞かないでくれた。今朝はため息もない。


 朝餉が終われば、昨夜遅くまで話し込んでしまったのだからという設定のため、今日は寝ているようにと言い渡された。確かに寝不足だけれど、それは私に遅くまで付き合っていた中嗣も同じだ。


「一度宮中に顔を出してくるが、またすぐに戻ってくるからね」

「戻らなくていいよ。仕事が大変でしょう?それに中嗣もほとんど寝ていないのだから、今日はもう仕事が終わったら宮中で休んで」

「急いで戻ってくるよ。待っていて」


 来なくていいのに。

 それが言えないどころか、手は別のことをする。無意識のうちだった。


 私が気付く前に、中嗣が嬉しそうに笑うんだ。ただ少し袖を掴んでしまっただけなのに。

 急いで手を離そうとしたら、その手が捕まった。


「宮中など行かなくてもいいような気がしてきたな」

「駄目だよ。皆さまが困ってしまう。中嗣は金庫番なのでしょう?」

「聞いてしまったの?」

「利雪から。いけなかった?」

「いや、そのうち伝えようかと思っていたよ」

「別に言わなくてもいいけどね」

「君には何でも言いたいのだけれど、これは愚痴でしかないから、終わってからと思っていたのだよ」

「何でも思い付いたときに言ってくれたらいいのに」


 君が言うの?

 目がそう語っている。


 何か大きく間違えてしまった気がするなぁ。

 手をぎゅっと固く握られた。捕まった気分。


「これは置いてはいけないね。今日は休むとしよう」

「いや、大丈夫。本当に行ってきて」


 冷静になって言ったら、拗ねた顔を見せられた。

 そんな顔をしても駄目だよ、中嗣。ここにいたって、どうせ迎えが来るんだから。

 また羅生に揶揄われるよ。


「いいから行ってきて。早く手も離して」

「その方が君らしいけれど、さっきのもまた君らしくていいね」

「何を言っているのか、まったく分からないよ」

「あぁ。行って来る。待っていて」


 何が「あぁ」なのか。

 すぐに眠気が来て、目覚めたら側で中嗣が本を読んでいたから、かなり長く寝てしまったみたいだ。

 早く夏が終わればいい。そうすれば、またいつものように付き合えるから。



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