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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第三章 かわるもの
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10.気遣いを忘れた来訪者は息巻く


 日中に気温はぐんぐんと上がり、日が沈もうとしているのに下がる気配もない。

 今年ははずれ年だ。


「まだ顔色が悪いね。私を気にせず休んでいいよ?」

「暑いだけだから」


 皆が揃うと土間に置いた卓を囲むのだけれど、中嗣だけのときは店の奥の客間に案内している。そこに案内するのは、玉翠だけれどね。

 座卓を挟み、お茶と共に煎餅を頬張りながら、もう半刻も中嗣と話していた。

 この時間の二階は西日でよくよく暖まっていて、おそろしく暑いんだ。だから一階にいるし、写本どころではない。


「中嗣こそ、こんなに早く来て、仕事は平気なの?」

「利雪には遊んだ分を働いて貰わなければならないからね」

「そんなことを言って、優しいんだから」


 痛みを誤魔化そうと、座卓に突っ伏した。この夏は厳しいな。


「本当に大丈夫か?」

「暑いだけ」

「それだと二階は厳しいね」

「うん。もう嫌になるよ。とても仕事にならない」

「早く夏が過ぎるといいが」


 頭を撫でられるだけで、痛みが和らぐのは不思議だ。頭は関係ないのにね。


「汗が酷いでしょう?汚れるよ」

「問題ないよ。扇いであげよう」


 扇を動かしてくれると、涼しくて楽になる。

 玉翠が作る夕餉の匂いがしてきた。

 せっかく作ってくれているけれど、私は今日も冷えた麦飯に山いものすりおろしを掛けるだけでいいなぁ。最近暑くて食べられない私に、玉翠はそればかり出してくれた。中嗣がいるからこそ、色々と作ってくれているのだと思うけれど、いくら並べられても今は食べられる気がしない。


「ねぇ、中嗣」

「どうした?」

「どうして白米は高級品なんだろう?麦飯も美味しいよね」

「私も常々疑問に思うよ。同じところで作り、何故そこまで白米を特別視するのか」

「利雪だってどちらも美味しいと言うのにね」

「かつての宮中の何者かが、米を異常に好んだのかもしれないよ」

「そんな理由だったら、愚かだなぁ」

「まったくだ」


 中嗣と話をしていると、痛みも和らいでいくのは何だろうね。

 体を座卓から起こす気はしないけれど。


 店の方から音がした。

 暖簾を下げていても、戸が開け放たれているから、様子を窺う客だろうか。

 嫌ではあるものの、仕方がないので体を起こす。


「私が出るよ」

「官が出たら驚かれるから。中嗣はここで待っていて」


 立ち上がって、一応身なりを整え、髪も簡単に結び直して、店に出た。

 番台越しに顔が合えば、私はどうしても固まってしまう。

 予想していないと駄目だね。


「今宵は付き合え」

「は?」

「少しでいい。付き合ってくれ」


 嘘でしょう?

 戸惑う私の腕を、岳が掴んだ。いや、待って。靴を履くから。それ以前に、番台越しに引っ張られても、そちらには行けないから。


「分かった。待って。用意するから、待って。とにかく落ち着いて」

「悪い。外で待つ」

「うん。すぐに出るから。待っていて」


 振り返れば、中嗣が顔を出している。


「少し出て来るよ。古い知り合いなんだ。大丈夫だからね!」


 捲し立てるように言ったあと、急いで靴を履き、逃げるように外に出た。

 あとでどう説明するか、考えたくもない。


「悪い」


 岳は出てすぐのところに立っていた。気遣いも出来ないほどなんだ。今日はまた酷い顔だね。


「本当にね。それで?」

「飲めるよな?」


 今日は飲みたくないけれど、付き合うしかなさそうだ。

 酒は少しにしておこう。


「いいよ。どこへ行く?」

「近くに良さそうな店はあるか?」

「それなら」


 あえて瑠璃川の東岸に渡り、安酒を出す茶屋に向かった。

 今日の岳が望む店であるはずだ。


「私のせい?」

「いいや」

 

 強く否定した岳は、酒杯を傾けたあと、空いた手のひらで顔を覆った。


「お前が来なくてもこうなった」


 何があったのか。想像したくもないが、岳はすぐにその答えを言ってしまう。


「破談になった」


 あちこち痛いが、胸まで痛くなるとはね。

 もう嫌だなぁ。聞きたくないよ。


「親に言っちまったらしいんだ。あぁ、悪気はなかったんだぜ。あの子は、そういう生まれでも素敵な人だからって伝えてくれようとしたんだ。だけどまぁ、そう上手くは行かねぇよな。あちらの親は、米問屋の息子ならば是非にと思っていたのに、そんな生まれの醜い奴のところになんか大事な娘を嫁がすわけには行かねぇって怒鳴り込んできた。分かっていたんだぜ。俺がちゃんと頭を下げて説明してから、結婚を申し込めば良かったんだ。隠すようなことをしたのは俺だ。隠す気なら、最初からあの子にも言わなきゃ良かったのによ。それを半端なことをしちまったから、あの子を泣かせちまうし、店にも迷惑を掛けちまって。女将さんまで泣かせちまって、もう俺はどうすりゃいいんだ」


 岳の言葉は止まらなかった。

 言える人が私しかいなかったのは分かる。

 偶然再会して、昔のように甘えたくなったのも分かる。

 分かるけれど、私は知りたくなかった。


「親に言うなんて、岳のことを丸ごと愛してくれる人だったんだね」


 岳から嗚咽が漏れる。泣き虫は変わらないね。

 私は何もしなかった。その役割はもう私にはないと思ったから。


 私が酒を飲んでいると、しばらくして岳の泣き声が止まった。

 手のひらで顔を拭うと、今度は私を見て聞いた。


「なぁ、俺たちはずっと、変わらねぇのか?」

「育ちは変えられないよ」

「俺は、それが嫌だ。変えたいんだ」


 岳は捲し立てる。


「俺たちはそんなに醜いのか?そんなに他の奴らと違うのか?何にも変わらねぇじゃねぇか。人なんか、みんな同じじゃねぇのかよ。俺だって立派に働いているんだぜ。まだ半人前だとしても、あの頃の俺じゃねぇ」


 岳が吐き出したどろどろとした真っ黒いものが、私の痛む場所へと吸い込まれていく気がする。

 そんなはずはないのに、私は今宵痛みで眠れないことを悟った。


「生まれがいいと偉いのか?育ちがいいと何が凄い?どうせ、ただの人じゃねぇか。いい育ちでも、俺より何にも出来ねぇ奴は沢山いるぜ?どうして育ちだけで悪いものだと決めつけるんだ?大体それは、俺のせいかよ。そんな風に生まれた俺たちが悪いのはおかしいだろう。選んだわけでもねぇのによ」


 言いたいことは分かる。かつて同じことを延々と思っていた頃があった。

 伝えたいことを言い終えたのか、突然岳は正気に戻り、情けない顔をして私に聞いた。


「お前はどうなんだ?さっき奥にいた奴には知られているのか?ちゃんと米問屋の若旦那だと言ってくれよ。今宵の説明がいるなら、俺がそれらしいことを言ってやる」


 中嗣だけでなく、玉翠も心配しているだろう。

 玉翠は私が嫌がるから、かつての知り合いが現れるときに顔を見せない。先も店から離れた台所にいたのもあるが、気遣われていたはずだ。

 だけど玉翠は顔を出さないだけで、話は聞いている。そしてこの後は口も出さず、ため息だけを漏らすのだ。


「どうなんだ?知っているのか?」


 岳がしつこく聞いた。

 知らなかったが、酒に弱そうだ。


「上辺だけ知っているよ」

「上辺か。いい育ちの奴らに、俺たちを理解出来るわけがねぇよな」


 本当の意味で、私を理解する人なんているのだろうか。

 生まれと、育ち、そして現在。どれも相容れないそれを、誰が分かってくれるだろう。

 それには岳も含まれる。岳もまた、私を知ることは出来ない。逆も然り。私はきっと誰のことも分からないんだ。


「俺はどうしたらいい?」

「楊明として生きたらいいよ」

「大将にも女将さんにも顔向け出来ねぇよ」

「何も言われていないのでしょう?自分から逃げることはないよ。楊明としての結婚がひとつ破談になっただけだ」


 それが最良。

 結婚については仕方がない。

 騒ぐほどに、私たちは忌み嫌われるものなのだから。


「結婚してぇんだよ」

「他の子とするのがいいよ」

「俺はあの子がいい」

「それなら、私からは何も言えないよ」


 岳はこの返答が不服だったようだ。


「お前ならそのまま諦めたか?たとえばお前があの綺麗な坊ちゃんや、今日見たあの男の家族から付き合うなと言われたら?」

「私はその通りにするよ。もう会わない」

「嘘だ。お前がそうするとは思えねぇ」

「岳が私をどう思っていてもいいけど、私はしない。違うね、何も出来ないだけ」


 利雪を大切に育てた人たちが、私との付き合いを禁じるなら、それでいいと思う。

 中嗣はそのように言われることがないだろうけれど、それでも宮中で何か問われることになれば、付き合いを辞めるしかない。


「お前らしくねぇな」


 私らしいって何だろう?

 それは岳が思う私とかけ離れていると言いたいだけでしょう?


 痛くて苦しい。


「これで最後にしよう、岳。私とは会わない方がいい」


 送ると言った岳に断りを入れて、本当の意味で別れてから、一人夜道を歩いた。

 大丈夫。調子が悪くても、今宵は月が明るいから。


 大きな月を見ながら、このまま帰ったら、まだあの人は居るのだろうかと考える。

 玉翠にもなんて説明しようか。

 昔の知り合いと言ったから、それだけだと伝えればいいのか。

 だけど岳の様子がおかしかったから、きっと変に思われている。


 あぁ、何も考えたくないな。

 お腹の内側がどろどろとしていて、気持ちが悪い。



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