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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第三章 かわるもの
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9.言わずに分かってとは願えません


 約束の日がやって来た。

 朝だというのにすでに暑く、最悪である。


 何もしていなくても、体にはじわじわと汗が滲んだ。朝からこれでは、昼間に太陽の下で動けばどうなるか。こんな日に予定を立てたことを酷く後悔したが、完全に私の責任であるために誰も責められない。


 早朝写本屋にいつもの官たちが集まった。

 いや、これはおかしいな。

 予想はしていたが、私は聞いていない。


「宮中の文官様はとてもお暇なようで。まぁ、医官様もお暇なのですね?」


 嫌味を言っているのに、中嗣はいつもと変わらないように笑うし、羅生なんかは自身の暇を肯定して喜んでいた。宗葉は眠そうに欠伸を漏らし聞いていないし、それで肝心の利雪はと言えば、興奮していて早く行こうとせがむ。まるで子どもだ。 


 今日は利雪しか誘っていないはずで、それでもやはり残りの三人もやって来た。

 おかげで衣装も余分に必要となるが、そこは玉翠。きちんと人数分用意してあって、皆を店の奥にある客間へと連れていく。

 戻って来た官たちは、揃って麻の小汚い衣装に着替えていた。


「どうですか?」


 嬉しそうに利雪が問うも、私は返答に困った。

 誰もが身の綺麗さを隠しきれていないのだ。利雪はまず美し過ぎるが、それ以外の官たちもいつも良いものを食べているせいか、この衣装に見合う肌や髪の質をしていない。

 それだけなら私も変わらないのかもしれないが、彼らは所作も美しく、動作のすべてが官らしかった。

 それにこの衣装が似合うことは、はたして喜ばしいことなのか、という点も疑問だ。


「うん。今日はそれでいいと思う」


 なんともおかしな返答になったが、利雪は私の意見などどうでも良かったようで、早く行こうとまたせがむ。本格的に子どもに返っている。


「人が増えて悪かったね」


 たいして悪くなさそうに、今さらに中嗣が言った。

 今日は以前から利雪と話していた田畑見学の日。

 中嗣は田畑の状態を確認するという大義名分を掲げて来たと言う。

 今年は例年より雨が少なく、暑い日が続いているから、収穫量が気になるそうだ。しかしそれは三位の文官様の仕事ではないから、大義としてどうなのか。


 疑問はあるも言い争いをしている時間はないので、私たちは馬車に乗って街の外に広がる田畑を目指した。少し手前で馬車を降りて、整備の悪い道を歩く。すでに周りには田しか見えない。

 とうに田植えが終わり、青々と茂る草だけを見てどうなるのかと思ったが、農民たちの手が比較的空くこの時期をあえて選んだ。初めて足を運び興奮する利雪のことを考えると、邪魔にならない時期がいい。

 それに夏のこの時期は、畑には沢山の野菜が育っているから、稲以外にも見るものがいくらでもあった。せっかく足を運んだ利雪らを退屈させないで済む。


 どうせ見たいと言うから、また秋に黄金に輝く稲穂を刈り取るところを見学に来よう。少しは手伝ってもいい。その頃には利雪ももう少し学んでいるはずだから。


「皆さま。今日は官であることは元より、家の名をお忘れくださいね。名乗る必要もありませんが、何かあって名乗るときはそのようにお願いします」

「分かっておりますとも!」


 あえて仰々しく言ったが、伝わっているかは疑問だ。元気に返してくれた利雪が、最も心配である。

 しかし、いつもと姿の違う官たちは、生き生きとして見えた。それは利雪だけではない。宮中から離れたことで、解放感があるのだろう。彼らは私たちとは逆にある。


 どこまでも続きそうな畦道を歩んでいれば、広がる青い田の中に農民の姿が見えた。

 私は声が届く位置にいる女性に話し掛けることにする。玉翠から聞いた通りなら、あえてこの女性は畦道の近くにいてくれたはずだ。


「こんにちは。話をしても平気?」


 若い女性は、突然声を掛けられたことに驚きもせずに頷いた。


「今は何を?」

「要らぬ草を刈っておりました」


 いい草を育てるために、枯れた草や、多過ぎる草を取ってしまうんだ。

 利雪に諭しながら、すでに教えてあったことをもう一度説明すると、利雪はさらに詳しく聞いてきて、ようやく意味が分かったと喜んだ。


「これが稲なのですね」

「いつもこんな草を食べていたのか」


 利雪だけでなく、宗葉も稲を知らなかったようだ。二人してまじまじと青い田を観察している。

 知らなくても米を食べられる人がいれば、その逆も成り立っているこの世は、酷く歪んでいると感じた。

 宮中で小さな水田でも作って、どの官も一度くらいは米の栽培を経験するようにしたらいいのにね。


「麦はありませんか?」

「前に言った通り、今の時期は育てていないんだよ。どの植物にも最適に育つ季節があってね。麦はこの田が終わったあと、秋に稲を刈り取ってから、栽培が始まるんだ」

「同じ場所で育てているのですよね?」

「そうなんだ。だからいつもここでは何か育てていることになる」


 私としては冬の見学の方が楽だと思うが、この辺りだと冬になれば雪が降ることも多く馬車移動も大変になるし、官の皆様に薄い衣装を着て貰うのは忍びない。また行こうという話になれば、玉翠と相談してよく考える必要がある。


 それから私たちは畑の方も見ることにした。

 田は広く、畑までの道のりはとても遠く感じたが、官たちはいつまでも楽しそうだ。暑くはないのだろうか。


 ようやく着いた畑には子どもが多く散らばっていた。当然ながら、遊んでいるわけではない。

 私たちに気付くと、泥だらけの手のひらを振ってくれるから、私たちがお客様であることを理解する。領主と農民への気遣いのために官には汚い衣装を着て貰ったが、それほどの意味はなかったのかもしれない。

 ただ官らしい姿であると、検分に来る官に見慣れた人たちには威圧感があるので、やはりこちらの衣装で正解だったと思う。

 官らしくあれば、田畑であろうと平伏されて、顔を見て話すことも難しい。

 だから知っていても、互いに知らぬ振りをするというのが、此度の無難な対応だった。玉翠もこの案に同意して、そのように話を進めてくれたから、今日が成り立っている。


「差し上げます。どうぞ」


 緊張した様子の男の子が、籠一杯に採ったばかりの茄子を持ってきてくれたときには、胸が痛んだ。利雪は大喜びで受け取ってしまったし、宗葉もすぐにお礼を伝えている。羅生は何も言わなかったので、分かっているのかもしれない。

 思わず中嗣を見やったが、困ったように肩を竦めるだけだった。

 確かにもう遅い。


「この茄子は輝きが素晴らしいですね。宝石よりも美しいように思います。大事に頂きましょう」


 利雪の誉め言葉は、ここにふさわしいものではなかった。

 それでも子どもは何も言わずに一礼すると、畦道を駆け下り畑に戻っていく。想うことは、沢山あるだろうに。


 一箇所に留まらず、私たちはさらに畔道を進み、近くに現れる農民たちに話し掛けた。

 ついでに中嗣がここに来た理由も満たしておく。


「今年の成長はどう?」

「おかげさまで日照りがよく、いつもより早く成長しておりますが、先の水が心配ですなぁ」


 これからも日照りが続けば、確かに危ないだろう。


「川の様子は?」

「今のところ、水位は変わらず」

「減ってきたときの対策はしてあるの?」

「こればかりは、山の蓄えに期待するしかありません」


 足りなければ神官が雨乞いの儀式などを行うのだろうなぁ。それで雨が降ればいいけれど。

 水を溜めて干ばつに備える異国の灌漑技術を採用しても良さそうだが、いずれにせよ今年は間に合わないし、採用前にどこかで小規模な実験を行う必要がある。上手くいかなかったときに、洪水でも起こしたら大惨事だ。

 そんな話を私がするわけにはいかないけれど。

 中嗣が難しい顔をしていたから、同じようなことを考えているのかもしれない。


 ある程度歩き回ったところで、突然利雪が駆け出した。


「広いところを走ってみたかったのです!」


 遠くなる叫び声と共に、意外に健康的な体であることに驚く。

 宗葉と羅生も広大な景色に魅せられたのか、利雪に感化されたのか、利雪を追いかけ、畦道を走り出した。


 放っておこう。これはとても付き合えない。


 前襟を取って、長衣を仰いだ。

 中に風が起こるも、それは生温く、心地好さを与えてくれなかったことに、憂鬱になる。

 ここにある限り、暑さからは逃れられない。


 乾かずに体にまとわりつく汗が不快で、そこだけはそれを感じないのもまた気味が悪く、何より痛みが増していて、気分は悪かった。

 皮膚の感覚を奪うなら、痛みや不快さも奪ってくれたらいいものを、あの何かはご丁寧にこれらを残してくれた。その何かに、私は感謝すべきなの?


 今日の中嗣は、農民らと会話をする気がなく、一切声を出さなかったが、色々と考えることがあったのだろう。

 私からも気を遣って話し掛けずにいたのに、急に近付いてきて、何事かと思えば、そっと耳打ちするように囁かれた。


「大丈夫か?」


 何かと問うと、「暑いのは苦手だろう?」とさらに聞き返される。


「まぁ、好きではないね」


 これ以上心配を掛けないようにしよう。

 もう長い付き合いで慣れたことだ。我慢は出来る。

 ただ、少しばかり今年は暑過ぎるから、涼みたいとは思った。


「あの辺で休もうか?」


 言わずに伝わったのか、有難く中嗣の示した木陰に向かう。

 大きな木の下で、また前襟を仰いだ。幾分か気持ちの良い風に変わった気がする。


 空を見上げてみる。青白い晴天が憎らしい。


 中嗣が持っていた扇を開き、風を送ってくれた。また少し気持ちが楽になる。

 少し冷えると、もっと冷やしたくなるから不思議だ。先まで耐えられていたのに、足を止めたことで動きたくもなくなっていく。

 井戸でも借りようか。近くにいる農民に聞いてみよう。

 そのためには、まず離れることだ。


「中嗣も走って来たら?」

「いやぁ、無理だ。あんなに若くない」

「そう変わらないでしょう?中嗣の走りも見てみたいな。皆と駆けておいでよ」


 思いを込めて言ったのに。


「本当に大丈夫か?水を飲むといい」


 中嗣が私の側から動かなくなってしまった。有難く水筒の水は頂いたけれどね。

 本質を隠して伝えることって、難しいなぁ。


 この日は戻ってからも休むようにと言われてしまい、中嗣がなかなか帰らなかった。

 この時期は放っておいて欲しいのだけれど。これは頻繁に通われるようになる。さて、どうしたものか。


 先生との会話を思い出す。

 醜いものを知らしめるのが嫌だと言ったけれど、そうではないような気がしていた。

 私はきっと……


 暑いときに考えるものではない。何でも体調が良いときに考えるべきだ。寝不足の時も駄目だと知っている。

 考えても仕方のないことは、考えないように。

 今はただ、早くこの夏が終わることを祈ろう。



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