4.二度目の妓楼屋
翌日の夕暮れ間もない時間に、利雪らは再び『逢天楼』を訪れた。
昨夜言われた通りに、二名の医官を連れて来ている。医官全員を連れて来るわけにもいかないから、医次官(二位)の安朋と、直接正妃の診療をしていた五位医官の羅生を連れて来た。
皇帝の命であることをほのめかしつつ、半ば強引に連れ出したから、医官らは最初、渋々といった顔付きであったのだが、やがて連れられる場所が妓楼屋であることに気付くと、歓喜を隠し切れない表情を浮かべた。
男というものは……と、自分も男であることを忘れて、利雪は医官の様子に辟易してしまう。彼はどこか潔癖な部分があったから、同種の人間のとても醜いものに触れたように感じて、嫌な気分になっていた。
早く書を読みたい。美しい文字の羅列に溺れ、心を洗いたい。というのが、今の利雪の最も叶えたい願いである。
四人が案内された二階の部屋は、昨夜利雪らが通された場所とは違っていた。
土壁の色は緑だったし、入って右側には壁がなく、連なる山の絵が描かれた襖があって、天井に描かれているのは花ではなく種々の鳥だった。
利雪は昨日よりも冷静に天井の鳥を数えた。そういう場所だろうと自分には関係ないことだと分かっていれば、そう何度も顔を赤らめる必要はない。
「本当に、宜しいのですな?」
部屋に通されてから遊女が来るまでの間に、五位医官の羅生は三度も確認した。
宮中の、それも高貴な身分の者に対応する医官が、宮中の外、ましてや妓楼屋で、その容態や診療内容を口外するなど、以ての外のことである。医次官の安朋はまだしも、若い五位医官の羅生の首などは此度のことで軽く飛ぶ可能性があった。羅生はむしろ、問題となったとき首を捧げるために今宵同席させられていると察している。あるいは医次官の首を繋げるために呼ばれたのだろう。せっかく妓楼屋にあるのに、生贄となった気分が拭えないのであった。
だから何度も確認しているのに、自分よりさらに若い文官たちは、少しの申し訳なさそうな顔も見せず、何も分かっていないように見えるのだ。何も考えずに呼ばれたとしたら、ぞっとするものだ、と羅生は一人嘲笑を浮かべてしまった。
「主上さまの御許しを得ておりますから」
文官たちは決まったように、同じ台詞で答えた。羅生には面白くないこと極まりない。
そこへ、可愛い鈴の音が鳴り響いた。襖が開き、現れたのは胡蝶だ。昨夜とはまた違う豪華な衣装に身を包んだ胡蝶だが、昨夜と寸でも変わらぬ優麗な雰囲気を纏っている。
二名の医官は胡蝶の美しさに魅了されたものの、あっという間に妓楼屋の雰囲気に馴染んだ。医官たちは意外にも、このような場に慣れている様子で、よく遊んでいるのだろうと宗葉は一人納得する。宗葉はこれまで、暇を持て余した医官たちが夜な夜な外に出掛けて仕出かしたという話を、幾度も耳にしていた。医官には遊び人が多いのだ。
昨夜と同じように、酒を交わしながらの実りのない世間話がしばらく続き、そろそろ本題に……というところで、胡蝶は済ました顔でこう言った。
「少し大きな声でお話しくださるかしら?今宵はお客様が沢山来ているの」
胡蝶の濡れた瞳は、連なる山の描かれた襖に注がれた。その視線がわずかに熱を帯びているように思えるのは、気のせいだろうか。
医官にも意地がある。
羅生は酔いもあったのか、やや大き過ぎる声で、正妃の病状を語り出した。わざとらしく、医者にしか分からぬ用語などを交え、やや好戦的な態度を示すことも忘れない。
「その御方、ひと月半前に熱を出して以来、衰弱の一途を辿り、近頃は昏眠と言える状態にあって……」
羅生はこれまで行った治療についても、隠すことなく正確に語っていく。
躊躇いはあったが、皇帝の命ならば、その通りにするしかない。いかに自分の首が掛かっていようとも、断ってもまた、首が飛ぶのだから。
少しの間もなく、廊下側の襖が開いた。
入って来たのは、可愛いらしい禿が一人。
そういえば今宵は、昨夜胡蝶についていた禿の姿がなかったことに、ようやく利雪らは思い至った。
禿は胡蝶に歩み寄り、一枚の紙を手渡すと、向き直って皆ににこりと微笑んだ。可愛い少女の仕草が、緊張した場の空気を緩めていく。
「同じ容態のお方が、周りにはいらして?」
胡蝶が紙に書かれた内容を、代わりに聞いていることは分かった。羅生も素直にいくつかの質問に答えていく。
その方の周りで、お風邪などは流行っておりませんでしたか?
―――そういえば、少しばかり風邪が流行っていることがありましたな。ですからはじめは風邪をこじらせてしまわれたと考えられていたのです。
最初に具合が悪くなられたときの症状を、もう少し詳しくお話くださるかしら?
―――微熱を出され、よくお眠りになられておりました。その眠りの時間が徐々に増していったのです。
続くのは、医官が患者を初診するときのような簡単な質問ばかりで、羅生は軽々とこれに答えていった。
しかし、ある質問があったとき、部屋に緊張感が広がることになる。
「その方のご年齢や性別などを教えて頂いても?」
羅生は黙ったし、これには安朋も答えることが出来ない。答えれば、分かる者には、誰が病気かすぐに分かってしまうだろう。
しかし胡蝶はあっさりと「結構ですわ」と言って、さっさと次の質問に移っていく。と言っても、優美な仕草と話し方からは、幾分も急いでいるようには感じられなかったけれど。
質問は十一個で終わり、またしばらく待つことになる。
それからまた、廊下側の襖が開き、今度はもう一人の禿が、やはり可愛らしい微笑みを携えて現れた。
間続きの隣の部屋に居るのだから、間の襖を開けてしまえば、話も早かろう。
余程顔を見られたくないのか。声を出すことも躊躇う理由があるのか。
一体どういうお方なのだろう?
利雪は、襖の向こうに居るであろう、医者でない何者かに、強い興味を惹かれていた。何か面白いことが起きそうだという期待が胸に広がっている。
今度の禿は、廊下側に居た医官の羅生に近付いて、一枚の紙を手渡した。
「何だ、これは!我らを馬鹿にしているのか!」
羅生の怒声は、部屋を超えて、隣室にも轟いていただろう。
自分の声によって、なお興奮したのか、羅生はさらに声を張り上げた。
「第三集など!この者、よほど医のことを知らないとお見受けする。安朋様、我らは騙されたようですぞ!」
安朋は、何事かと、顔を真っ赤にする羅生から紙を奪った。
羅生よりずっと歳を重ね、医官としての経験の深い彼の反応は、同じではない。
しばし何かを考えた後、「あっ!」と小さな声を上げ、それから改まって頭を下げた。
「胡蝶殿。これを書かれた者に、急ぎ帰って試す旨を伝えて頂けますかな?」
「きっと聴いていらっしゃるわよ」
「そうでしたな。では、お隣の御仁。ご助言感謝致す。失礼ながら、今宵はこれにて!」
優美に微笑む胡蝶を残し、安朋は駆け出すように部屋を出て行った。歳の割には、動きが早い男だ。訳が分からないという顔の羅生の腕を引きながら、廊下を出たあと階段を駆け下りていく。
しかし酒など飲んでしまって、治療が出来るのだろうか?
酒のことはあとで咎められるかもしれないな、と思いつつ、予想以上の事態に、利雪は普段感じ得ない愉快さを味わっていた。
取り残された利雪と宗葉もまた、姿勢を立て直し、胡蝶に向かい深々と頭を下げる。
「何やら分かりませんが、胡蝶殿のおかげです。それから、お聞きいただいているお方殿。改めて御礼申し上げます」
宗葉も今宵はさほど酒に飲まれていなかった。一度目は、彼とて緊張していたということだ。まだ若いのだから、仕方のないことだろう。
という言い訳を朝から考えていた宗葉は、医官の手前、今宵は冷静さを残すよう調整し、酒を飲んでいた。やれば出来る男なのだ。
しかしそれは事実であって、本人だけがただの言い訳だと捉えている。宗葉は愚かな男でもあった。
「今宵のお礼の品を受け取って頂きたく……」
皇帝から預かっていたたっぷりの金子を宗葉が胸元から取り出そうとすると、胡蝶は意外な反応を示してみせた。「受け取れませんわ」と言って扇を開き、顔を隠したのだ。それは遊女らしい拒絶の仕草であった。
あり得ない、と利雪は自分の耳を疑った。
おそらく相手は聡明な方と見受けられたから、誰からの依頼かも把握していることだろう。皇帝とまでは考えていない可能性もあるが、それに近しい立場の人物が利雪らを動かしていることは想定しているはずだ。その礼を自ら断る者がどこにいるのか。いや、ここにいたのだ。
それでどれだけ面倒なことになるか、想像出来ない者とも思えないが、はたして――。
「それよりも、結果が出たら教えて頂きたいそうですわ」
つまり礼を断っているのは、隣の部屋の人間ということである。胡蝶の意志がないことは示された。
利雪はしばらく考えて、やがて言った。宗葉はこういうとき、黙ることにしている。利雪に考えさせた方が、ずっと上手くいくと知っているからだ。
「結果のご連絡はどのように致しましょう?」
「またこちらにいらしてくださるかしら?」
人を使う内容ではないので、利雪もこれに同意する。昨日来るまではあれほど嫌だった妓楼屋も、すでに嫌悪感を持たずに済んでいたのは、遊女たちの様子が利雪の知っている女性たちとは違っていたからだ。世にあるすべての女性が苦手とする女性ではないことをまさか花街で学ぶことになろうとは。利雪には思わぬ収穫である。
「では、またこちらに参りましょう。ところで、胡蝶殿」
「先ほどの内容が気になりますよね。小夢、来てちょうだい」
医者たちは助言の書かれた紙を持って行ってしまい、利雪と宗葉が見る暇もなかった。見たところで彼らは専門外なのだから、理解出来るわけでもないが、やはり気になる。
「呼びました、姐さま?」
現れたのは、医官に紙片を渡した禿だ。首を傾げた様は、とても可愛らしい。
「お医者様には何を伝えたの?」
「西国医術書の第三集、第五章十三節と、南方医術書の六十四節の二十一、合わせて参照されたし」
すらすらと語る少女に驚いたが、続きがなかったことに、二人はさらに驚かされた。
「それだけですか?」
利雪も宗葉も困惑の色を隠せない。何か難しい言葉が長々と書かれているのではないかと想像していたのだ。二人の知る医官らはいつも、難しそうな資料を手元に、難しい言葉を並べ話し合っている。
これは面白そうだ。利雪の期待がまた膨らんだ。
「もうひとつ、お願いがあります。先ほど胡蝶殿が読んでいた紙をお預かりしても?」
どうぞと言って、胡蝶は紙を手渡した。それは優雅な動作で。
利雪はじっくりとそれを眺めていたが、それから紙の表面を指で三度擦り、感触を確かめた。
強い期待と共に、大きな失望を用意する必要があることを感じながら、膨れる期待が胸に満ちていくことを止められない。
「どうしてもお会いすることはかないませんか?」
それは今、彼の至極個人的な要望に変わった。
利雪の言葉を受けて、首を振ったのは禿だ。小さく首を振る様は、やはりとても可愛らしい。
それでつい利雪は、幼子に向けるように声色を優しく変えた。
「どうしても駄目だと言われたのですね?」
「左様です」
おそらく隣の間の客から、きつく言い聞かされていたのだろう。子ども相手に無理を言うわけにはいかないと、利雪は口を噤んだ。
さて、どうしたものか。考える利雪をまっすぐに見据え、胡蝶は言い放つ。
「どうかこれ以上のことは、望まれませんように」
宗葉は利雪が頷いたので、この話題が終わったことを理解した。
元より美しい遊女を説得する気がない。
遊んでいきますか?と言われて、心躍った宗葉を強引に引っ張り、利雪は妓楼屋の外に出た。二階を見上げたとき、窓辺から誰かが二人を見下ろしていることに気付く。
顔は見えないが、きっと例の医者じゃない医に長けたお方なのだろう。
利雪は確かではない影に、丁重に頭を下げてから、夜の街を急ぎ歩いた。
「主上さまから、たんまり金子を与えて頂いたんだ。少しくらい遊んでも良かったのではないか?」
「我らも急ぎ戻って、結果を確認する必要があります。主上さまにも、しかと説明しなければなりません」
真面目だねぇ、詰まらんなぁ、遊び心が足りん、といくつも文句を吐き捨てる同僚よりも、利雪には今宵の成果の方が大事だった。
胸に躍る大きな期待が、これ以上膨らもうとするのを、利雪は必死で抑えながら、慣れ親しんだ宮中へと歩みを進める。
夜の風は冷たく、酒の入った体もすぐに冷ましてしまった。期待で踊る頭は、どこまでも冷静だ。