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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第三章 かわるもの
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7.恩人に会いに来ました


 辿り着いた荒野に、小さな家がぽつんと建っている。

 茫々とした草むらに囲まれているそれは、家というよりは物置小屋と言った方が良さそうではあるも、れっきとした人の家であり、その人の仕事場だ。


 扉が開いたままだったので、軽く入口横の外壁を叩いて、声を待たずに中に入った。

 入口はひとつ、窓はひとつ。上がり框から部屋への仕切りもないので、土間に立てば、室内の全貌が見渡せた。

 炊事場も釜戸も外にあるためにただの一部屋でしかないのだが、とにかく狭い。奥に荷物が積み上げられているせいで、人の動ける空間はわずかだ。


 眼鏡を掛けたその人は、すでにこちらを向いている。


「そろそろ来る頃だと思っていたよ」

 

 荷物の山に背中を預け、板張りの床の上に直接座った先生は、握り飯を食べていた。


「あぁ、鍵を掛けてからにしなさいね。僕と君が良くても、彼らは驚くから」


 私は言われた通りに扉を閉め、内鍵を掛けると、抱えてきた荷を床に置いた。

 それから靴を脱ぎ土間から上がると、まずは帯を解き、麻の長衣を肩から剥いで、床に落とす。それから肌着の前を開いて、先生に体を向けた。今日の肌着は特別な細工もない、誰でも着ているものだった。


 食べ掛けていた握り飯の最後の一切れを口に入れてから、布巾で手を拭い、先生は膝を押さえてゆっくりと立ち上がった。

 そこまでの年齢ではないはずだが、その動作は老人のようだ。そういえば先生はいくつなんだろう?四十前後くらい?

 子どもの頃から何も変わっていないように見えるから、先生は年齢不詳なところがある。まさか若返りの薬でも手に入れて、自ら実験していることはあるまいが。


 一度自分の腰を叩いてから伸びをして、ようやく近付いて来た先生は、「どれどれ」と言いながら身を屈め、肌着から覗く私のお腹をまじまじと見た後に、その場所に手を伸ばした。

 相変わらずそこは何も感じない。触れた感覚はないのに、触れられているという事実が目視で確認出来るという違和には、さすがにもう慣れていた。

 それもすぐに終わり、今度は太ももに視線を移し、先生は同じように触る。触った方がどう感じるか、それは私が十分に理解していた。


「見る限りは変わらないね。何も変わりはないかい?」


 おかしな言葉だが、先生はこれでも医者で、問診をしている。


「特別なことはないよ」

「そうか。では僕からも特別なことはない」


 私が元の状態に着替え終わると、先生は薬の入った袋を渡してくれた。私が来たらすぐに出せるように調合しておいてくれたのだ。


「今年は暑いかなぁ?」

「去年は冷夏で助かったねぇ」


 先生も頼に負けず、おっとりと話す人である。

 頼とはまた違い、話していると柔らかいそよ風に吹かれたような、優しい気持ちになった。

 これが懐かしさというものだろうか。


「ねぇ、先生。熱が出たときに、こっそりこれだけを冷やせる凄い薬はないかな?」


 お腹に手を置いて言えば、笑われた。意外と高い声で笑うんだよなぁ。


「何か困ることがあったんだね?」

「今年の春に、久しぶりに風邪を引いたんだけど。風邪のときって、体を温めることばかりされるでしょう。熱と薬湯で体がよーく温まっていたところに、布団をこれでもかと被せられて、死ぬかと思ったんだ」

「あぁ、それは辛いねぇ」


 先生は何の深刻さも伝わらないおっとりした声で言った。所謂、他人事だ。


「おとなしくしていたのかい?」

「逃げようとしたけれど、失敗して余計に大変なことになったよ」


 そうしたら先生が、「穴が開いた布団でも作ってみたら?」なんて言うものだから、ついうっかり「妓楼屋で使えそうだね」と返してしまって。

 二人で大笑いすることになった。若い娘の言葉ではないと、笑い終えたあとに叱られたことは解せない。


 先生はそれから思い出したようで、「家の人は知っているのではなかったかい?」と聞いて来た。


 傷について知っていたのは、羅賢と玉翠だけだ。

 それは私を買うときによく説明されたからで、二人が実際にこの傷を見たわけではない。

 初めの頃は念のために医官に診せたいと言われたが、私がこれを拒否して逃げ回るので、すぐに言わなくなった。

 逃げ回るほどに元気な姿を見せたことも良かったのだろう。それから二人は、傷そのものに触れなくなり、羅賢は最後まで何も言わなかったし、玉翠は傷の存在を忘れてはいないと思うが、今では何の心配もしてないと思いたい。


「改めて伝えたらどうだい?君に恥じなんてないだろう」


 先生が失礼なことを言うから少し怒ったら、「君のように衣装を脱ぐ娘は見たことがないね。君より幼い娘でも、もう少し恥じらうよ」と言って、また笑われた。これは反論出来ない。


「どうして隠しているんだい?」


 うーんと唸ってから、「高貴な方々に、醜いものを知らしめるというのが、どうにも」と言ったら、先生はすぐに真剣な顔をした。


「君のそれは、醜いものではないよ」


 これが懐かしい時と重なる。

 先生の前でこの傷を悪く言うと、いつも叱られた。

 先生はこんな私を助けるくらいに、優しい人だから。


「高貴な方々にとってはという話だよ。それにね、先生。どうにも私の周りには、心配が過ぎる人が集まってくるみたいで。伝えたら大変なことになるのが目に見えているんだ」


 先生は今度は穏やかに微笑んだ。眼鏡の奥の瞳が優しい。


「君のことを心配してくれる人が沢山いるなら、僕は嬉しいねぇ」

「私たちも、先生のことをいつも心配しているよ?」


 先生と話すために、私はここに通っているのかもしれない。

 恩返しをするためというのは口実で、皆もただ先生に会いたいだけなんだろうなぁ。


「僕の心配は要らないけれど、君は有難く周りからのそれを受け取るといい。君がどこへ行っても、周りにはいつも心配してくれる人たちがいるとすれば、それは君がそれに足るだけの人なのだよ」


 それは違うよ、先生。

 先生の言った通りなら、こんな傷が残っているのはおかしい。


 当然私はそれを伝えずに言った。


「先生、お腹が空いてきたよ。出る前に、何か食べさせて」


 先生が笑いながら「握り飯しかないよ」と言ったとき、トントンと扉を叩く音がした。

 鍵を掛けたままだったことを思い出して、私が急ぎ鍵を解錠して扉を開けると、扉の前にいた女の子はとても驚いた顔をする。


「先生のお友だち?」

「そんな感じかな。どうしたの?」

「手を怪我したの」


 邪魔なら出ようかと思ったけれど、先生に手で制されたので、脇に座って、診療を眺めた。

 女の子は指先を少し切っただけのようで、安心する。


 泥だらけの手のひら。街で使う雑巾と同じほど薄汚れた長衣。目の前の女の子が古い記憶に重なれば、懐かしさと悲しさを織り交ぜながら、心を責める武器となる。


 先生はたっぷりと甕に汲んであった水を使い、女の子の手と傷を丁寧に洗った。それから先生が傷を消毒し、女の子の指先に包帯を巻き終えると、女の子は私にも手を振って元気に出て行く。


「先生も物好きだよね。その腕なら、街でいくらでも稼げるだろうに」

「僕はここが好きだからね」


 先生は一呼吸置いて、続ける。


「君みたいに、皆がこうやって色々持って来てくれるから、何不自由ない暮らしが出来ているよ。僕は街のどの医者よりも豊かだろう」


 そこで思い出して、床に置いたままになっていた荷物を開けた。消毒薬に、傷薬。痛み止め。滋養に良いお茶の葉。西の医術書を写したもの。子ども向けの書を数冊。沢山の綺麗な布と包帯。


「みんなもまだ来ているんだ?」

「ときどきね。この間は岳が来て、米を置いて行ったよ」


 狭い部屋なのに、壁際に沢山の荷物が積んであるのは、そういうことだ。

 先生にかつて世話になった者たちがお礼の品を届けに通う。来られる者に限られるけれど、それが絶えないことは私たちにとっての希望だ。


 そこからは、有難く握り飯を頂きながら、岳の話を聞いた。この握り飯も、岳が届けた米を炊いたものだと言う。

 どうやら岳は結婚するらしい。冷やかしに行ってやろうか。どれだけ笑ってやろうか。いかにして泣かそうか。などと会う気もないくせに思う。昔の癖だ。


「君は?」と聞かれて、「ありえない」と答えたら、先生はまた笑った。「君らしい」と言う。


「あぁ、そうだ。頼が先生によろしくだって」

「おや、まだ会っているのかい?」

「たまにね。みんなには内緒だよ」

「隠すことでもないのに。君たちも不思議だね」


 私はいいけれど、頼が嫌がるからね。

 それに伝えることで、厄介なことになる未来も見える。だから言わない方がいい。


「先生みたいな街医者が沢山いたら、世の中は素敵だったんだろうなぁ」


 それは何気なく出た言葉で、頼との話から切り替えようとしただけのこと。

 もちろん偽りではなく、本心ではあったが。


「僕みたいな医者ばかりなら、世は駄目になろう」


 先生の言葉に私は驚かされた。

 先生がよく使う言葉を借りれば、とても先生らしくない。

 あれ?私も同じ言葉を使ってきたかな?まぁ、いいか。


「どうして駄目になるの?」

「僕が世のため人のために医者をしていないからだね」


 どういう意味だろう?


「世のため人のためという大義がなくても、目の前の人を助け続けていたら、それは結局、世のため人のためになることだよね?」

「僕は目の前の人を助けたくて医者をしていない」

「それなら、先生は何のために?稼ぐため……なら、街で働くよね?」


 先生は次の言葉まで少し間を置いた。

 ちょっとした話のつもりが、深刻に受け止められて、私も困惑している。

 一体どうしたのだろう?


「今までは、僕のためでしかなかったね。それはこれからも変わらない」


 先生のこの言葉には、いつもとは違う重みがあった。

 このときは眼鏡の奥の瞳から先生が感じているものを読み取ることは出来なかったんだ。



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