6.想い人は隠しごとが多い
「白飯と麦飯の違いを知っておりましたか、中嗣様?」
その幼い言葉と噛み合わない美しい部下の真剣な表情には、思わず笑ってしまう中嗣だった。これはあの子も苦労していようと悟る。
「それぞれの炊き方を教わって参りました。玉翠殿には、華月より上手だと褒められたのです!」
そうだろう。中嗣は即座に同意した。
誰にでも不得手なものがあるように、何でもそつなくこなしそうな華月には、料理の才がない。
いつも不味くはないが、美味くもないという、何とも言い難い料理が出来上がることを、中嗣はよく知っていた。茶を淹れても同様で、これはこれで才能かもしれないという理由で華月を称賛し、中嗣は何度か叱られている。が、懲りない男だから、これからも華月には同じ言葉を伝え、叱られるだろう。
中嗣らは、利雪があまりに懇願するので、勢いに押される形で、昼食時に写本屋へと向かうことになった。「私の炊いたご飯を食べましょう」と言うのだ。
一から米など炊かれては、それは少々長い昼休憩になるが、たまにはいいかと中嗣も許可を出した。ただ華月に会いたかったわけではない、部下たちの気晴らしのためだ、と中嗣はまた心の中で誰にも届かない言い訳をしている。
しかし何故写本屋なのか。それは利雪が宮中の釜戸を借りたいなどと言ったら、大騒ぎになってしまうからだ。宮中お抱えの料理人が多数存在しているので、彼らの領域を文官が侵すわけにもいかないし、中嗣などが口利きをすれば何かの調査かと勘繰られてしまう。
というわけで、誰からも異議はなく、写本屋に向かうことになったのだが。
それは桜通りを北へ進み、知った写本屋の建物が見えて来て、間もなく到着する寸前だった。
華月が写本屋から出て来たのだ。両腕で風呂敷に包んだ大荷物を抱えている。
「華月!」
声を掛けて一番に駆け寄るのが利雪であったことに、中嗣は顰め面を作っていたが、これは隣を歩く羅生が笑うことで収められた。
「こんな時間にどうしたの、利雪?」
「お米を炊きに参りました」
「え?お米を炊きにわざわざ来たって?」
「えぇ。皆さまに食べていただきたく。華月は大荷物ですねぇ」
後ろに続く官たちに気付いた華月は、一瞬怪訝な顔をしたものの、すぐに利雪に向かい、「お届け物をしてくるから、今日は玉翠と遊んでね」と返した。
一瞥だけで華月から中嗣には何もないことが悲しいも、これでめげる男ではない。
主人を見付けた犬のように喜び、それを取り繕って平然とした様子で華月に近付いていく中嗣を、羅生は後ろでにやつきながら見守った。
宗葉はと言えば、腹が空いて辛い、米が炊けるまで耐えられるか、という点だけを気にしている。玉翠に茶菓子でも出して貰えるだろうか、いや、ここは訪問するのだから、近くで何か買ってきて土産にするか、という考えに至り、きょろきょろと辺りを見渡していた。華月にも中嗣にも、そして利雪にも興味がない。
「配達ではなさそうだけれど、どこへ行くの?付き合うから、荷物を貸して」
「これは自分で運ぶからいい。中嗣も今日は玉翠と楽しんで」
華月は中嗣に背中を向けて、さっさと通りを歩き出してしまう。
「おや、追い掛けないので?」
「私も暇ではないからね。利雪、玉翠に頼み、早めに作り始めて貰えるか」
「お任せを!」
中嗣はすぐに写本屋の店内には入らず、通りに立ったまま、しばし遠くなる華月の小さな背中を見送った。
珍しく華月は麻の長衣を着ていた。夏は涼しい麻を好む者も多いが、華月のそれは一見して古着だと分かる、粗末なものだった。
抱える大きな荷で隠れていたため曖昧ではあるが、いつもの簪も帯に挟んでいないように見えたとなれば、中嗣は共に行くことが許されない。
念のため店に入ってから用事の中身を尋ねた中嗣に、玉翠は「私が頼んだのですよ」と落ち着いた様子で言っていた。
その言葉の後に、いつものため息は続かない。
中嗣はそれならばと心配を飲み込んで、華月の無事を願う。
心配が過ぎるといつも叱られるが、あの子は基本的にあちら側にあることを語らない。
だからこそ、心配になるということを、そろそろ分かってくれないだろうか。
すべて伝えてくれていたら少しは……。
こういうとき、中嗣は自分の生まれや身分を忌々しいとさえ思う。あのときに共にあって、何もかも持たず、一から同じ時を重ねていた方が、ずっとよく生きられたのではないか。
この考えに至るとき、中嗣は自嘲気味に笑うのだった。
どう考えても、いつも願う通り、何も起きなければ良かったのだろう。
しかしそうすると、今の華月がない。
それを分かっているから、中嗣はときに愚かな夢を見る。華月に知られたら、激怒され嫌われる話だと分かっていながら、その願いの先にあるものを探るのだ。同じように生きてきたら、今頃私たちはどうなっていたかと。
華月が聴けば、間違いなく、何も知らないからそう言えるのだと言って罵られることも知っている。怒ってしばらくは口を聞いて貰えないかもしれない。
馬鹿な男だな。
思いながら、玉翠が用意した美味い茶と饅頭を味わい、中嗣は部下の炊く米を待った。
華月がいない写本屋は、中嗣にとって空虚だ。