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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第三章 かわるもの
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5.ようやく会えました


 正午の鐘が鳴る少し前。北の木橋を超えて、瑠璃川の東岸を上流に向かいのんびりと歩いた。照りつける陽射しの強さは、間もなく真夏が来ることを知らせてくれる。今年はどんな夏になるだろう。

 少しして川岸の岩上に見知った背中を見付けた。


 転ばぬように細心の注意を払い、河原の小石を踏んで、岩を踏み、大きな岩は避け、川縁へと近付く。

 辿り着いた一段と大きな岩の前で見上げれば、いつもと変わらない背中があった。


「釣れる?」

「今日はいまいちだ」


 声と同時に手が伸びて来るも、顔は見えない。視線はずっと川面の浮きに置いているからだ。

 腕に掴まり、ほとんどその腕の力に頼って、岩を上った。岩の上には、水を張った革袋が置いてあり、中には魚が二匹。鮎と岩魚だ。


「釣るか?」


 ようやく頼と目が合った。久しぶりに会ったのに、何もかもがいつもと変わらない。


「まだいいよ。次のが釣れたあとに貸して」

「今でいい。休憩したかった」


 頼は竿を引き、釣り針に餌が残っていることを確認してから、私に竿を手渡した。

 受け取った竿を思い切り振っても、頼が座ったまま後ろから腰帯を掴んでくれているおかげで、私の体の軸がぶれることはない。

 浮きが無事水流に乗ったことを確認して、私も岩の上に腰を下ろした。

 あとは待つだけ。釣りとはなんとも静かな遊びである。


 しかし見える浮きには、水流に揺れる以外の動きが一切なかった。

 魚が少ないなら、場所を変えたい。


「まぁ、待て」


 頼が言うならと、黙って浮きを見ていることにする。

 不意に浮きが沈んだ。頼の動きは早い。

 横から私の後方に腕を回し、腰帯を左手で掴むのと同時に、右手は私が握り締めた竿を押えた。

 なかなか元気な魚だったので、有難い。


 釣れたのは、鮎だった。


「お前は引きがいいな」


 一匹釣り上げたら満足したので、竿を返す。頼に褒められたことで、満足出来たのかもしれない。

 頼がもう一匹釣ると言ったから、座って見ていることにする。陽光を反射して輝く水面が美しい。


「調子はどうだ?」

「とてもいいよ」

「夏が来るなぁ」

「うんざりするね」

「涼しい夏だといいがな」

「そう願うよ」


 低い声と、のんびりとした口調は、いつも俗世にあることを忘れさせてくれるんだ。

 幼い頃はこんなに低い声ではなかったはずだけれど、その頃の声は思い出せず、それでも同じように感じていたことを覚えているから、声ではなくて、頼という人の雰囲気がそう感じさせてくれるのだと思う。


「官の皆さまを釣りに連れて行くとしたら、どこがいいかな?」


 突然聞いても、頼は驚きもしないで、のんびりと答えた。

 この落ち着き振りは、あの老人をも超えているように感じて、なんだかおかしい。


「初心者か?」

「相当に。動けるかどうかも怪しい人がいる」

「池釣りにしておいたらどうだ?」


 池釣りか。街の南に釣りを楽しめる池があると聞いたことはあった。


「御忍池だな。あそこなら官も沢山居よう」

「官が沢山いるのかぁ」

「俺も一度覗いたが、釣りはしていない」

「それは、他の池にしようかな」

「西に子どもでも釣りを楽しめる池はあるが、官には相応しくないな」

「うーん。少し考えてみるよ。ありがとう」


 頼がもう一匹鮎を釣ったので、茶屋に移動することにした。

 一人で飲みたいときに行く茶屋と離れてはいるが、同じ橙通りにあるその店は、釣った魚を持ち込むと囲炉裏で塩焼きにしてくれるので、頼とよく利用している。

 頼は優しくて、いつも分けられる量の魚を釣ってくれた。今日は二匹ずつだ。

 焼けるまでは、酒を飲みながら、冷ややっこを頂くことにする。


「今度先生のところに行ってくるよ」

「よろしく伝えてくれ」

「頼は行った?」

「春先だ。醤油と釣った魚を持って行ったぞ」


 頼は今、醤油屋の下働きをしている。店先ではなく醤油造りを手伝っていて、休みも多く、しっかりと給金も出ていると言っていた。私も頼も奇跡的に良い方にあるから、今もこうして会うことが出来ている。


 それでも私たちは、瑠璃川の東岸だけで語らい、西岸に広がる街では、すれ違っても互いを認識しないように振る舞う。

 それが私たちの育った環境での常識だからだ。


「近頃よく会う官の人は、白飯と麦飯の違いを説明するだけで、とても喜んでくれるんだよ。前は麦を米の種類のひとつだと思っていたみたいで、違うものだと言ったらそれは驚いていてね」

「それにこそ驚くな」

「ねぇ。面白かった」

「向こうからしたら、米と麦の違いなど些末なことなのかねぇ」


 頼は官を好きではないが、見下すことをしない。だからと言って、受け入れることもないし、媚びへつらう気はさらさらない。

 頼のこれは知らないからではなく、何も求めていないからで、おかげで今もこうして官の話を気楽にすることが出来た。


「面白いから、そのうち魚についても教えてあげようかと思っていてね。食べている切り身と泳いでいる魚が繋がっていないみたいなの」

「それで釣りか。世話を焼き過ぎるなよ」

「そうするよ。ありがとう」


 魚が焼けるいい香りが強まり、冷ややっこを摘まんでいるのに、お腹が空いてきた。

 衣装にこの匂いが付くから、戻ったら玉翠には何を食べて来たかすぐに伝わってしまう。夕餉も焼き魚のときには、少し悲しそうな顔をされるんだ。私は毎食焼き魚で構わないのに、玉翠はそれを許せない。


「困ることは起きていないか?」

「そうだねぇ。近頃は官がよく集まるようになって、それは少し困っているかな」

「変わらないなぁ」

「あの頃みたい?」

「あぁ。禅に付き纏われていた頃を思い出す」


 私の前で禅を語る人は頼だけだ。


「よく来る人は、似ているところがあるね。いくら嫌がっても、会いに来るんだ」

「嫌だとはっきり言えよ。俺を見習え」


 昔から頼は一人を好む。頼はそれをお互い様だと言い、私は我慢して人付き合いをしていると思っている。

 私はいつも、これには同意出来ない。

 一人の時間は好きだけれど、ずっと一人でいたいかと言えば、そうではないと思う。だから皆と過ごしていたし、頼のことも追い掛けた。

 同じようで、私と頼は違う。それはどの立場にあっても同じだと、最近になって改めて実感出来ている。


「会うと気付くけど、官もみんな違っているんだよね」

「そりゃあ、俺たちだって違うのと一緒だ」


 それから私は、蒼錬の話を一方的に語った。頼は何も言わずに、耳を傾けてくれる。そして私が語り終えると、頼が想うことを言った。


「生まれや育ちのせいにすると、楽だからなぁ」


 私もずっと同じことをしているような気がする。

 そうやって自分ではどうにもならないもののせいにして逃げているから、逃げる振りは辞めなさいと羅賢に言われたのだろうか。

 羅賢は私に何を望んでいたのだろう?復讐でもして欲しかった?でもそれは無理だ。私は覚えていないから、復讐するほどの憎悪も気概も持てない。


 それなら彼は?

 どうして官などしていられるのだろう。宮中を恨んでいてもおかしくはないのに。

 それも復讐のため?でも誰に?


()。考えても仕方がないことは、考えるなよ」

 

 笑っておく。頼の言う通りだもの。


 釣ったばかりの鮎の塩焼きはとても美味しかった。身もしっかりしていて、ふんわりと柔らかく、夢中で食べていたら足りなく感じて、二人ともに麦飯の焼きおにぎりを頼んだ。囲炉裏で焼いてくれるのだが、おにぎりに塗った合わせ噌味がまたいい味をしていて、これも止まらず、二人してお代わりをすることになる。

 私が鮎を二匹食べたので、ご馳走すると言ったところで、支払いはいつも折半だ。

 何でも買い与えようとするあの人も、出来ればこうなって欲しいと思うのだけれど、官には無理な話なのかなぁ。


 お腹がいっぱいになったところで、店を出た。

 ほろ酔いで気が緩み、店を出てすぐに前のめりに転げそうになった私に、頼は何も言わずに腕を一本差し出す。私はその腕を支えに、すぐに体を戻した。


 頼はいつもこうだ。私が出来ることを奪わず、必要なところだけで手助けしてくれる。


「頼は凄いね」


 何が?と問われて、また笑っておく。

 頼には助けられてばかりだ。私は頼に何を返すことが出来るのだろう?



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