4.こうなったらとことん遊びましょう
「もしかして十位の頃の仕事も、良いものなのでしょうか?」
「そうだね。せっかくだから、呉服屋について説明しておこうか。民にも階級があると前に言ったけれど、その意味は分かるかな?」
利雪は首を振ったが、当然そうすると思っていた。
蒼錬に言った通りだ。利雪が人を見下さないのは、見下す世界を知らないから。悪気なく、皆自分と同じように生きていると信じている。
利雪に悪いものを教えたくはないんだけどなぁ。
不意に頭に中嗣の顔が浮かぶ。お願いと言ってきた。
「民の階級について教えて頂けますか?」
「もちろん。民のそれはね、官位のように厳密に分かれたものではないんだ。暗黙の了解で、近いものが存在していると考えて貰えるといいかな」
「官位に近いものが、民の間で認識を共有していると?」
「その通り。たとえば呉服屋の主人は、多くの民から自分より上にある人だと思われている。だから利雪は、上位の民を相手に仕事をしていたことになるんだ」
「上位の民だったのですか」
「そうだよ。そのうえ利雪は、宮中に衣装を卸している呉服屋を相手にしていなかった?」
「何故分かったのですか!」
利雪が興奮したように声を張り上げる。
いやいや、多くの人が知っていることだからね。
「宮中御用商人は、庶民のなかでは上位にあってね。その商人の中でもさらに身分のいい呉服屋は、官なら大臣みたいなものなんだ」
「大臣とは。それは素晴らしいご身分の方だったのですね」
「領主なんかを含めると話が複雑になるけれど、今は街だけの話をしよう。利雪の担当する呉服屋は、民の大臣だった。だから利雪がしていたのは、最初から良い仕事になる。ここまでは分かった?」
「そういうことだったのですね」
利雪は当時自分に与えられた仕事の意味を今さら理解して、落ち込んでしまった。
私は他を知らないのだから、落ち込む必要はないと思う。良い仕事も経験出来ない官は沢山いるはずだ。
「もう少し説明するとね。宮中から仕事を貰う呉服屋の人たちは、官を悪く言うことがまずないんだ。それは宮中が大事なお得意様だから、という理由だけではなくてね。宮中と付き合うことで、商品に”うちは宮中に卸しているんだぞ”という箔が付くの。宮中も認める商品となれば、民にも高く売れるでしょう。そんな利益を貰える相手に対して、まず悪い対応をするはずがない。だから、官として良い仕事になるんだ」
悪い対応がないわけではない。
お互いの利になるような、特別な都合を付けようと提案する商人は、何も蒼錬だけではないのだ。むしろ蒼錬がしていたのは、悪徳商人のなかでは可愛いものである。
利雪はそこからも守られていた。検分に関わらず、宮中に留まることで、悪いものに触れずに済んでいる。
だけどここで利雪に、官の汚職の話まですることはないと思った。
蒼錬の関係で、賄賂を受け取った官も処分されたと聞くが、利雪はこれに同情したみたいだからね。悪いことをはじめに考えた人間が最も悪く、唆された人には情けが必要だとでも思っている。
この辺は、中嗣に任せたい領分だ。私が官のことを語るのはおかしいからね。
「華月は悪い仕事として、何を選べばよく学べると思いますか?」
「良い、悪いは忘れて、最も効率よく世のことを学べるようにしたら?」
「私は悪い仕事というものを知りたいのですが」
「そうしたいのは分かるけれど、一概に悪いものと言われると……そうだ、利雪。白飯と麦飯の違いを知っている?」
急な話題の変化に、利雪は戸惑っていた。
戸惑う様も美しいとは、もはや生きた芸術である。
「触感が違いますね。色の違いもありますが」
「麦飯を食べたことはあるんだ?」
「はい。何度かは」
蒼錬と揉めているときに、口を挟んで来ないなぁとは思っていたのだけれど。
ほとんど意味を分かっていなかったんだろうなぁ。
「泳いでいる魚を見たことはある?」
「池の鯉ならば知っていますよ」
「魚の切り身は、元々泳いでいた魚だって分かっている?」
「元は鯉だったのですか?」
どうしてそうなった?
「鯉も食べられるそうだけど、あまり食べないよね」
「そうですよね。私も鯉を口にした覚えはありません」
沢山書を読んでいる人だから、知識は豊富だと思っていたけれど。
読んだ知識は、体験がないと誰でも繋がらないものなんだね。私が異国の書を読んで悩んでいるときと同じだ。
「野菜が育つところを見たことは?果物がなっているところは?」
「柿が木になるところは、秋によく見掛けますね」
「それがどうやって出来るか知っている?」
首を傾げて、「子のように、ぽんと生まれてくるのでは」と言ったから、もう笑ってしまった。ここまで来ると可愛らしい。利雪の中では、子もぽんと生まれることになっている。
小さい頃から、屋敷の奥で大切に育てられてきたことは、よく分かった。
初めから文官しか考えていなかったのだろう。
だからこそ、このように女性と見間違うような美しさを称えているのだ。蝶よ、花よ、と育てられた、どこかの姫君がここにいる。男だけど。
大人になって一人で街を歩くようになってからも、利雪は目立った大通りしか歩いていないのだろう。しかも人は知らないものが目に入らないように出来ている。利雪はこれまで、何も見えていなかった。
官としては致命的だと思うけれど、ある意味でいいのかもね。宮中の官らしくて。
それを変えてしまっていいのだろうか?
純粋さを残したくなる葛藤は、中嗣も抱えていそうだ。
それでも利雪が自ら望むのだから。
「よし、利雪。今日は仕事をせずに、思い切り遊ぼう!」
「遊ぶのですか?」
「百聞は一見に如かず。書で学んでもいいけれど、見た方が早いでしょう?」
「しかし中嗣様には何も伝えておりませんので、これから宮中に戻らねば」
「大丈夫だよ。あとでたーっぷりと言っておくからね」
「華月が言ってくださるなら平気そうですね。では遊びましょう」
いいのか、それで。
と思ったけれど、何も言わないでおいた。
ちょうどお腹も空いてきたところだ。まずは庶民の朝餉を食べながら、白飯と麦飯の違いを説明しよう。
あとで玉翠から炊き方を教わって貰ってもいいね。私も炊けるけれど、ここは玉翠がいい。
陽が少し上がったら、外に出て米屋にでも連れて行こうか。
税収の理解は、米関連が手っ取り早い。領主、商人、農民、あらゆる階級の民に関わることが出来て、世の仕組みもよく分かるはずだ。それがすべての決済書類と繋がっているところまで分かれば、上出来ではないか。
あれ?昔、似たようなことをした覚えがあるような……。ここまで分からない相手ではなかったけれど。今よりもずっと官らしいところがあって。
あの頃は、下賤の子どもの私から真面目に学ぶなんて、とても変わった大人もいるものだと思っていた。
あぁ、だから私に頼んだのね、中嗣。これがあなたの言う、仕事を手伝うということだったの?