2.写本をしていたいのですが
しばらく華月視点が続きます。
目で追った文字を、別の紙に書き起こす。
ただそれだけの作業が仕事だ。
今日の一冊目は兵法書だった。珍しいことだが、この書は読んだことがあって非常に残念である。
この兵法書は図解が多く、写本をするからには当然この図も写さなければならない。
私はいつも先に文字だけ起こし、図の模写にはあとでじっくりと取り掛かることにしていた。
文字を追うことに集中していると、すぐに紙が端まで埋まる。
筆を置き、用紙を取り換えようと少し振り向いたところで、叫び声を上げそうになった。
「頼むから、声を掛けてよ。利雪」
写本中は人の気配を感じにくい。集中している証拠だけれど、声も掛けずに部屋に入り、無言のまま近くに立っているのはどうなのだろう?いくら仕事中でも声を掛けられたらさすがに気付くのだから、部屋に入る前に一声掛けて欲しい。
まぁ、その声掛けが突然過ぎて、驚きで筆を滑らせ紙が無駄になることもあるから、声を掛ければいいってものでもないけれどね。
つまり写本中には部屋に入らないで欲しいのだが、中嗣にはこれが一向に伝わらない。
ここに来て利雪まで同じようにされると、さすがに迷惑である。
「これは申し訳ない。言葉も忘れ魅入ってしまいまして。やはり美しいですねぇ」
惚れ惚れと言われると、これ以上何も言えなくなった。これが中嗣だったら、もう一言、二言は文句を続けているところだ。
利雪の清らかな美しさは、狡い。完璧に計算された彫刻のように美しいその横顔には、心の穢れを払う力があるのではないか。利雪を前にすると、怒る気力を失ってしまう。
この間、何故利雪には怒鳴らないのかと、中嗣が拗ねていた。それで怒鳴らずに無視してみたら、今度は怒鳴ってくれていいからとお願いするように言って来たんだ。あれは少し怖かったよ。
「写本の依頼?それとも皆と?」
また下で誰かが待っているのかと思ったが、そうではないと言う。
何か話したそうにしているから、部屋を片付けることにした。仕事は中断だ。
散らかした紙を端に並べると、利雪は素直に空いた場所に腰を下ろしてくれる。
良い子だなぁと、おそらく私より少し年上の彼に失礼なことを思った。
下に居る玉翠にお茶を叫び頼んで、そのまま向かい合って座ることにする。
「先日はまたお守り出来ず。申し訳ありません。お辛かったでしょう?」
蒼錬のことだろう。
「あの程度のことは、何でもないよ」
私は本心から言っているのに、利雪には伝わらなかった。
今にも泣き出しそうな顔は辞めて欲しい。
蒼錬の件はすべて終わったと聞いている。
私のことはいいと言ったので、強姦未遂での処罰はないし、中嗣を殴ったことも不問にしたそうだ。相変わらず優しいと思う。それでも蒼錬が宮中を偽っていた事実は重い。
あの染物屋の脱税の罪だけでなく、事実とは言え、金を渡して見逃すように官を唆した罪まで着せられ、蒼錬は重罰を言い渡された。その罰は、罪人の証である刺青を入れられたあとに、鎖に繋がれ、地方での強制労働。北の灌漑工事で人手が足りていないから、そちらに飛ばされるだろうということだった。
蒼錬が染物屋の身分に戻ることは二度とない。刑罰に期間はあるが、戻る染物屋は存在しないのだから。刺青が入ったことで、街で普通に働くことも厳しいだろう。それに加えて、借金の件があるから、蒼錬はもうこの街には近付けないはずだ。
あれから不思議なことがひとつ。あの絞り染めを使った製品が、街で今も売られていることだ。とある染物屋が、蒼錬がこれを売り出したときから目を付けていたようで、今や蒼錬の店よりもいい商品を多数世に送り出している。一時持ち直したように見えたあの店は、何もなくとももう長くなかったのかもしれない。
そんな私は勝手なもので、責任も感じずに、新しく商品を扱う染物屋に機会があったらどんな技術で染めているか見せていただきたいものだと願っている。私は冷たい人間なのだろう。
利雪に言われ思い出してみたが、すでに忘れていたからね。
そんなことより、利雪の話だ。
「利雪は、何の話に?」
「華月に聞いていただきたい話がありまして。ご意見を頂戴したいのです」
利雪の悩みを相談する相手になった覚えはないのだが。
「どうやら私は家のおかげで、良い仕事しかしていなかったようなのです。華月のおかげで、そのようなことに初めて気が付くことが出来ました。そこで、良くない仕事とやらを回して貰えぬか、中嗣様に頼んでみようかと思っているのですが」
どうしてそれを私に言うのだろう。
とても理解出来そうにない。うん。理解したくないかな。
「中嗣に相談すればいいのでは?」
私よりずっと優しい人の部下になったのだ。私に相談する話ではない。
中嗣なら、自分のことなど省みずに、利雪のために動いてくれる。
「これもまた私の浅はかな考えによる我がままなのではないかと心配になりまして。中嗣様にご迷惑となってはいけないので、相談する前に華月に聞いていただきたかったのです」
これはまた、返しにくい質問である。
何と返そうかと悩んでいたら、利雪の方から「是非、率直なご意見を!」と言って、詰め寄って来た。
この純粋な瞳に見詰められると、適当にあしらうことが出来ない。
それで分かった。利雪は美鈴とよく似ているんだ。私は昔からこの種の期待の込められた美しい瞳に弱い。
「では。失礼ながら。あまりに浅慮だと思う」
言って、後悔した。
利雪が分かりやすく、肩を落としたからだ。
「ごめん、利雪。率直に言い過ぎた」
「いいのです。もっと言ってください」
利雪は項垂れた顔をきゅっと持ち上げて、真剣な眼差しを向けてくる。
これはもう、真面目に答えざるを得ない。せめてもう少し優しく伝えることにしようか。
この美しい青年は、とても繊細で傷付きやすく、見た目通りの可憐な心を持っているようだから。
「浅慮と言ったけど、発想自体は悪くないと思うよ。色々な仕事に興味を持つことは素晴らしいし、経験しないと分からないこともあるからね。それに立派な家にあるのに、利雪がそれを利用しようとしないところは凄く好きだ」
「そう言っていただけると有難いです」
「本心だからお礼はいいよ。それからね、中嗣に聞くだけのことで、その前によく考えられたのも素晴らしいと思うんだ」
「では、何が問題でしょう?」
「利雪は今、中嗣の下にいるでしょう?たとえ利雪がそれを望んでいたとしても、周りの人はどう見るかということで」
利雪はすぐに理解した。あと少し足りないだけで、利雪は本来賢い人である。大事なことを教えられていないだけなんだ。
「つまり周りからは、中嗣様が命じたように見えるということですね。いくら私が悪い仕事というものを望もうと、それは利という家にある私に対しての嫌がらせに見えかねない」
「そうなんだ。それを中嗣は迷惑とは言わないだろうけれどね」
周りはどうでもいいが、利の家がどう思うかは心配である。
今まで大事に守ってきた利雪への扱いが不当だと騒がれて揉めたりしたら……中嗣は上手く対応するとは思うけれどね。
これは中嗣よりも、利雪が望まぬ展開になる可能性を含んでいる。悪いときには、中嗣の下から外されるかもしれない。
「では、これまでと違う仕事を得るには、どうしたら良いでしょう?」
「私が考えるの?」
「一緒に考えてくれませんか?」
案はあったけれど。はたして私が言うべきことか。自分で導いた方が楽しいだろうに。
「うーん。利雪が直接悪い仕事を担当する必要はあるのかな?」
大分遠回しに言ってみたのだけれど。意外と直接的だった?
「それはいい考えです。そうですね。私が担当していなければ、悪い仕事を命じられたなどとは思われません。中嗣様にもこれで相談してみます」
利雪も高位にあるのだから、仕事の見学など容易いだろう。いくらでも理由を付けて、他の仕事を見て回ることが出来る。
良い仕事として、上位の官らしく他官の仕事を視察して回ってもいい。
周りの官の迷惑は知らない。
利雪の悩みが解消されて良かったものだけれど。
私からも伝えたいことがあった。
「利雪。ひとついい?」
嬉しそうにしていた利雪が、不思議そうに私を見詰めた。
いつまでもこの綺麗な瞳を保っていて欲しいものだね。
「この間の蒼錬と私の話は、戯言だと思った方がいい。蒼錬のあれはただの逆恨みだし、私も大概だもの。いちいち気にしていたら、身が持たないからね」
利雪は知りたいと言うけれど、悪い仕事に触れたとき、利雪は官であることを嫌になるのではないか。
愛されて、大切に育った人がどうなるのか、私には分からない。
それは中嗣も同じではないか。
せっかく出来た部下が、中嗣の側にずっといてくれるといいなと思うし、私は意外と利雪を気に入っている。文字に魅せられているとき以外は。
だから、悪いものを受け流す術を早々に身に着けて欲しいと思った。
そんな私の想いは伝わらず、利雪はとても美しい顔で微笑む。
これを見て、倒れる人もいるだろう。美しさも過ぎると、目に眩しく、体に毒だ。
「私は世の役に立つ立派な官になりたいと願っています。どうすれば世の役に立つか知るには、やはり世のことをもっと知らねばならないと思うのです。そのためには、世の良い面も悪い面もどちらも理解する必要があるでしょう。民がどんなことを不満に思っているか、どんなことを望んでいるかを知らなければ、どうすれば世の役に立つかも分からない。だから先日お聞きした話も、戯言としては捉えず、しっかりと受け止めます」
意外と強い人なのだろうか。
麗しい見目に影響されて、利雪自身を見られていないとしたら、私もまた、利雪を大事に守ってきた人たちと同じことになる。
それでも願わくば、この美しい人が永遠に世の中の醜いものに汚されませんように。
心の中で祈った。
世には醜いものが沢山あって、それは慣れた私でさえ、目を背けたくなるものばかり。利雪に耐えられるのだろうか。心配である。