1.弁明しても伝わりません
「胡蝶殿とは、どのような仲なのですか?今日こそお聞かせ願いたい」
宗葉の声は、紅玉御殿の奥まった場所にある一室から。
装飾品を一切置かない殺風景な室内に、この部屋の主の人柄が表れていよう。
三位文官中嗣の所有する部屋のひとつだ。
かつてはなかったお喋りの声もしばしの間は失われていたが、再開されたと聞かれるや否や、紅玉御殿にはある噂が飛び交った。
利と宗の家が中嗣に付いたのは、近々出世が約束されているからではないか、という噂話である。
中嗣など鼻で笑うこともせず流していたが、羅生がこの噂を嬉々としてこの部屋で語り、驚き戸惑う利雪と宗葉を揶揄するのだから。噂とは誠に信憑性の低いものである。
しかしそんな噂話にも飽きた若い官たちの話題は今、妓楼屋に向かった。昼間から、楽しそうなことで。
中嗣は書類から顔を上げず、渋い顔で宗葉の声を聞いていた。
涼しいあの笑みを浮かべないのは、慣れた自室で若い官たちに取り繕う気が失せたからだ。こうも毎日お喋りに興じられると、笑っている自分が馬鹿らしくなってくる。
それであの笑顔が封印されたかと言えば、そうではなく。先もこの部屋に現れた文次官の覚栄を前に、中嗣は凍り付くほど笑ってやった。
仕事を抱える中嗣の部屋には来訪者が多く、特に近頃よく顔を出す文次官は毎度厄介事を頼みに来るので、夢に見て魘されるほどあの笑みを見せられている。
二位である文次官の方が、三位文官にびくびくと怯えながらお伺いを立てている様は、あとで羅生の笑いものになっていた。覚栄という男がすんなりと文大臣になれないわけだ。順当に行くと、文官最上の地位は彼のところに収まるはずだが、いまだ文大臣の座は空席である。
しかし若い官たちは、上司の出世には興味がないようで。
それどころか宗葉など、これ以上出世してくれるなと願っている有様であって。
「中嗣様、本当のところを教えてくだされ」
宗葉は先の答えを聞こうと粘った。
彼がこの場で同じ質問をするのは、もう何度目だろう。
宗葉の意外なしつこさに興ざめしつつ、中嗣はいつもと同じように答えた。
「前から説明している通り、何も知らない仲だ。顔を知っているだけだね」
「そう仰いますが、何度か会ったことがあるだけの仲にはとても見えませんでしたぞ」
まさか、あの女に本気ではあるまいな。辞めておけ。不幸になるぞ。身の破滅だ。
宗葉の向こうに胡蝶を重ね、中嗣は疎ましい視線を向けた。
「ふむ。つまり中嗣様は、かつては遊女遊びに興じていたと。それは上客だったのでしょうな」
羅生が皮肉交じりに言った。
彼のお気に入りが清蘭と名乗る遊女だと宗葉から聞いている中嗣は、羅生がただ自分を揶揄したいだけだと知っている。
「私は遊女遊びなどしないし、するにしても、あれは選ばない」
誰が胡蝶など買うか。
そんな暇と金があれば、中嗣は華月に使う。
「では妓楼屋以外で会っていたと?」
なんとも説明しがたいことであるが、胡蝶とは妓楼屋以外で会ったことはない。
「いや、妓楼屋だけだよ」
「やはり通っていたのですな」
「そうではない。華月と共にいて会っただけだ」
中嗣は事実を言った。あまり偽ると、あとで辻褄が合わなくなる。
「おや?華月と共に妓楼屋へは行かぬ主義かと思っておりましたが」
「忙しくて行けないだけだ」
胡蝶に説教を受けたあの夜以来、中嗣は妓楼屋に足を運んでいない。
だからと言って、華月に会っていないわけではなかった。むしろ以前より、会う機会が増えている。
こうなれば、中嗣はわざわざ妓楼屋に行こうなどと誘わないし、それは華月も同じだった。
しかし、あの夜の華月はかわいらしく酔っていたから、たまには妓楼屋に行くのもあり……
「中嗣様は、華月とはいつからのお知り合いで?」
中嗣のいい気分を遮り、利雪はなお答えにくいことを問う。
聞いた利雪は特に深い意味もなかろうが、宗葉と羅生の方が熱心に答えを待っていた。
中嗣はいよいよ、仕事をしない部下たちを叱ろうと考え、最後の会話にすると決める。この猶予を後で激しく後悔するのだが。
「六年ほど前だよ」
中嗣は二度目の出会いを答えておいた。さすがにそれ以前のことは語れない。
羅生が愉快気に笑えば、中嗣は隠さず顔を顰めた。
それでも羅生の口は止まらず。むしろ余計に軽やかとなる。
「六年前?というと、もしかして……はて、今はおいくつでしたかな?」
これはもう追い出すか。中嗣は考える。
羅生は医官だ。当然、この部屋にいる必要はない。
わざわざ書類などを持ち込んで、平然と仕事を始めているが、出て行けと言うのは簡単。上位の官として命じてもいい。
それを中嗣は躊躇うのだった。中嗣が華月から優しいと言われる所以である。
羅生は正妃暗殺未遂事件の真相がうやむやとなったことと合わせ、羅の家の権威を失ったことで、診療を禁じられていた。羅の家と事件の関連については明言を避けられるも、宮中ではそのように周知されているということである。いずれにせよ、宮中の真向かいに建つ屋敷を焼失するという大問題を引き起こし、一族揃って姿を消して宮中に混乱を招いたことの責任問題は、羅生一人に向かった。
その処罰が、無期限の診療禁止である。
人を診られなければ、宮中にある医官など書類を裁くか、他の雑用を任されるしかない。
羅の家の後ろ盾を失ったことで、黄玉御殿の医官らからの嫌がらせにも拍車がかかり、止められる者もないだろう。そこに三位文官の中嗣が存在すると、少しは羅生の待遇が変わるのだ。
このような背景から、中嗣は羅生を容易に放り出すことが出来なかった。羅生の祖父の顔がちらつくのもある。
中嗣は追い出さないにしても、人目のないところで一度厳しく叱ろうと決めて、とりあえず質問には答えてやった。
「華月なら、十八だ」
「それは知っておりますぞ。聞いたのは、中嗣様の年齢です」
「私の年齢など聞いてどうする?」
「今後のためになりましょう」
「それは君の今後のためか?」
「えぇ。すぐに分かりますぞ」
中嗣からため息が漏れた。玉翠の気持ちが最近よく分かる中嗣だ。
言葉が無駄になる相手には、ため息くらい吐きたくなるもので。
そこで中嗣は、いや、華月は語れば分かる子だぞ、あの子は一つ伝えれば、そこから十を知る子だ、私には玉翠の気持ちは分からないな、と心の中で弁明を始める。中嗣こそ、仕事をすべきだ。
「二十四だ」
中嗣が年齢を伝えると、羅生は大袈裟に驚いた顔をした。
この年齢でこれほどまでに出世したことに対しての感心、であるはずがない。
「ほぅ、ほぅ。それはつまり、六年前にはまだ十二の娘を十八の頃から……」
「待て。それは違う」
中嗣が即座に否定しようと、羅生は大笑いで、宗葉まで一緒になって笑っているではないか。
利雪がにこにこと微笑んでいることには、本当にそういう話になってしまうと、中嗣は焦った。
「違うと言っている。そのような想いはなかった」
あの再会のとき、華月を見て、胸を詰まらせたことは確かだ。
それでもそこに、恋情は一切ない。親愛の情は家族的なもので、それは男女が恋い慕うものとは別のものだった。それにあの日は、あの子に再び出会えた感動でそれどころではなかったのだ。
泣くまいと必死だった。こちらがいくら懐かしく想おうと、あちらにとっては知らない男で、それも嫌いな官だ。会ったばかりで泣かれたら、おかしな男だと思われるし、怖がらせるかもしれない。中嗣はそのときもまた、感情を隠すために涼やかな笑みを顔に張り付けていたのだが、それで華月を余計に警戒させていたとは今も思っていなかった。そして今や、完全におかしな男だと認識されているが、それにもまだ気付いていないのである。
さて、それはいいとして。
こういうとき、何を言っても逆効果となることは分かっている中嗣だが、若い官たちの目に滲む憐憫の念を受け止め続ける気にはなれなかった。
「君たちが言うようなことは一切ないよ。見当違いもいいところだ」
「問題ありませんよ、中嗣様。人の趣味はそれぞれに御座います」
利雪に言われてしまったからには、中嗣は作戦を変えた。
「君たちは手が止まっているね。それほど余裕があるなら、仕事を増やしてやろう」
「お待ちください。あとひとつだけ、お聞かせ願いたい!」
言ったのは宗葉なので、中嗣は意外なものを見るように宗葉を眺めた。
これほどしつこい男ではなかったはずだが。羅生に悪い影響でも与えられたのか。それともまさか、あの女に本気で……
「お聞きしたいのは、胡蝶殿の話です。もしや胡蝶殿とも華月ほどの長い付き合いで?」
中嗣の心がからからに乾いていった。自然潤いとして華月を求めたくなる。
中嗣は最初から胡蝶が苦手だ。
華月と同じく少女であったはずなのに、すでに遊女の顔をして、華月の隣に座り微笑んでいた。
初対面で向けられた射るような視線で攻撃が終わることはなく、中嗣が華月に近付くことを嫌い、初期の頃は遠ざけようとしていた。
何故斯様な女と付き合うようになったのかと嘆きたくもなったが、離れていた時は取り戻せない。最初から側にいたら、まず付き合うことのなかった女であろうが、胡蝶がずっと華月を守っていたことは事実で、華月もよく懐いていると知れば、中嗣は強く出られない。
「そうだね。華月と出会った頃から知っているよ」
だからと言って、懇意の仲ではない。
中嗣としては、最初から一貫して出来れば関わりたくない女だ。
「では、六年も前から」
「君は勘違いしていようが、あれも少女だったのだよ」
「やはり中嗣様はそのような」
「それも勘違いだ」
にっこりと笑う中嗣に、宗葉は青ざめた。少々遊びが過ぎたことを悟る。
しかし利雪はこれまた呑気に言った。
「そのような前から華月をご存知の中嗣様が羨ましいです」
こちらはまだ、書類を眺めているだけいいと、中嗣は思った。
宗葉よ、そろそろ仕事をしよう。羅生だって口と共に目と手を動かしているのだよ。君は気付いていないようだが。
中嗣はそっと心の中で呟き、部下の育て方に苦慮していた。
なるべく他官と馴れ合わず、一人で生きてきた中嗣にとって、部下の教育は難題である。
この男はまた、自分が賢く、出来ない人間の心情が分からないと来たものだから。しかもそれを自分で理解しているので、利雪より宗葉の教育には手を焼きそうだと想定している。
「利雪も勘違いしてはいけないよ。当時の華月は幼く、まだ写本師ではなかったからね」
「いえ。そうではありません。私も以前から知り合っていたら、もう少し学べていたのではないかと思いまして」
部下に成長を願う気持ちがあるならば。
狡猾な方法ではあるが、さて許してくれるだろうか。
中嗣は私情を抑え込むために、またあの涼やかな笑みを顔に張り付けた。
「そう思うなら、もう少し関わってみるといい。仕事に支障がない限り、私は君たちの私的な活動に口を挟む気はないよ」
溌剌と喜ばれると思っていた中嗣だが、予測は外れた。
若い官たちは、意外にも神妙な顔で頷いている。
「それならば、さらに頑張りましょう」
中嗣もまた書類に意識を戻した。
早く片付けて、今宵こそ会いに行こう。待っていてくれるはずだから。