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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第二章 わかつもの
41/221

21.夢から回収されました


「薬湯は眠くなるでしょう?もう少し眠る?それとも粥でも食べてみる?玉翠が美味しい粥を作ってくれたよ」


 腹が空いていた中嗣は、粥を望んだ。

 今日の華月は、普段の様子からは考えられないほどに優しい。

 

 椀から粥をひと匙すくい、またふぅふぅと息を吹きかけて醒ました後、華月はどうぞと言って、中嗣に匙を手渡そうとした。

 そこで中嗣は匙を受け取らず、口を開けたのだ。普段なら罵られるところだから、中嗣もそのつもりだった。


 ところが華月は、一瞬驚いた顔を見せたものの、持った匙を中嗣の口元へと運んだではないか。


「なっ。え?いいの?」

「食べないの?」

「いや、いただきます」


 中嗣の口に、優しい粥の味が広がるも、口内の傷に沁みるから、よく味わえない。

 それでも胸に広がるものが腹を満たし、中嗣はもう何も食べなくても生きていけそうな気分だった。

 平静な顔など出来ず、頬はどこまでも緩むのだが、痛みと麻痺のせいでなんとそれは巧妙に隠された。

 おかげで華月は次の粥を中嗣の口に運ぼうとする。中嗣は嬉しくも、戸惑った。いや、照れていた。


「傷に沁みた?」

「少しね」

「辞めておく?」

「いや、食べたい。いただくよ」


 にやけた顔をこうも隠すことが出来るとは。

 中嗣は喜びながら、餌を待つ雛鳥のように口を開けた。

 腫れのせいで口元も緩み、涎だの粥だのがだらしなく零れてしまう中嗣だったが、華月はそれも布巾で優しく拭っていく。


 中嗣は、幸せの中にある。


 風邪を引いたとき、中嗣はいつも紅玉御殿の部屋にいた。一人で寝るのが常で、華月から見舞いの品は届くも、今日のように介抱されたことはない。

 それも次からどうなるか。どうせ寝込むなら、写本屋に来てしまおうかと考え始めた。

 そこで、いや、風邪を移したら大変だから、やはり怪我のときが最適だな。

 もっと怪我をするように……などと馬鹿げたことを考え始めていることも知らず、中嗣が次の粥を待ち、口を開いたところに華月は言った。


「ねぇ、中嗣。ずっと考えていたんだけれど、もうあの約束を知っている人もいな……」


 カタン。

 突然の物音に、華月の声が止まった。


「そのように楽しそうに過ごされているとは。仕事を放り投げて、結構なことですな」


 羅生である。相変わらず、中嗣にとっては最上に憎らしい顔で笑っていた。


「放っておいていいよ、華月。何か言い掛けていたね?」

「うぅん、なんでもない。羅生、来てくれてありがとう。さっき痛み止めの薬湯を飲んで貰ったところだよ」


 華月がすんなりと突然現れた羅生を受け入れるのは、どうしてか。

 中嗣は疑うように羅生を見やったが、何も伝わっていないことが分かる。

 にやにやした締まりのない顔を見て、中嗣ははたと気付いた。


 この部屋の襖はいつも開け放たれていて、廊下との仕切りがない。

 音を立てぬよう階段を上ってきたが、一体いつから……いや、気配はなかった。さすがに私は分かるだろう。まさかずっと見ていたなんてことはあるまい。

 しかし音が出るまで気付かなかったのは事実。華月と楽しんでいたからだろうか。


 中嗣が考えている間に、羅生はどんどん近付いてきて、中嗣の前に腰を落とす。


「酷いお顔ですな。口の中を見せていただきますぞ」


 痛いというのに、無理やり口を広げら、口内を観察された中嗣は、不機嫌に眉を歪めた。

 べたべたと頬を触られ、気分が悪かったのもあるが、羅生がこの場にあることから気に食わない。


「すぐに治りますぞ。腫れもあと二日もすれば引くでしょうな。しばし痣は残るやもしれませんが、中嗣様にはちょうどいいでしょう。口内の傷に効く薬湯を出しておきますから、朝晩と飲んでくだされ」


 嫌な顔をしたけれど、華月に睨まれ、黙って頷く中嗣だった。

 この睨む顔さえ、中嗣には可愛く見えているのだから、病気かもしれない。


「さてさて、せっかく頼まれていた羊羹を買って来ましたが、粥を食べられるようですし、必要なかったですな。これは私が頂きましょうか」

「私のために頼まれたものだろう。君が食べることはない」

「食欲もあって結構。すぐに治りましょうな。なかなか帰らぬ中嗣様のために、はるばる宮中から見舞いに来たのですから、私も頂いて構いませんね?」


 羅生は手際よく羊羹を切り分け、華月や玉翠の分もと提案するも、華月が即座にこれを断った。

 驚いた羅生は「遠慮は要らぬぞ」としつこく言うので、中嗣から説明することになる。


「華月は甘いものが得意ではなくてね。玉翠もそう好みではないのだよ」

「そうでしたか。それであの喜びよう」


 中嗣は羅生をここにないものと捉えることにした。

 華月だけを見ようと決めるも、華月から迷惑そうに顔を逸らされる。何故だ。


「羊羹は美味しかった?」


 顔を背けながら言われて、中嗣は笑った。薬湯が効いたのか、笑っても先までより痛みが少ないと気付く。


「あれは美味かったぞ。ねぇ、中嗣様?」


 何故先に答えるのかと、中嗣は羅生を睨み付けるも、羅生を喜ばせるだけだった。


「華月から言われた通りにことが運び、あの日は面白かったものだ。今度何かあれば、また言ってくれ」

「駄目だよ、華月。こんな男と付き合っていたら、君が穢れる。羅生など通さなくていいから、直接私に渡してくれ」

「え?穢れる?」

「はは。中嗣さまのお怪我は、頭の方にも影響しているようですなぁ。まだ宮中に戻られない気なら、寝ておいたらどうです?」


 中嗣は息を吐いて、それからしばらく振りに涼やかな笑みを張り付けた。


「ことは上手く運んだか?」

「初期段階は。しかし中嗣様には言いたいことがたんまりとありましてね」

「聞くだけは聞いてやろう」

「そう言わず。まずは部下のお二人をどうにかしてくだされ。あれでは使い物にならぬどころか、邪魔です」

「あぁ……」


 宗葉に頼んだのは、無謀だったか。

 中嗣は諦めと予測で、眠って晴らしたはずの疲れを強く感じた。


「ここで改めて思い出していただきたいのですがね。私は医官でして」

「知っているよ」

「それは結構ですが、文官様の領分で発言する難しさもご理解いただけると有難いですなぁ」


 中嗣は華月を送るという理由で、蒼錬の連行から初動の対応を羅生に任せた。

 もちろん、中嗣はこれから宮中に戻って自ら動く予定であるし、羅生に蒼錬含めた関係者の処分までさせるつもりはない。この処分対象者には、蒼錬を逃がした武官までも含まれる。


 この件とは別に、中嗣が不在というだけで、通常の仕事も滞っているだろう。

 たったの一日ではあるが、それは恐ろしいことになっていると中嗣には容易に予見出来る。

 それでも中嗣はまだ少しここに居たかった。

 羅生が来た意味をよく理解してもなお、もう少しと願ってしまう。


「許せるのは、もうひと眠りまでですな。武官らが処分不要と申しておりますし、あの文官も面倒な上司が付いておりましてな。あのような些末なことに処分が重過ぎると抜かし始めましたぞ」

「どうしようもないね」

「えぇ。さらにどうしようもないことに、中嗣様の部下のお二人が、どちらにも同調しておりまして。悪いのは蒼錬で、文官も武官も巻き込まれただけだという主張に頷いたのです。あの者たちは愚鈍ですか?」


 中嗣がため息を漏らしたとき、華月からふっと笑みがこぼれた。

 これで中嗣は癒されてしまう。


「まだ私は育ててもいないものでね。あの二人は今後に期待しておいてくれ。さて悪いけれど、もうひと眠りを許す気があるならば、戻って時間稼ぎをしてくれないか?」

「ここまで聞いて、もうひと眠りする気があると?」

「……華月。終わったら、戻ってきてもいいか?」


 逃げないでくれるか?と中嗣は聞いている。

 華月の機嫌は悪くなかった。笑っているのだから。


「いつもの仕事は?」

「それこそ、宗葉らに任せよう」

「任せられるの?」

「うっ。しかしまだ怪我もあるし……」

「もう逃げないから、落ち着いてから来るといいよ」


 その緩んだ笑顔に、羅生は呆れ、華月は笑った。

 褒美を得た犬のようだな、と羅生がひっそりと思っていることを中嗣は知らず、緩み切った顔で笑っている。



 ◇◇◇



 粥を食べ終え、羊羹も味わい、それから用意を整えて、中嗣は名残惜しい気持ちで写本屋を出た。

 その前に再三、また来ると言って、今度こそ華月を呆れさせたが。

 早く行けと叱られたときには、いつも揶揄う羅生も、中嗣に白い目を向けていた。さすがに飽きた。


 官らは無言で歩いた。

 中嗣は珍しく話をしない羅生の横顔を見やる。何を考えているのか。外だから会話を控えているのかもしれないが、無言の羅生は不気味だった。


 羅生はどこまでのことを知っているのだろう。

 羅賢殿がすべてを語ったとは思えないが、何も知らずに華月と付き合っているというのも考えにくい。

 当時の年齢を考えると、羅生は知らないはずだが、羅の家にあれば噂くらい耳にしている可能性はあった。


 宮中にいる利雪と宗葉はどうだろう。

 まず彼らは羅の家の件をどう捉えているのか。納得しているとは思えないが、こちらの事情を察してはくれたのだろう。あれ以来、何も聞いてこない。


 中嗣はなお考える。


 羅賢殿と華月が妓楼屋で知り合った友人などという戯言を、利雪らがどれだけ信じているかも怪しいものだ。

 利と宗の家は関わらなかったし、彼らの年齢的には()()()()()()()()()。それでも私たちの繋がりを何かしら疑っているのではないか。

 宗葉はどうか分からないが、利雪は妓楼屋での戯れから華月に辿り着いたというくらいには、賢いはずだ。字への興味が深過ぎるだけではない……と思いたいものである。初めて取った部下なのだから。


 いずれにせよ。

 早急に部下を育てなければ。


 中嗣は身を翻して、写本屋に戻りたい気持ちに耐え、暗雲立ち込める宮中へと歩みを進めた。

 三位の文官様は、長く幸せに浸かってはいられない。




二章これにて終了です。

読んでくれてありがとう。

三章に続きます。

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