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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第二章 わかつもの
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20.相弟子は手を取り合って育ちましょう


 墨の香りにくすぐられて、中嗣は眠りから目覚めた。

 時折紙が擦れる音が、柔らかく、耳に心地いい。


 隣の部屋では華月が仕事をしていた。中嗣は起き上がらずに、しばらく眺めることにする。


 利雪のように、字に対する執着はない中嗣だが、華月が写本をしている様は美しいと感じる。

 川の流れのように濁りなく無駄が省かれた動作は、風に舞う木の葉のように自由であり、型通りの古典的演舞のようにも見える。時折揺れる髪の毛先まで意思を持って華月の写本を支えているように、すべてがまとまっていた。


 はたと筆の動きが止まった。見られていることに気付いたかといえば、そうではない。

 華月は何かぶつぶつと言いながら立ち上がると、壁際に積まれた書の山の前まで四つん這いで移動して、それからしばらく頭を掻いていた。「あれ?どこに行ったかなぁ?」という可愛い声が中嗣だけに届く。


 山の下の方から一冊の書を取り出したことで、上に積まれた書が崩れそうになった。華月は慌てて上部を押さえて、書の山を立て直す。

 横着でしかないが、中嗣は可愛いと喜んでいた。恋は盲目だ。


 華月は視線にも気付かず、中嗣に顔がよく見えるように座ると、ぱらぱらと書を繰っていく。

 目当ての頁を見付けたのだろう。手は止まり、しばらく文字を追っていた華月が不意に笑った。それはふわぁっという息を吐くような独特の笑い方だった。


 中嗣はこの笑い方が好きだ。好きだけれど、たまにしか見られない。

 記憶に刻もうと、もはや凝視している中嗣にはなお気付かず、華月は立ち上がり、文机の方へと移動した。


 文机に戻ると、中嗣からは表情を確認出来なくなったが、華月が小さな紙を眺め、「沃准さまだものね。このまま大人しく写しておくかな」と呟くと、中嗣には華月が何をしているのか推測出来た。


 それからもしばらくの間、中嗣は字を書き続ける華月を眺めた。

 しかし眠気が舞い戻り、うつらうつらと意識半分で華月を見ていたら、いつの間にか華月は片付けを始めていた。写本は終了か。


 ふいに二人の目が合う。


「ごめんね、起こしちゃった?」


 中嗣に近付き、顔を覗き込んだかと思えば、手も伸びた。

 頬に手を置かれ、華月らしからず優しい顔で微笑まれると、それだけで中嗣の熱は上がる。


「まだ少し熱を持っているね」


 寝ているようにと言葉を残し、一階に降りて行った華月は、すぐに戻った。両手には、水を溜めた盥を抱えている。

 急ぎ体を起こし手伝おうとした中嗣は、叱られて布団に戻った。


 置いた盥に手ぬぐいを浸し、持ち上げてそれを絞ると、華月はそっと腫れものに触るかのように、実際に腫れているのだが、中嗣の頬に手ぬぐいを添えた。

 そのまま手首を掴み体ごと引き寄せたくなった中嗣だが、汲みたての井戸水はよく冷えていて、中嗣の心まで落ち着かせた。


「気持ちが悪いとか、頭が痛いとかはない?大丈夫?」


 声を出そうと口を開いた時、顔の左側に違和感があって、中嗣は己の状況をよく理解した。

 口の中にはまだ血の味が残り、殴られてやるにしても、もっとやりようがあったことを反省する。


「酷い顔かな?」


 情けない声で中嗣が聞くと、華月は少し笑ってから、悪戯をした子どもを咎める母のような厳しい顔を作って見せた。中嗣は喜ぶだけなのだが。


「中嗣は殴られることに慣れていないんだから!」


 心配になるようなことを言わないで欲しいものだと思うも、話すと少々疲れる状態にあって、中嗣は黙った。叱られて喜びたかったわけでは……ないはずだ。


「殴られるときは……そんなときが二度もあったら困るけれどね。口の中を切らないように、歯をきつく噛んでおくの。それからね、吹き飛ばされた方が楽なんだよ。男の人は耐えたくなってしまうのかもしれないけれど、中嗣なら体が楽な方を選べるでしょう?あぁでも、転がるときには、怪我にも気を付けてね。場所を考えて飛ぶことだよ」


 以前あの男に思い切り吹き飛ばされた意味を知る。

 わざと転がって力を分散させていたのか。それでかえって遊女たちを焦らせてしまうことまでは、計算出来なかったのだろう。というより、それは防ぎようもなかったのだな。

 あの男は一度殴らせないと収まらない。華月もそう思ったから、私と同じようにしたのだ。

 

 そこで大事なことを思い出し、中嗣は思考を止めた。

 華月は昨日も殴られている。


「華月は大丈夫?怪我はどうだ?」

「怪我はなかったでしょう?私はちゃんと飛ばされたからね」


 叩かれた場所である側頭部を指して、華月は得意気に言う。

 得意気に語ることではない。

 そもそも説教の仕方がおかしい。


「中嗣はまだ痛むでしょう。今、痛み止めを……」


 中嗣の素直な感情は、この部屋では隠されていなかった。

 華月はまた少し笑うと、待つように言って、下に降りていく。


 華月が去ると、中嗣は体を起こした。顔だけに熱を感じ、違和感もそこだけで、体は辛くない。それは当然だろう。殴られたのは顔のみだ。

 傍らに昨夜はなかった毛布が畳まれて置いてあることに気付き、至極都合のいい想像をして、中嗣は頬を緩ませるも、痛みでまた酷い顔になった。


「お待たせ。起きて平気なの?」

「あぁ、大丈夫。それは?」


 華月は何故か盆に二つの湯呑を乗せて戻ってきた。

 ひとつは明らかに昨夜中嗣が飲まされた痛み止めの薬湯だ。とてつもなく苦くて不味い。しかも眠くなる副作用付きである。


「先に、こっちを一口。ちょっと待ってね」


 薬湯でない方の、透明な液体の入った湯飲みに、ふぅ、ふぅと息を吹きかけながら、華月は湯飲みに添えた匙でぐるぐると中身を掻き回した。


「もう大丈夫かな。はい、飲んで」


 手渡された湯飲みを中嗣は凝視していたが、「早く飲んで」と言われて渋々と口を付ける。

 中嗣はその味に驚き、それでまた痛みに顔を歪めた。こういうときほど、あの作られた笑顔でも張り付けておけばいいものを、それが出来ない残念な男が中嗣だ。


「はちみつを溶かしたものだよ。はちみつも傷にいいからね」

「なら、これだけで」

「駄目。さぁ、こっちも飲んで。その後にまたそれを飲めば、苦いのも忘れるよ」


 華月に抵抗出来る中嗣ではない。

 嫌々ながらも、中嗣は苦い薬湯を飲み干した。

 何故こうも不味い薬しかないのだろう。甘い薬を作ったらそれだけで大富豪になれそうな気がするのに、誰も挑戦しないのは何故だ。羅生が甘い薬を開発したら、私は彼を医大臣に推そう。などと、戯言を考えながら、急ぎ甘い湯飲みに手を出した。


 どちらの湯飲みも空にしたあとには、まだ若い官たちの知らない文官様の得意気な顔。

 破顔した華月の手が伸び、中嗣の頭を撫でた。「偉いねぇ」と言われたときには、中嗣は祭りのときに出会った子どもの顔を思い出す。

 華月はあの子をどうしたのだろう。


「中嗣、ごめんなさい」


 中嗣の思考はぴたと止まった。

 華月の手が頭から離れていく。


「どうした?この怪我のことならば、君のせいではないし、元はと言えば……」

「違うの」


 中嗣の前には、いつもより大人びて感じる華月がいた。

 急に漂う淋しさは、中嗣の胸をちくりと刺す。華月から漂うそれではない。


「私も蒼錬と同じだったの。中嗣には関係ないのに、ずっと八つ当たりをしていました。ごめんなさい」


 深々と頭を下げられて、中嗣は一層感じる淋しさを強めた。


「急にどうした?」


 中嗣がそう言ったのは、謝罪を流したかったからだ。いいよと許せばそれで華月が満足すると分かっていても、それが出来るほどに大人ではなかった。


「蒼錬を見ていたら、私も同じだと分かって」

「君は違う。あんな男と同じところにはない」

「うぅん。同じだったの。それで、こうやって生きていたらいけないんだと思った」


 華月は頑固だから。

 中嗣はふぅっと息を吐くと、痛みを飲み込み、微笑んで聞いた。


「八つ当たりの理由を聞かせてくれるかな?」


 謝罪したのに、どうしてここで悩むのか。中嗣の手は自然、華月の手へと伸びる。

 握り締めたら、華月の笑顔の質が変わった。悲しそうに眉を下げ、泣きそうに笑う。


「中嗣に余計なものを増やしたくないよ」


 それは中嗣が最も言われたくない言葉だった。

 中嗣は優しく微笑むと、手を握り締めながら、わざと明るく言った。


「華月は分かっていないなぁ」


 急に幼さを含んだ華月が、首を傾げる。中嗣にはこれが愛しくて堪らなかった。

 まだ華月はこれでいい。


「華月は、私がそれだけのものを抱えられる男ではないと言うの?」


 淋しそうな笑顔を見せられ続け、中嗣は華月を抱き締めたくなった。

 それでももう少しだけ、顔を見ていたかったのだ。


「祭りのときに会った男の子のことを覚えている?播と名乗った男の子だよ」


 ついさっき思い出したばかりである中嗣は、それを言わずに頷いた。


「その子がね。少し後に河原の大きな木に吊るされていたんだ」


 みなまで言わなくても分かり、中嗣の繋いだ手は華月の体を引いた。

 華月もここでは誰もいないせいか、暴れない。


「ときどき、世の中の悪いこと全てが、私のせいに感じる」

「それは……」


 中嗣が違うと否定する前に、華月の言葉が重なった。


「違うと言うのでしょう。それも分かっているの。私がこんな考えを持つことはおかしいって。元からそんなに偉い人ではないもの」

「知っていて、何もしないのは私も同じだよ、華月」

「中嗣とは違うよ。私は本当の意味で知っているのに、何もしないんだから。蒼錬が言った通り……」

「それも違うよ、華月。君はあの男とは、同じにならない。なぜなら君は、あの子()()を助けようとしただろう?」


 華月が顔を上げた。

 抱いているから、顔の距離が近い。


「どうして分かるの?」

「君のことは分かるよ」


 華月はすぐに俯き、中嗣の胸にその顔を押し付けた。その状態で語る。


「祭りのときに地方から集まって来る子たちだったよ。私が様子を見に行ったのが遅くて、もう立ち去った後だった。あの子は失敗して姿を見られていたから、あえて置いて行ったんだと思う」

「一人を犠牲にして逃げたか」


 組織的な犯行だろう。おそらく子どもたちをまとめる大人が一人は付いていたはずだ。

 祭りの混雑に乗じて、盗みを働かせる。それは祭りを楽しむ側だけでなく、出店にも被害は及び、いくつかの報告が宮中にも上がっていた。

 見廻り役の武官らの責任となるが、被害が民ばかりなので、厳しい処分が下ることはない。ただ来年はもう少し警備を厳しくしましょうね、という話を毎年していることに、中嗣も辟易しているが、それで対策を取って来なかったのだから、中嗣もまた何も言えた立場にはなかった。


「もっと優しく介抱してあげたら良かったのかな。あの場で無理やりにでも連れて帰ってしまえば良かった。美味しいものを沢山食べさせて、それで仕事も見付けてあげて……どうして何もしなかったんだろう。そのまま逃がしてしまったんだろう。そう思ったら……」


 中嗣の腕に力が籠る。


「ごめんなさい、中嗣。中嗣には関係ないことなのに。中嗣が優しいからって、いつも怒らないからって、それに甘えて八つ当たりしていたんだ。中嗣はそういう官ではないのに、一括りに官のせいにして、逃げたかっただけなの。蒼錬と同じだと分かったでしょう?本当にごめんなさい」


 どんなに優しい言葉を掛けても、華月の助けにはならない。

 それを分かった中嗣は胸を詰まらせながら、やはり明るく言った。


「私は嬉しかったよ、華月。だから、いくらでも八つ当たりしてくれていい」


 華月がまた顔を上げたのだが。


「え?嬉しかったの?」


 怪訝な顔で中嗣を見ていた。


「あぁ、君が構ってくれるなら、何でも嬉しいからね」

「怒られて嬉しいの?」

「そうだな。君にならいくらでも怒られたい」


 何か間違えていく中嗣だった。一層眉間の皺を深めた華月は、「本当に怒っているときはどうしたらいいの?中嗣にはどんなお仕置きが効くの?」と真剣に悩み始めている。


「君に逃げられることが一番堪えるね」

「あ、ごめんなさい」

「やっぱり逃げていたよね?」

「ごめんなさいって言ったよ」


 中嗣は穏やかに微笑んだ。頬は痛んだが、それよりも笑いたかった。

 華月も一緒になって笑っている。

 これで二人の間にあったわだかまりは、すべて流れてしまった。


 笑い終えたあとである。


「中嗣に聞きたいことがあったの」

「うん?なんだい?」


 離れようとする華月を腕に押しとどめて、中嗣は聞いた。


「あの人が、逃げる振りを続けるのは辞めるようにと言っていたの。逃げる振りもよく分からないけれど、それを辞めたなら、私は何をすればいいと思う?」


 今の私に一人で出来ることなどないのにと、華月はどこか上の空で続ける。

 残したものを有難く受け取れと言われているような気がして、中嗣は頼られたことを心から喜べなかった。


「私の仕事を、少し手伝ってみないか?」


 どうしてか。言いながら、中嗣は苦虫を噛み潰したような気持ちになっている。

 華月を宮中から遠ざけたいと常々思ってきた中嗣は、華月の苦しさを軽減させる他の方法を知らなかった。おそらく華月が見付かった、あのときから、それ以外に道はない。


「中嗣の方がずっと賢いのに?」


 私に何が出来るのかと、華月は問う。

 華月に出来ることがいくらでもあることを、中嗣はすでに知っている。


「私にも足りないものが沢山あるよ。いくら学んでも、足りないものは増える一方で、完全には程遠い。華月の知恵で、それを補って貰えないかな?」


 腫れた頬のせいで、中嗣の言葉はところどころ締まりのない発音になった。

 それでも華月は笑わずに、真剣な顔で考え込んでいる。


「すぐに答えなくていい。ゆっくり考えて」


 華月は頷くと、それから微笑して、「ありがとう」と言った。

 素直過ぎるのも悪くないと中嗣は思い、華月を力いっぱい抱き締める。

 それから中嗣は、苦しいから離せと背中を叩かれるまで、華月の温かさに癒された。



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