3.妓楼屋
宮中の南門から出て、南大通りを東に進む。瑠璃川に掛かる南大橋を渡れば、花街は目の前だ。
やって来たのは、花街でも格の高い三大妓楼屋のひとつ、『逢天楼』。
煌びやかな店の前で、小柄な客引き婆が、彼らにすり寄りこう言った。
「お兄さんたち、宮中の御人だろう?気高い御仁にぴったりの上等な娘がいるよ」
さすがは花街の客引き婆だ。目が肥えている。
高貴な絹織物の衣装を見れば、彼らが何者かなど、すぐに分かってしまうのだろう。
宗葉はその婆の耳に顔を寄せると、胸元から金子の入った風呂敷包みをちらつかせつつ、小さな声で耳打ちをした。
通い慣れているのか、それとも度胸があるのか。
「医者ではないが、医に長けた者とやらに会うには、どの遊女がいいんだ?」
上客と見做されたのだろう。それとも、それは合言葉だったのか。
客引き婆に導かれて逢天楼の広い玄関に入ると、若い男が丁寧に頭を下げて、二人を出迎えた。長髪を後ろでひとつに束ねたその男は、汚れも継ぎもない木綿の長衣を纏い身綺麗にしているおかげで、花街で働く男であるのに見苦しいところは一切ない。背も高く、長衣の上からも分かるほどに筋肉の付いた引き締まった体は、若いが故というよりも、良く鍛え上げられているのではないか。体付きは、武官のそれに近いものがあった。この男が妓楼屋の番頭を名乗ったから、花街で生き抜く男に必要なものは、強靭な体と腕力なのかもしれない。
利雪らにとっての驚きは、彼らとあまり歳の変わらない若い男が、三大妓楼屋のひとつで番頭を務めていることであった。こういう生き方もあるのだと、特に利雪は呆然とする程の衝撃を受けている。彼は官らしい生き方をしてきたから、花街という世界で生きる男があろうとは知らなかった。
「お履きの物をお預かりいたします」と言った下足番の男などはさらに若く、なお利雪を驚かせた。この少年は十歳を少し過ぎた頃ではないか。彼は出世すると、いずれ番頭にでもなるのだろうか、と利雪は少年の将来を勝手に想像し応援していた。そんな容易い世界ではないことを、品行方正に守られて生きてきた利雪が知るはずもない。
番頭は、新規客であり若過ぎる二人にはおよそ有り得ない、逢天楼でも一等の部屋に利雪らを案内した。本来は一見の若い客など通す部屋でもないし、一見の客はまず逢天楼の玄関を通ることも適わないことの方が常なのだが、利雪はもとより、宗葉もこれを知らず、ただ案内されるに身を任せ、その部屋に足を踏み入れた。
二階のその部屋の壁は、派手なえんじ色の土壁であったが、それよりも二人が目を奪われたのは天井である。二人が思わず顔を上げたまま、ほのかに口を開けて呆けるほどに、天井に張られた細かい格子枠の中で、染料を惜しまずに描かれた四季折々の花々が美しく咲き誇っていた。
梅、桜、藤、菖蒲、牡丹、菊、椿、蘭、桔梗に撫子、百合、鈴蘭……と花の種類を数えながら、これは美しいが何故天井に……と考え始めてしまった利雪は、すぐに思考を止めることになる。しかし、もう遅かった。考えぬようにしても、利雪の耳が赤く染まっていく。
一方の宗葉は、隣で同じことを想像しながら、少々官らしさの足りない気の抜けた笑みを零した。
二人は待つように言われ腰を下ろし、しばし黙る。若い二人には、その沈黙が緊張感を誘った。遠からず聞こえてくる宴の華々しい声が、意識をいくらいつもの宮中へと引き戻そうと、ここが花街であり、妓楼屋であることを語ってくれる。
二人の緊張感はいよいよ沈黙と共に膨らみ、可愛らしい鈴の音が鳴ったときには、二人とも体を強張らせてしまったくらいだ。宮中のあの鈴の音に慣れ、動じることを忘れた二人であったのに。しかもあれとは違い、耳にこそばゆい可憐な音だ。男二人が驚くような煩い音ではない。
襖が開くと、そこに美しい遊女が一人。その豪華な衣装からすれば、この妓楼屋では上等の遊女であろうと、妓楼屋など知らぬ利雪でも思い至った。しかも遊女の後ろには、幼い禿が二人も付いていたのだから、間違いなく安く買える遊女ではない。禿達は背丈から十歳前後であろうと分かるが、おしろいを塗り、口に紅を引いたその容姿と、子どもらしからぬ落ち着いた所作のせいで、もう少し歳を重ねているようにも思えた。
「お初お目に掛かります。胡蝶と申します。どうぞ、良しなに」
遊女が丁寧に頭を下げると、二人の視線は衣装によって強調された胸元に集中してしまう。宗葉は当然のことながら、利雪とて、そういう若さは持ち得ていた。
利雪は女性が得意ではない。それでも、そういう類の欲というものは、好き嫌いに寄らず自然発生するものなのだろう。女性が苦手でも、女性に興味がないことはない。
胡蝶と名乗った遊女は、禿たちより先に部屋に入ると、二人の前へと座った。どの動作にも無駄が一切なく、流れるようで、それだけで「ほぅ」というため息ともつかない声が宗葉から漏れる。宗葉の視線は相変わらず胡蝶の体を彷徨いながら、あるところに戻る、というのを繰り返していた。
「さっそくですが……」と先に正気を取り戻した利雪が本題に入ろうとすると、「それはあまりに無粋というもの」と言って、胡蝶は仕出し係の女が運んできた盆から徳利を持ち上げた。まずは酒を飲めというのだ。
宗葉も盆から盃を取ると、有難く胡蝶から酌を受けるのである。やれやれと思っていた利雪の隣にも、遅れて現れた遊女が座った。彼女は美鈴と名乗り、利雪に酒を勧めるのだ。女性が苦手でも、酒に関しては問題がない。利雪もまた、盃を受け取って、有難く美鈴から酌を受けることにする。
利雪はすぐに唸った。一口飲めば、それが上等な酒であることが分かったからだ。口の中にほのかに残る甘さは、彼の好みによく適う味である。
しばらく天候ややって来た西国の商船の話などに興じたあと、利雪は本題に入ることに決めた。向かいで酒と遊女に酔い始めた宗葉を見て、早くしなければ別の問題が生じると察したからだ。
「医者よりも、医に長けている、医者でない者をご存知でしょうか?」
利雪は言いながら、自分でも何を言っているのかよく分からなくなって、少し笑った。
胡蝶は「何かの謎かけかしら?」と言って微笑むばかりだったが、利雪は彼女に頼ろうと決めていた。この場にあって最も権威を持つ者だと踏んだからだ。
「私たちは、そのお方から教えを乞いたいと願っています」
「どなたか助けたい方がいらっしゃるのかしら?」
つまり、そのよく分からぬ医者でない者を知っているということなのだろう。
肯定をするつもりはないが、否定もしないということは、そういうことだ。遊女には、客に対する守秘義務がある。
利雪はしっかりと頷いた。
「えぇ。大事な御方を助けたいのです」
「あなたの大切な人?」
まさか、と言って、強く否定しておく。認めずとも、そのように誰かに受け取られてしまっては、正妃に対して無礼千万である。
胡蝶はしばらく微笑んでいたが、やがて言った。
「あなたの大切な人のためならば、望ましいことも有り得たかもしれませんわね」
利雪は何かを失敗したらしいと悟り、この失態を取り戻そうと、もう少し謎かけを続けることにした。
「個人としての小さき世界で、大切かと問われれば、大切と申すわけには参りません。しかし全体としての私にとっては、至極大切な御方に違いないことも事実です。大切なればこそ、その御方を心から助けたいと願いまして、今宵は私のような未熟者には到底釣り合わぬ格式高い妓楼屋に、恥を忍び、足を運んだ次第に御座います」
胡蝶は可憐な声でしばし笑った。笑い声さえ、よく計算されているのだろう。臓腑に沁み込むその声を聴くだけで、心奪われる者はこれまでにいくらもいたのではないか。今や宗葉も、その一人だ。
ひとしきり笑い終えた胡蝶は、ゆっくりと立ち上がる。重ねた衣装は素敵だが、重たそうで、あれでは肩が凝るだろうにと利雪は勝手に憐みを感じた。
「楽しいお話の途中に申し訳ありません。今宵は先客もありまして。すぐに戻りますので、こちらでお待ちいただけるかしら?」
胡蝶が美鈴だけを残し衣擦れの音と共に禿たちを連れて出ていくと、代わりに清蘭という遊女が部屋に加わった。
約束なく、急に来た新参者だ。贅沢などは言えない。
おかげでゆっくり酒が飲めて、利雪には有難かった。利雪の隣に座る美鈴は、女を押し付けるようなことをせず、静かに酌をしてくれたからだ。
宗葉は胡蝶が消えて最初こそ残念そうだったが、新しくやって来た清蘭に上手いこと宥められて、ご機嫌だった。饒舌となった宗葉が余計なことを口にしないかと、利雪は心配していたが、それでも口を挟まず、静かに酒の美味さを堪能し、改めて天井を眺めていた。宮中の庭園に咲き誇る花々の美しさを知っている利雪は、天井の絵から偽りを感じられるほどに冷静さを取り戻していた。
いつの間にか、四半刻ほど経っている。酒の席の時は早い。
再び胡蝶が現れると、利雪は部屋に独特の優美さが広がって行くのを感じた。まだ美鈴と清蘭には出せぬ、芳しい花の香りを思わせる色気が、部屋の隅々まで充満していく。女性が苦手な利雪でも、一等の遊女が醸し出す雰囲気には感心するところがあった。
何の前置きもなく、待たせた詫びさえなく、胡蝶は言った。
「明日はお暇かしら?」
利雪には、とても有難いことである。感謝の意を込め、神妙に頷くと、胡蝶はさらに言った。
「それでは明日、治したい者を診たお医者様とお越しになって」
「それは少々……」
これは利雪の望む展開ではない。宮中の内情を外に漏らすわけにはいかないからだ。その者には、是が非でも宮中に来て欲しい。口止め料も含めて、礼ならばその者が望むだけいくらでも用意するつもりだった。
ちらと横目で見た宗葉は酒に飲まれ、もはや役に立たない体たらくに成り下がっている。
利雪一人で、どうにか思惑通りにことを導かなければならない。利雪よりずっと大きな体をしている癖に、利雪より酒が弱い宗葉をひと時恨みながら、彼は思った。偽名でも使い、どこかの商屋の放蕩息子の体でやって来ればよかったのだ。官位を示せば何とでもなるだろうと考えていた浅ましい自分の一面を知り、彼は酷く己を恥じた。
そんな利雪の考えを読み取ったのか。胡蝶は実直で美しい青年に、姉のような優しい微笑みを向けていた。それは遊女のそれではない質のものではなかったか。
「どこのどなたの具合が悪いかなんて、お聞きしませんわ。そんなもの、誰でも構いませんもの」
利雪は大人しく先を待った。これから彼女が最も大事なことを伝えてくれると分かっていたからだ。
「症状と治療について、分かる者を連れていらっしゃい」
それから胡蝶はいくばくかの注意事項を付け加える。
医術の話を聞いて、よく理解出来る者でなければいけないわ。最も賢い医者を連れて来た方がいいわよ。
「そうしないと、明日はとても無意味な夜になるでしょうね」
意味深な言葉を添えて。遊女は艶やかに微笑んだ。