18.あなたの言った通りに
※襲われる描写があります。苦手な人は避けてください。
昨夜はよく眠れなかった。
気分が晴れない。
玉翠はなんだかいつも以上にうるさかったけれど、朝餉の後で隙を見て家を出た。
今日こそは彼に話を聞いて貰おうと瑠璃川を北上したが、姿は見えず、仕方がないので例の橙通りの茶屋に向かうことにする。
今日は曇天。
分厚い雲は陽光を遮り、今にも雨が降り出しそうだ。
いつもの茶屋には、すでに数人の客がいた。
朝餉を取っている客が多いものの、この時間から酒を飲んでいる客もある。
朝餉は食べてきたので、酒だけを注文した。
本当に何をしているのだろう。嫌なことに、せっかく忘れてきたものまで、思い出していく。
あぁ、嫌だ。許されるならば、遠くへと逃げてしまいたい。
不意に目の前に人気を感じた。
顔を上げると、最悪な人がいる。
「昨夜の無礼を謝りたい」
蒼錬から願い出るとは思わず、すぐに言葉が出なかった。
どんな言葉を返すにしても、この店は会話に向かない。
仕方なく代金を卓に置いて、外に出た。
昼間だから、危ないことはなかろう。
店を出ると蒼錬は無言で歩き始めたので、後ろをついていく。が、足が速過ぎた。
「昨夜は少々酔いが回っておりました。言葉が過ぎて申し訳ありません」
先に謝ったのは、足を止めるためだ。
せめて下の者から謝ることで、彼の自尊心を満たそうという打算もある。
しかし思惑通りに蒼錬は足を止めてくれず、放っておくか迷いながら、最後の言葉を重ねた。
「言葉が過ぎましたから、お許しいただかなくても――」
構いません、と続けようとしたところで、急に蒼錬が振り返る。
「あなたのような下賤の者までが、私を愚弄するのですね」
あぁ、油断した。こいつはそういう男だった。
左の側頭部に強い衝撃を受けて転がったとき、ひととき目の前が白くなる。
視界がはっきりしたときには、すでに蒼錬の腕に体を押さえつけられ、地に倒れていた。
足まで使って私の体を押さえ込んでいることに、手慣れた男だと感じる。
いい暮らしに慣れ過ぎた。
人気の少ないところへ導かれていることに気付かなかったなんて。
腰帯を剥ぐように奪われたとき、布が落ちるにそぐわぬ音がした。瞳の端で音の出所を追えば、簪から離れた飾りの玉がころころと転がっていく様が見える。あとで全部回収しよう。
長衣の襟をぐいぐいと強く引かれ、乱暴に肌を広げられたが、私には何の恥じらいも生じないことに笑った。
蝶よ、花よと、育てられてきたどこかの姫君ではないにしても、自分でもどうかと思う。
最初から抵抗せずに時を待つと決めていたのに、私はどうして黙っていられないのか。
「あなたの嫌いな下賤の者の醜い体ですよ」
落ち着いた私の態度を、蒼錬はことの同意とでも受け取ったのか。肌着も剥ごうと必死になって、体を押える力が弱くなる。
けれども、まだそのときではない。
「醜い生まれであろうと、官が気に入る娘に違いない」
吐き気がする。
飛ばされて、酔いが回ったのかもしれないね。
「中嗣があなたに何をしたの?彼は昨日、何も言わずにいてくれたでしょう」
「黙れ。下賤の女の声など要らぬ」
私の肌着には簡単にずり落ちぬように仕掛けをしてあるので、蒼錬もこれを脱がせることが出来ず、舌打ちすると行動を変えた。気持ちの悪い手を肌着の裾から潜り込ませると、私の足に触れ、付け根に向かいゆっくりと滑らせる。
あと少し。不快さに耐え、私は待った。
短い時間であろうに、とてつもなく長く感じるから不思議だ。
その場所に触れたとき、面白いほどに蒼錬は驚いて、瞬間的に手が離れる。
私がその隙を逃がすはずがない。
勢い横に転げて、蒼錬から距離を取った。それから手で地面を押して体を起こし、体制を整える。
蒼錬もよろよろと足を引き、体を起こした。
侮蔑。恐怖。不愉快。
昔よく見た感情の灯る瞳が落ちてくる。
「もう分かりましたね?私などを相手にすれば、あなたの価値が下がるというもの。これ以上の愚かな真似は辞めておくことです」
はだけた長衣の襟を正しながら、足を引いて、さらに距離を取った。
これならどうにか逃げられるだろう。
肌着の袖の中に右手を隠し、これを使わずに済むようにと願う。
「どういうことだ……?斯様な体の女を官が受け入れるなど……」
蒼錬の狼狽振りは面白い。
私も若干興奮していたようで、思いのほか、大きな声が出た。
「えぇ、醜い体でしょう。彼らがこれを忌み嫌うとしたら、結構なこと」
ここで蒼錬の瞳が、かつて知ったるものと完全に重なった。
そうだ、忌み嫌え。私には都合がいい。
「あなたとて良き世なら、そんな目には合わなかったはず。その元たる官と仲睦まじく付き合うなど考えられない」
馬鹿にするな。
「彼らに何の関わりがあるのです?彼らがこの傷を与えたとでも?それに私はこの傷を気に入っています。勝手に悪いものだと決め付けないでいただきたい」
辞めておけ、と心の奥で叫ぶ声がするのに、どうしてか止まらないんだ。
「何故あなたは気付かない?彼らは昨日あなたに対し、対等に、丁寧に、振る舞っていた。それに言い掛かりを付けて、不快な場に変えたのはあなただ」
「そんなことはない!先に失礼を言ったのは、官の方だ!」
違うでしょう、蒼錬。あなたは気付いている。
「失礼に感じたのは、あなたがいつも人を見下しているからでしょう?私たちのような者らを見下し、虐げているからこそ、自分も虐げられているなどと思うようになる。昨日の官の皆様のように、虐げたことのない者は、虐げられるなどという考えをはじめから持たない。あなたはいつも、己の愚かで狭い裁量だけでものを考えるから、おかしなことに――」
蒼錬が真っ赤な顔で腕を振り上げたから、もう一度殴られる覚悟で奥歯をぐっと噛み締めた。
寸前まで目を見開き、上手く当てようと顔の位置を調整する。飛んでいく先も確認し、さぁ、目を閉じて、あとは受け止めるだけだ。
…………おかしい。
痛みの前に、肩に手が乗り、何かに体が引かれた。
鈍い音がして、確かにその腕は何かを殴ったことは分かるも、それは私の頬ではない。
目を開けても、何も見えなかった。だけど私は、この香りと温もりを知っている。
「気が済んだか?」
中嗣の声がいつもより低く沈んでいる。
私が身を捩ると腕の力が緩んだので、胸から抜け出し、中嗣の隣に立った。
ところが横にあることは許せなかったようで、中嗣は足を出し、私の前に立つ。
「本当に殴りたかったのは、私であろう?私に直接怒りをぶつける機会から、逃げ出したのは何故だ?」
血色を失った蒼錬は、何も答えない。
「昨夜は官の家に生まれていたら違っていたなどと抜かしていたな。弱い者に当たるしか出来ない男は、どんな生まれにあろうとも、何も成し得ないと言っておく」
蒼錬は呆然として震えていた。もう誰かに手を上げることはないだろう。
それでも、中嗣が容易く蒼錬に背中を向けたのはどうかと思う。
おかげで私は警戒を続けることになった。
「遅くなって申し訳なかったね。今日終わらせる予定だったのだが、まさか逃げるとは思わず。すべて私の浅慮が招いたことだ」
そうか。だから昨夜の中嗣は何も言わなかったんだね。優しい人だもの。
中嗣はこの場で仔細を語る気はないようで、落ち着き払った様子で羽織を脱ぐと、私の肩に掛けてくれた。
ねぇ、中嗣。後ろから何かされたらどうするつもりなの?だから、宮中に住まう文官様は心配なんだ。
中嗣の左頬が赤くなり、唇の端には血が滲んでいた。
どういう角度で殴られたのだろう。私を庇ってくれたことは有難いけれど、出来れば避けて欲しかった。
なんて言える立場にないね。蒼錬をわざわざ興奮させたのは私だ。
「玉翠には私から説明するから、帰ろう」
背中に手が置かれ、抱き上げようとしているのが分かり、急ぎ断った。どう見ても私より中嗣の方が重症だ。それに私は歩ける。
それでもそうしたいのだと言って聞かないから、少し待って貰った。
やり残したことは二つ。まずは蒼錬。
「蒼錬殿。私はもう染物屋には参りません」
震える蒼錬は何も語らないし、私のことも見ていない。
それでも伝えた。
「染物の楽しさを教えて頂き、ありがとうございます。それから少々言い過ぎたことも、改めてお詫びいたします。申し訳ありません」
蒼錬の体が少し揺れたものの、それでも彼は私を見なかった。
「逢天楼で会ったときには、またご一緒しましょう」
蒼錬が再び逢天楼に来ることはないだろう。それでも言った。
「もういいかな?」
「まだ待って」
落ちた腰帯を回収し、簪の本体と転がった飾りの玉を拾い集めた。
それから壊れた簪を手のひらに乗せて、中嗣に見せる。
「いくらでも買ってあげるよ」
お詫びをする前に優しく頭を撫でられて言われたけれど、嬉しくない。
沢山欲しいわけではないし、これが気に入っているのに。
「修理を頼んでみよう」
どうして何も言っていないのに、中嗣には分かるのだろう?
それから約束通りというように抱き上げられて、中嗣が歩き出す。
待って、蒼錬はいいの?
よく分からないが、問題ないと言うので、任せることにした。どこかに他の官が控えているのかもしれないね。
ゆらゆらと揺らされていると眠くなるのは、この揺れの拍子のせいだ。掛けてくれた羽織が温かくて、余計に眠くなった。寝不足も相まっている。
けれども今日は眠れない。
中嗣の顔の左半分が少しずつ腫れ始めていた。
そっと手で触れてみると、中嗣は嬉しそうに私を見詰める。
熱を帯びているから、手など添えたらなお痛いのかもしれない。それでも中嗣が嬉しそうに微笑むから、道中揺られながらずっと、頬を擦ってあげた。なるべく優しく、痛くないように。
そういえば、手には痛みを払う力があることを教えてくれたのは、この人だったと思い出す。
私の手にも、同じ力があるといいな。