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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第二章 わかつもの
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17.詰めが甘いと叱られましょう


 これまたどうしたものか。中嗣は思い悩んでいた。


 羅生がいないこともあって、いつものお喋りがないのは結構だが、それで仕事まで捗らなくなるのはどういうことか。若き二人の文官は、今日最初に取った書類を手放そうとしなかった。お喋りをしていた方が仕事も捗るというのは、凄い特技だなと感心しつつ、中嗣はどうすべきか迷っている。

 中嗣が急ぎ片付けたい仕事を優先するには、他の仕事をこの二人に任せる必要があった。


「二人とも。昨夜のことなら憂える必要はないよ。いずれこの意味が分かるから、今は目の前の仕事に集中しなさい」


 育てようにも、すべてが終わってからでいいと考えたのだが。

 利雪が顔を上げると、今にも泣き出しそうな美しい顔があって、中嗣は狼狽えた。

 さすがに部下に泣かれたときの対応まで、考えられそうにない。


「中嗣様は、傷付いておられぬのですか?」


 君たちは、傷付いていたのか。という驚きとともに、改めて中嗣は利雪を眺めた。

 私はどうだっただろう。

 あの頃ならば、多少は傷付いていただろうか。


「私は昨夜、自分がいかに浅はかで愚かな考えの元に生きてきたか、痛感しました」


 利雪は重々しく言うが、一方の宗葉はそれほど苦しそうではなかった。だが上の空で、仕事が一向に進まないのは同じである。


「私は自分でもよく分かりませんな。何でしょうな、こう、見ないようにしていたところを抉られたというか、胸の痛いところを突き刺されたような感じです」


 宗葉はまだ己の感情と向き合えていないのかもしれない。


「君たちは、選んだ仕事だけしてきたようだね」

「仕事を選んだことはありませんが」

「あぁ、選んで貰ったと言った方が良かったかな」


 利雪だけが首を傾げた。中嗣はおとなしい宗葉のこともよく観察している。


「それは誰かが私のために選んでくれたという意味でしょうか?」

「そうだね。君たちは誰かがよく選んだ仕事しかして来なかった」

「私は仕事を選ぶように言ったことがありません。誰がそのようなことを?」


 宗葉はやはり分かっていて、何も問わない。


「特定の者とは限らないよ。利の家の君のために仕事を選んでいる、と言えば分かるかな?」

「そんなことが……」


 利雪は家の恩恵を感じて来なかったのだろう。それなりにいい家の権威は宮中にあると目立たない。もっと強い影響を持つ家がいくつもあるからだ。

 そしていつも良い仕事を与えられてきたら、それが特別な対応であることにも気付けない。


「君たちに回される仕事は、基本的に悪いものではなかったはずだ。そういう自覚もなかったかな?」

「悪い仕事とはどのようなものでしょうか?」


 賢い中嗣にも部下の教育は難題だった。部下など取るものではなかったと後悔しても、取ってしまったあとに言うことは許されない。


「私の元に来て、回ってくる書類の質は変わっていよう」

「書類の質……そうですね。重大な案件が多いように思います」


 中嗣は少々後悔した。

 面倒な仕事は自分で対応し、利雪らには彼らに対応出来るものしか回していない。

 そうなると必然的に、良い方にある仕事を回すことになる。 


 少しずつ変えていかねばならないことを悟るも、まだ早いということも中嗣にはよく分かった。

 かの人から人を育てる方法を学んでおけば良かったと後悔するも、やはり遅い。


「重い仕事が回ってくるのは、私の今の立場もあるがね。君たちに今、仕事の質を語っていく時間はないから……そうだね。少し若い頃の話をしようか」


 上位の官たちの話に付き合わされて、若い頃を語るものではないと悟っていた中嗣は、今までに若い官にこの手の話をしたことはない。


「私は家の後ろ盾などなかったものでね。位が低い頃には、街の見廻り役や、貧しい者らから無理に税を取り立てるような嫌な仕事もしていたのだよ。当時は街で酷い言葉を直接掛けられるようなことはよくあることでね」


 商人は特に文官を嫌う。稼いだ金を奪う敵のように見えるのだろう。

 あからさまに嫌な態度を示す者、回りくどい嫌味を重ねる者、聞こえるかどうかという距離で悪く言う者。それから反対に、作り笑顔で、良い言葉を連ねる者たち。賄賂などを与えようとする者も多々あったし、それを受け取る官らが居ることも知っている。

 そういった者らに、最も若い頃に出会ってきた中嗣は、官という仕事に理想を描き過ぎることがなかった。ある意味でそれは幸いである。期待がなければ、傷つかない。


 利雪らの方がずっと可哀想な状態にあるのかもしれないと、中嗣は思い至った。

 知らないままで終われば幸せに生きられるが、そうするには宮中に引きこもっていなければならないし、いつまでも誰かに守られている必要がある。

 それはいつまでも続く保証があるものではない。家がある日突然消え失せることもあるし、勝手に妬まれて、官位が廃されることもあろう。


「中嗣様は、民が皆、虐げられているように感じていると思いますか?」

「皆ではないが、そう思っている者が多くいるのは事実だ」


 自分が世のためにとても良い仕事をしていると、利雪は信じていた。世の人に喜ばれることをしている自信があったのだ。それが今、根底から大きく揺らいでいる。

 宗葉は違う。世の不条理を知っていて、それを有難く受け入れて生きていくつもりであったはずだ。それでも心のどこかでおかしいと感じていたから、昨夜のようなことで心が揺らぐ。


 中嗣は部下をそのように分析したが、人の心の中までを正確に読み取れる人間はいない。自分のことさえ完璧に分かることはないのだから。


「昨夜武官らに指示する内容を聞いておりました。もしや今日にでも動かれるのですか?」


 昨日は宗葉に少しの手伝いを頼んでいた。

 利雪には事後説明にすると決めて、ただ純粋に染物を楽しませている。蒼錬を前に己を偽ることが出来ないと判断したからだ。


「そうだね。何か問題があるか?」

「問題はありませんが……」


 宗葉は情けを掛けたくなったのだろう。

 少しの猶予か、あるいは厳罰、もっと言えば見過ごしたくなったのではないか。

 潰れかけていた染物屋を継いだ蒼錬に同情し、ようやく見通しが立って、やり直そうとしているならば、手を貸してやりたいとでも思ったのだろう。

 しかしこれは文官として許されない。


「宗葉。私情を挟んではいけないよ。私は出掛けて来るが、君たちはここに残り、任せた仕事を進めなさい。いいね?」


 そろそろ店が開く時間だ。

 揃えた資料を持って、立ち上がろうとしたところに、声が掛かった。


「中嗣さま!武官らにしてやられましたぞ!」


 羅生が事前の声掛けもなく、部屋に飛び込んでくる。羅生の息が上がっているのは珍しい。


「逃がしたのか?」

「おっしゃる通り。蒼錬が消えました」


 中嗣は涼やかに笑いながら、瞳から色を消した。


「私はそうは聞いていないよ。()()()()()()と聞いている」

「見た限り、故意ではないと思いますな。表口で張っていたようですが、裏から下男が仕事に出たようで。その際に謀られたとか。彼らの取り乱し様が演技ならば、見直せるというもの」

「よく分かった。それで君は?」

「面目ない。向かいの茶屋におりまして、裏口までは手が回らず」


 表面上は冷静さを保っているように見えたが、中嗣は焦っていた。

 私情を挟むなと部下に伝えたばかりなのも、間が悪い。


「顔を出す場所は一通り当たりましたが、姿が見えず。見掛けたらその場に留め連絡するように指示も出しておりますが、すでに街を出ているかもしれません」


 それならばいい。全土に指名手配するほどの重罪人ではない。もう二度とこの街に戻ることは許さないが。

 それより借金の方が問題となって、そちらに命を狙われるだろう。蒼錬が逃げたとなれば、血眼で探される。


 蒼錬は逃げたことで命が危うくなることを分かっているはずだ。

 自暴自棄となった男が何をするか。


 華月はもう自分から蒼錬のところへ行くことはない。

 とすれば蒼錬からだが、こうなれば堂々と写本屋に顔を出すことは考えにくい。玉翠も警戒している。


 だから問題はないと己に言い聞かせるが、得たいの知れない不安が膨れていく中嗣だった。

 

 玉翠にはことが終わるまで、よく見ておくように言ってある。されどあの子は、玉翠から逃げるのが上手い。最悪、二階の窓からでも逃げていく。他に見張りなど付ければ、あの写本屋からも去る娘だ。行く先が妓楼屋であれば問題ないが。


 様子がおかしかったあの夜、一人で飲みたかったと言っていたことが気に掛かる。

 また同じ状態に戻っていたら、今日も一人で飲もうとするのではないか。あの日は相当酔っていたから、早い時間から飲んでいたに違いない。

 蒼錬がその場所を知っている可能性は十分にある。

 あの日の蒼錬は、しばらく私たちの後ろを追っていた。その執拗さから異常を感じ、それもあって会いに行く日を増やしていたが。


 武官が失敗するのは、誤算だ。まさか表口しか見ていないとは。逃げないようによく見張っておけと言ってあったのに。

 中嗣が武官の部下も欲しいと願ったのは、初めてのことである。今まで部下という概念のなかった中嗣が、部下を得て変わり始めていた。


 しかしながら、此度の失態は武官のせいではない。明らかに自身の過失だ。

 昨日の時点で取り押さえておけば。それでも遅いことは、中嗣には分かっている。

 最後に遊ばせてあげようと、その機を設けるためにことを先送りしたのだ。もっと前から踏み込んで、取り調べを行っていたら、華月は昨夜のような不愉快も感じずに、何も知らないまま終わっていただろう。

 私情を挟み過ぎたことを反省し、自分も老賢人と同じであると気付く。


 私が巻き込んでどうする?


「あの子が一人で飲む店を知らないか?」


 利雪らは首を振った。羅生も知らないと言う。

 それは、そうだろう。一人で飲みたいのだから、あの子が誰かを連れて行くはずがない。

 前に会った場所を思い出せ。そうだ、向こうからやって来た。最悪だな。

 探すべきは瑠璃川の東岸。治安の悪い場所だ。


「私は出掛けるが、君たちには指示通り動いて貰うよ」


 利雪には宮中に留まらせ、仕事を任せることにした。

 宗葉には先に蒼錬の店に行って貰い、武官らに話を聞くと共に、諸々の対応を指示しておく。

 羅生は華月の捜索に付き合わせることにした。


 何故かは知らないが、あの子は写本屋にはもういないと分かる。間違いなく出掛けている。

 必ず見付け、保護するよ、華月。

 だから自分から危ないことだけはしないでくれ。



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