16.前言を撤回します
このまま解散かと思えば、日が暮れたところで皆で料理屋に向かうことになった。
中嗣がご馳走してくれると言う。
一人だけではないので、付き合うことにする。理由が必要なら、いつもの紙が無駄になるお詫びでいい。
官が選びそうな落ち着いた料理屋の個室で振舞われるのは、上等な酒と料理だ。贅沢だなと思いつつ、今日は有難く頂いた。
酒の席で、お椀に山盛りの白米と共に、焼き魚をおかずとして頬張る宗葉にはぎょっとしたけれど、蓬の天ぷらが美味しくて夢中で食べていたら、隣に座った中嗣の生温い視線が気になり、早く食べるようにと促しておく。中嗣はそら豆の天ぷらばかり食べながら、もっと色々なものを食べろと私には他の料理も勧めてきた。中嗣こそ他の料理も食べた方がいい。
だけど美味しそうな顔をしていて、いつものあの胡散臭くて嫌になる笑顔が見えないと、なんだか安心する。
しばらくは楽しかった。いや、どうかな。私は楽しんでいたけれど、蒼錬は違ったのかもしれない。
気が付いたときには、蒼錬が染物屋の経営がいかに大変かという愚痴を語っていた。借金を重ね、染物屋を手放しかねない状態だったことまで話している。そうかと思えば、先代から先の見えない染物屋を継がされた悲運を語り、儲けの少ない染物屋になんか生まれたくなかったと言い出した。
私も中嗣もこれを聞かず、酒と食事を楽しんでいたのだから同罪だろう。
真面に話を聞いていた宗葉と利雪が同情の言葉を口にすると、蒼錬の不満が爆発した。
官から何を言われようと、蒼錬は満足しなかっただろうから、これは蒼錬が悪い。
「あなたたちに何が分かると言うのですか!」
ここで利雪は余計なことをさらに言った。
気遣いのつもりでも、そうは伝わらない。
「お聞かせくだされば、分かるように努めます」
助けを求める気はなかったけれど、どう出るか気になって中嗣を見たら、何にも気にせずまだそら豆の天ぷらを食べていた。どうしてだ?
これはもう酔いのせいにして解散するよう促し……
「民を虐げている皆さまには分かるはずがありませんよ。我々の苦労なんて。ねぇ、華月殿」
早々に巻き込まれた。
これは聞こえなかった振りが一番だな。利雪たちは可哀想だけれど、助ける義理はない。
そう思っていたのに、「あなたも身分ある方々はお嫌いだと常々言っておられましたよね?」と言葉を重ねてくるではないか。
確かに妓楼屋で、そんなことを幾度も呟いてきたかもしれない。誰かが官への愚痴を零せば、躊躇なく話に加わった。けれどもそれは広義の話であって、官個人への想いはない。
私が嘆くは世の不条理。彼らが官であることもまた、世の不条理であって、個人でどうにか出来る話ではない。
理不尽に個人を攻撃したことがないとは言えないから……駄目だよねぇ。まだ謝ってもいないや。
いけない。今は蒼錬だったね。
分からない者が相手のときには、分からない振りが一番。
「はて、そのようなことを申したことがありましょうか?」
ねぇ、今、笑わなかった?
隣に座る男を睨んだら、一層喜んでいるように見えるのだけれど。何かそういう趣味をお持ちで?
それは嫌だな。これまで睨んできた意味がないし……気持ちが悪い。
「華月殿も、官の皆様の前では普段とは様子が変わってしまうのですね」
喧嘩を売ってきたねぇ。
買いたくはないんだけどなぁ。
「世を生きるうえで当然の対応ですよ。されど、その身分ある文官様が聞くと言ってくださったのですから、蒼錬殿の思いのままを申してみれば宜しいのでは?」
投げ返したつもりだった。勝手に揉めてくれと。
「ではお言葉に甘えましょう。どれだけ商いをしておりましても、多くの税を奪われて、潤うところが御座いません。私たちは官の皆さまを養っているというのに、何故いつも斯様に虐げられねばならないのでしょうか?」
「私たちが皆さまを虐げているのですか?」
利雪は素直に驚いていた。純粋さは利雪の長所かもしれないが、少しは考えてから発言した方がいい。あるいはもう外に出ず、宮中に留まるべきだ。清らかなまま生きていくならば、それがいい。
「虐げていることにも気付かないとは。皆さまはとても良い暮らしをされてきたのですね」
蒼錬は代わりに得ているものには気付かない。
言ったところで分からないだろう。
この辺で辞めておいてくれたら良かったのに。
「皆さま方は私のような者らから奪った金で、いつもこのようないい店で食事をしておられるのでしょう。当然のように白米が出て来ますけれど、庶民などせいぜい麦飯が食べられるくらいですよ。ねぇ、華月殿?今宵とて、どれだけの者が食べることも叶わずに、飢えて亡くなっているか」
また巻き込まれた。気絶させることが一番……中嗣が嫌な顔で見ている。目が笑っていないのだけれど。何故分かった?
「ねぇ、華月殿。あなたも同じように思いますよね?」
蒼錬はどうしても私に意見させたいらしい。
それなら仕方がないね。空になった酒杯を置いて、蒼錬に向き合った。
醜い顔をしているのは、お互い様なのだろうか。
「飢えて亡くなる者が居ると知りながら、蒼錬殿もまた見て見ぬ振りをしているのでしょう。今宵ここで酒を飲み、料理を楽しんでいる時点で、我らも虐げる側にある者です。いずれも同じなのですよ、蒼錬殿」
不満そうな顔を見ていたら、なんだかむかむかしてきて、さらに言葉を吐いていた。
良くないと分かっているのに、止まらない。
「あなたは誰かを助けたことが御座いますか?貧しい者を憂いているなら、その少ない財を投げ打って、飢えて亡くなる者らに配ってみたら良いのです」
ほら、最初の予想通りだ。
蒼錬の怒りは私に向かう。
「私が官の家に生まれたならば、そうしていたでしょう。有り余るお金を持っていたのであれば、そうしますよ。けれども私はそうではありません。周りに施しを与えるのは、恵まれた境遇にある者がすべきこと!私はここにいる皆さんがそれをしていないことが問題だと言っているのですよ。何もしていないのに、ただで金を奪い、贅沢三昧に暮らしているのですから!」
それは違う。蒼錬はいくら富を得ても、誰も助けない。
「蒼錬殿とて、妓楼屋で飲むだけの十分な富をお持ちでしょう」
「私には、たまの贅沢も許されないと言うのですか?」
「たまの贅沢と言いますか。まぁ、いいでしょう。その贅沢を一度我慢して、誰かに施してきてはどうです?」
「それは豊かな者がすればいいと言っているのです!」
「私からすれば、あなたも十分に豊かな人に見えますが?」
「私のどこが……」
言い淀んだのは、気付いているからだ。
「庶民にも身分差がありましょう。それをあなたは、ここにいる文官様らよりもずっとよく理解しているはずですよ」
にっこり笑ってやった。
私を巻き込んだのは、あなただ。
「あなたは私のような下賤の者らを助けたいと願ったことがあるのでしょうか?麦飯と言いましたが、彼らにはそれも贅沢品。あなたはよくご存知ですよね?そのような身のない者らを忌み嫌ってきたのでしょうから」
本当は、私のことも忌み嫌い、見下していたのでしょう?
「そういった身の上の、下男や下女を雇い、働かせています」と言った蒼錬の表情が強張っている。勝った、と思ったが、別に勝負をしているわけではない。要はそろそろ黙れと伝えたいだけである。
「店の下働きの者たちを、あなたと同じように扱っていると?そうではないでしょう」
染物屋で糸を縫い付けてくれた下女の容姿はどうだった?
麻の長衣は薄く、この季節にはまだ寒かろうに、継ぎ接ぎだらけで、沢山の染みも付いていた。
蒼錬がいつも暖かそうな木綿の衣装を身にまとっていることは、別に構わない。
問題は、彼女が染物屋で働いているという点。商品に手を出せないとしても、それなりの衣装を贈ることなど容易く出来る立場にあるのに。自分で縫えと、余り布を渡すだけのこともしていない男が、貧しい者に施せと語るとは。
「ならば、華月殿は悔しくないと?」
話の向きを変えようと試みた彼の顔は、醜いものに向ける目をしていた。
この目に慣れているから、今さら何の感傷も覚えない。
その視線を向けたまま、蒼錬は私だけに言った。
「良き世にならぬのは、官のせいでしょう?生まれの違いで、我らは何も出来ないというのに、その官らは斯様に民を虐げるばかり。悔しくならぬ方が無理というもの」
馬鹿な男だ。そう簡単に良き世が出来たら、羅賢殿がとうに作っている。そもそも良き世とはなんだ?
「では蒼錬殿の考える良き世とはどのようなもので?」
「ですから、弱き者が虐げられない世です」
中嗣が止めてくれないのは何故だろう。隣を見ないようにしているせいで、彼が何を考えているのか分からない。
「虐げているあなたが言うと?どこまでも他人任せで結構ですね」
利雪や宗葉も止めないのはどうして?黙って聞いていないで、そろそろ止めてよ。こっちはもう止まらないんだから。
「あなただって虐げている側ではありませんか?そうです。あなたも妓楼屋に足繁く通って、いつも楽しく暮らしていらっしゃる」
「えぇ、ですから。私もあなたも変わらぬと申しました」
「あなたの方こそ、そのような者のことをよくよく分かっているはずだ。それで見て見ぬ振りをしてきたなど。私より余程酷いことをしている」
たぶん、笑っていたのだと思う。蒼錬が怪訝に眉を寄せたから。
「元に戻りましたね、蒼錬殿。だから同じだと言ったのです。虐げている者が、虐げている者を非難し、あろうことかその身を羨み、悔しがる。さて、馬鹿げた話もそろそろ終わりになさっては?」
「そのような言葉で、自身の酷いところを誤魔化すのですか?」
蒼錬の言葉は、私を苛立たせるのに十分であった。
「えぇ、酷いことをしていますとも。よほどいやらしい生き方をしているでしょう。そうですね。共に過ごした者たちは、あの世でも、この世でも、どれだけ私を恨んでいることか分かりません。あなたも私を恨めばいいんですよ。いくらでも恨み、憎んでください」
止まらなくなった。
「生まれがいいから、良き世を作れ?それならあなたは染物屋に生まれたのですから、染物の腕を磨き、良きものを世に生み出さなければなりませんね。それを嫌だと思っていたのでしょう?染物屋など潰れてしまえと思っていたのではありませんか?あの借金はあなたが作ったものですよね?騙された?いいえ、あなたは自ら進んで店を潰そうとしていました。あの借金はそういう種のものではありませんし、あなたはそこまで愚かではない。店を潰して、すべて世のせいにして、逃げたかった。これが真実ではありませんか?それを何です?官に生まれたからには、こうしろ、あぁしろと。己で出来ぬことなど、申されますな」
口が過ぎたと気付いてももう遅い。
蒼錬が震えているのは、怒りのせいだ。
中嗣の顔が怖くて見られなかった。呆れているだろうなぁ。