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写本屋には変人が集う  作者: 春風由実
第二章 わかつもの
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14.蝶が誘うは地獄かそれとも


「胡蝶!」


 叫びながら中嗣の肩を手摺のように使い立ち上がると、華月は現れた遊女の首に抱き着いた。

 中嗣は飛び立つ華月を軽く手で支えつつ、空気になるよう徹している。

 そうだ。気付かれなければいい。私は今は空気、空気だから……頼む。


「あら、華月。今日はとても気分が良さそうね?」

「胡蝶に会えたからだよ」

「まぁ、嬉しいわ。でも美鈴がいるわよ」


 華月は慌てて胡蝶から離れ、再び現れた美鈴に飛び付いた。

 その対応は、恋仲のように見えるのだが……。空気となった中嗣は複雑な気持ちも押し殺して、なお空気であるよう努める。


「いつも胡蝶姐さんのことばかり大事にするのね」

「胡蝶は大事な友だからだよ」

「それなら私は?」


 抱きしめていた美鈴の耳元で、華月が何を囁いたかは分からないが、白粉(おしろい)を越えるほどに美鈴の顔は上気した。


 違うよね、華月?まさか違うよね?

 中嗣の気持ちなど知らず、二人はまだ耳元で交互に何かを囁き合っている。

 内容がとても気になるが、今は空気なので、中嗣はおとなしく下を向いたのだが。


 見なくとも、嫌な視線が降りて来るのを感じた。

 逃げ出すか。うん、おかしいよな。急に走り出せば、それはおかしいが……やはり逃げるべきでは?あの遊女から華月を奪い、そのまま抱えて走れば……

 どの考えも虚無となる。

 恐ろしいことには、落とした視線の先に美しい衣装に隠された膝があった。


 頼むから、座るのは辞めてくれ。

 そう願うのだが、もう逃れられないことを悟る。


 中嗣は覚悟を決めて、顔を上げた。涼やかな笑顔も、凍ったようにしっかりと張り付けておく。


「お久しぶりですわね」

「えぇ、まったく。長く会わずにいた方が、私たちも随分と良き仲になれましょう」

「珍しい方がいらしているとお聞きして、わざわざ広間まで足を運んだというのに。相変わらず、冷たい御方ね」


 周りからの視線が痛い。強烈な嫉妬。怨念さえ感じる。待て、殺気を放つ男は誰だ?私は明らかな敵意には容赦しない男だよ。今は何もされないことを喜び、覚えておくといい。まぁ、今は無理だからな。

 おや?いつの間に、宗葉はそこにいるのだ。まさか、この遊女が本命などということはあるまいな?これだけは辞めておけ。地獄を見るぞ。だから、そんな目で見るな。

 中嗣の激動の心中も、当然ながら涼やかな笑顔が見事に隠し、宗葉は恨めしそうに上司を見ていた。


「華月も今宵はいい気分のようね。あなたがいると楽しそうだわ」


 どういう意味だ?

 褒めて……いるわけがないか。

 ここはすべて流すとしよう。


「それは良きことで」


 広間の男たちは胡蝶に見惚れつつ、なお一層強い嫉妬の念を中嗣に向けた。

 それによって、中嗣の心中は余計に乱れ、最悪の状態となる。


 羨ましいだと?羨ましいのは私の方だ。誰でもいいから、この場を変わってくれ。

 よく見ろ。何を見惚れている。恐ろしい顔をしているだろう。笑っているのに、瞳の奥に何の光も宿っていないのだぞ。何故この顔が怖くないのだ?

 自分のことでは?と誰かが聞いていたら、指摘していただろう。まぁ、聞こえるわけがない。


 そうだ、華月がいる。ここは華月に助けを求めよう。

 中嗣はようやく窮地から救う女神の存在を思い出した。

 ところが中嗣()()の女神は、胡蝶と共に現れた禿たちに遊ぶよう懇願されていて、縋るような中嗣の視線に気付かない。


 胡蝶が妖艶な笑みを浮かべれば、広間のあちこちからため息が漏れた。

 どの谷底よりも深いため息を吐き出したいのは、中嗣の方である。


「札遊びをする人、集合!」


 華月が大きな声で号令をかけた。

 やはり女神だ!さすが華月!

 手を上げようとした中嗣は、胡蝶に刺すような視線を向けられて、固まった。


「お話がありますのよ」


 中嗣が身を引こうとも、胡蝶は美しい膝行で近付いてくる。

 それで止まらず、わざわざ体を傾けると、今度は中嗣の耳元に口を寄せた。


 狂ったような憎悪の念があちこちから飛んでくるし、情けなくもまだ逃げ出そうとも考えているのに、中嗣はなお涼やかな笑みを張り付けていた。

 さすがというか、もはや残念というか。


「近頃華月がどなたかと楽しくしているようだけれど……」


 中嗣の笑顔が一瞬崩れた。うっかり真剣な顔をしてしまったのだ。

 語り終えた胡蝶が体を離すときには、中嗣は変わらず涼しい顔で笑っていた。


「ほぅ。それは面白いね」

「そうでしょう。あなたのお耳に入れたかったのよ」

「礼を言っておくよ」

「要らないわ。あなたからは何ひとつ受け取りたくないの」


 この会話が宗葉らにどう映ったかは分からないが、部下たちの明日の仕事は期待出来ないな、と中嗣は思った。

 部下たちとどう遊んでやろうかと考えながら、もっと真面目なことを考える。私も多少酔っているのだろうかなどと自分を恥じ、中嗣は愛しい人を眺めた。


 禿と言っても幼い少女。その少女たちが参加しているというのに、「掛け金はどうする?」という華月の良からぬ声が聞こえてくる。

 いい大人たちは、禿が負けたときどうするのか。禿の分は誰かが肩代わりする、あるいは、禿たちが胡蝶の名の元に皆に酒でも振舞うのか。

 華月が負けて小遣いを失ったあとには、また宥めてあげるとして。今日はどんな言葉を重ねよう。

 例の男が、いつの間にか札読み役として参加していた。華月がこれを気にしている様子はない。


 けれども華月は私を巻き込んだ。何も知らず、意味もなく、私を誘うような子ではない。

 いつも理由があって……それは悲しいな。

 今宵甘えているのは、素直な華月の気持ちだと想いたい。

 

 涼やかな笑顔でありながら、酷く冷え切った視線で男を射抜いていることに、自分では気付かないものである。

 ぶるっと人知れず震えたのは、何故か宗葉だった。宗葉もまた、ちゃっかりと札遊びに参加している。

 利雪は男たちの関心が遊女へと流れたことで空いた席に陣取り碁の勝負中で、羅生はただ遠巻きににやつきながら中嗣を眺めていた。



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