13.極楽浄土にいさせてください
しつこいほど華月の頭を撫でていたら、さすがに飽きたのか、華月が笑わなくなったので、中嗣は一度手を引いた。
華月の腕に絡まる遊女は嫌な目で中嗣を見なくなったが、負けないと言うように華月の肩に甘えるように頭を預けている。
これには複雑な気分となる中嗣だった……。
「先ほどは、碁を打たれていたのですね?」
中嗣が落ち着くときを待ちかねていたように利雪が尋ねると、華月は嬉しそうに頷いた。愛しい人がただ酔って上機嫌であることに気付いたが、気のせいだと思い過ごすことにして、中嗣は利雪を眺める。
利雪も気を遣っているのだろうか。いや、彼に至っては偶然だな。中嗣は簡単に結論付けるも、利雪に対しては安心していた。字が絡まない限りは、距離を取って礼節を重んじる男だ。字が絡まない限りは。
「あの方は、酒屋の大旦那でね。時々いい酒を持って来て、皆に勝負を挑むんだ」
勝利すると、その酒が貰えるという。気前のいい酒屋の大旦那だ。
大広間はまだ賑わいを見せていて、「今のはいい手だ!」「あぁ、それは駄目だぞ」「なんと、そう来たか!」とわいわい言う声が聞こえている。
「あの方はなかなか強いよな。俺も二勝五敗で負け越している」と羅生が唸り、「華月。もう一勝して、我らの分の酒も貰って来てくれよ」と宗葉は願い出た。
通い慣れているようだな。しかも華月に気安く甘えるなど。
中嗣は後のためによくよく部下たちの言動を記憶しておく。質が悪い。
「私は酔うと負けちゃうから、もういいの。それにあの人は酔うほどに強くなるからね」
「それは面白そうだ。どれ、私も一つ手合わせを願おうか」
中嗣が言ったとき、華月はこれでもかと目を丸くして見せた。
そこまで驚かれたことが、中嗣には心外である。
勝負事を避ける男だと?まさか碁に弱いとでも思われている?
それもこれも、華月に対しては負けっぱなし、いや、戦う前から負けるので勝負にさえならないという、華月に向ける普段の態度が原因であるという点に、何故か思い至らない中嗣であった。
「中嗣が碁を打つの?」
「これでも結構強いのだよ」
「知らなかった。対局する?」
「それは今度ゆっくりと。酔わぬ君を相手にしたいからね。今宵はその大旦那殿を相手に私のいいところを見せてあげよう。君もおいで」
中嗣が手を取って立ち上がらせても、華月は嫌がらず、されるがままだ。
中嗣としては、もう勝ったも同然である。誰と何の勝負をしているのかは、本人にも分かっていない。
ちょうど集団の中央で前の勝負が終わった様子だったので、中嗣が「頼もう」と声を掛けると、人だかりがさっと空いて、行く道を作った。中嗣は華月の手を取ったまま、堂々人だかりの中央へと歩き出す。
碁盤の前にいる老人は、かつてよく知る人に似た優しい顔で笑っていて、思わず一度華月の顔を見た。懐く理由が分かってしまう。
二人が座ると、勝負はすぐに始まった。
いやはや、これはどう説明しようとも、快勝である。
笑えるくらいに中嗣は気持ち良く勝った。大旦那から「参りました」の声が聞こえたのは、今宵のどの相手よりも早く。
中嗣が自画自賛するほどに、さっぱりとした勝利だった。
悪いが私はとある老人から、碁の腕を叩き込まれていてね。しかも私は、案外と負けず嫌いなのだよ。
中嗣がなお自分を称賛しながらひっそりと笑い、華月に顔を向ければ、その華月は今までにないほど輝く瞳で中嗣を見ているではないか。
悶えて倒れそうになる中嗣だったが、ぐっと堪えて、対局の礼をして、勝利の酒を受け取ると、再び華月の手を取って集団の中から抜き出ることにした。歩みの間に周囲から英姿を称されても、何でもないように涼やかな笑顔で答えていく。
二人は元いた広縁に並び座った。側にはまだ誰もいない。
「凄いよ、中嗣。凄かったね。中嗣は凄いんだぁ」
凄いとしか言わないのは、酔っているせいだろう。語彙力が足りない職業にはない。
これに中嗣は胸を押えてしまうほどに喜んでいた。
「中嗣様は、これでとても賢いんだぞ?」
何故来るのだと恨めしく思いながら、褒められて悪い気はしない中嗣だった。
いや、華月のおかげだろう。羅生の揶揄する声も、今や中嗣の耳にはそよぐ風音にもならず。
「凄いねぇ。凄かったぁ。中嗣は凄いんだねぇ。本当に凄いや。あぁ、凄かったぁ。ねぇ、それは美味しい?」
最後は酒の話に変わっているが、中嗣はこれほど華月に絶賛されたことがない。
たとえ凄いとしか言っていないとしても、中嗣には最高の誉め言葉で、嬉しくて連れ去りたい衝動に必死に耐えているというのに。
今度の勝利の酒は、瓶で渡されていた。
華月はその瓶を、細い指でゆっくりと撫でたのだ。
体の軸に沿ってぞわりと這うものを感じた中嗣は、思わず瓶を強く握り締めてしまった。
心の叫びは、よもや外に出そうだ。
それでも中嗣はなんとか平静を装い、装い切れていないような気もしながら、華月に笑顔を向けた。
「少し、飲んでみるかい?」
少しと言ったのに。華月は中嗣から酒瓶を奪うと、すぐに口を付けて勢いよくそれを傾けた。中嗣は盃を貰おうと人を呼ぶつもりだったのだが、華月を制することも間に合わない。
瓶から口を外すと、ぷはぁっとまた気持ちの良い音を漏らして、華月はしんなりと頷いた。
「これはいいお酒だね。凄いなぁ。中嗣は凄いや」
「そんなに私は凄かった?」
「うん、とっても。もっと飲んでいい?」
いいよ、と伝える前から、華月はまた酒瓶を傾ける。ごくごくとよく喉が鳴るも、普段なら止める中嗣は笑顔で華月を眺めてしまった。
今日は特に美しい。いつも美しいが。
と想う男は、中嗣だけだ。
元から特別好まれるような容姿でもなく、この酒の飲みっぷり。ましてや遊女のいる妓楼屋で、周りに中嗣と同じ熱を持つ男などはおそらくいないが、中嗣は時折周囲を見渡して敵がいないか確認していた。もちろん、隣の華月には感付かれないように細心の注意を払って。
この男は能力の使い方がおかしい。
「待て、華月。その辺で辞めよ。我らの分も残しておいてくれ」
羅生が図々しくも言うものだから、中嗣は「君らにはやらん」ときっぱりと突っ撥ねた。
じとっとした恨みがましい目で羅生に見られるも、中嗣は思わせぶりな視線を先までいた集団の方へと向ける。
自分で勝ち取って来いという意だ。
これが部下たちの闘志に火をつけてしまったようで。羅生も、利雪も、宗葉も、順を競うように、大旦那に勝負を挑んでいく。
おかげで邪魔者が消えて、中嗣は満足していたし、部下たちも楽しそうだ。
酒屋の大旦那は、どれだけの酒を運んで来たのだろう。供の者らも大分苦労しているのではないか。
彼の傍らにはまだまだ酒瓶や瓢箪がいくつも並んでいたから、朝まで勝負を楽しむつもりに違いない。樽で運んで来た方が楽ではないか?と考えた男は、中嗣だけではなく、今までにも何人もいるが、大旦那はどうしても勝者に酒を手渡したかった。
面白いもので、一局はあっという間に終了となる。
思考する時間が許されず、相手が打ってから間を開けずに次の手を打たなければならない。
長くない夜の間に出来るだけ多くの勝負を願うと、これが暗黙の了解となったのだろう。少しでも悩もうとすれば、「早く打て」と叱咤する声が四方から飛んだ。
勝負が終わるたびに上がる歓声は、もう何度目か。
それでも中嗣の対局のときを越える声はまだ上がらない。
中嗣は思い出していい気になると、再び華月の頭を撫でてみた。
「はぁ、凄いねぇ」
華月はまだ言っていた。碁が凄いのか。酒が凄いのか。もはや分からないが。
「私も飲みたいな、華月」
「あ、ごめんね。沢山飲んじゃった」
「まだ飲みたいなら、もう一勝負してきてもいいよ」
「うぅん。もう大丈夫。お腹がいっぱいだから」
そういえば、遊女がいない。
どうせまた隣に来るだろうと思っていたが、大広間から消えたようだ。
華月からたびたび遊女に関する物騒な発言を聞いていた中嗣は、念のため気にしておくことにした。
「美鈴がどこに行ったか?知らないけど、今日は指名していないから、客が入ったのかもね」
いつもは指名しているのか?それはまた……。
「嫌だなぁ。中嗣まで。私にはそういう嗜好はないよ」
華月は笑って首を振るが、どうもそうは見えない。
それで聞いたところで、華月はこうやって笑い、あの遊女に関してはそれ以上説明しないのだ。
だから中嗣もこれ以上は触れないでおく。色々な意味で心配ではあるが、華月の気分を害してまで聞き出す気持ちはない。
「華月は私がここに来ても、嫌な気持ちにはならないか?」
「ん、凄い」
会話にならないが、まぁいいか。
許されたと思っておこう。
中嗣は酒を飲み、また華月の頭を撫でた。
可愛いな。しかし、飲み過ぎだろう。酒瓶の中身が、半分もないのだが……。
酒を飲む中嗣を、華月がじっと見つめている。
「まだ飲みたいの?」
「うぅん。凄いなぁって」
「酔ったねぇ、華月」
言いながら手を滑らせて、触れたかった頬を撫でてみる。
気持ち良さそうに目を細めた華月は、甘える猫のようだ。
酔っているだけで、こうも素直になるなら。これからは共に飲むことにしよう。
そうだ、羅賢殿もいないのだから――
「酔っていないよ」
酔った者は一様にそう言うのだ。
中嗣から笑い声が漏れる。
「中嗣も楽しい?」
「あぁ、とても楽しいね。今宵は素晴らしい時間だ」
酔っていつも以上に可愛い君が側にいるからね、とは言わない。
「中嗣も時々ここに来たらいいのに」
これは嬉しい。自分から言ってくれるとは。
「来ていいの?」
「どうして駄目なの?」
不思議そうに見上げられて、これまで妓楼屋に来るなと言われたことはないと気付く。
来なくていい。会わなくていい。無理はしなくていい。いつもそんなことばかり言われて、嫌われているかと思っていたが、今宵は嫌われている様子がない。
やはり気遣いなのか。
中嗣がまた頬を撫でたら、華月は目を細めて笑った。
「華月、君も私も楽しいと分かったのだから、これからは私と共に……」
可憐な鈴の音が響いた。中嗣の背中に一瞬で嫌な汗が滲む。
広間の雰囲気は一変していた。
集団にいた男たちが、碁盤から目を逸らし、鈴の音のした方へと一斉に顔を向けている。大旦那と対局していた男も例外ではない。
男たちの欲望の籠った視線は、異様な熱気の塊となり、ここが花街の妓楼屋であることを思い出させた。
中嗣はこのまま華月を抱えて逃げようかと考える。
やはり妓楼屋は駄目だ。華月とは別の場所で飲もう。
しかし今宵はもう逃げられない。
頼む。あれだけは来ないでくれ。
中嗣の願いは、直後には儚く散っていた。